樹翁
久しぶりの投稿です。サークルの冊子に載せたものです。
鳥の羽音が静寂を割るように響き渡り、巨大な影が空中に躍り出る。
緑の葉の揺れる音は波紋の如く伝播しながら、羽音が静まり返った森に一滴の墨のように浮き立つ。一羽の鳥が飛び立ったことは瞬く間に周囲の木々が知るところになった。木々がカサカサと枝の先を揺らして囁きあう。
――また、鳥が旅立ったね。
ひそやかなその声に、まだ年若い青々とした葉を月光に照らした木が応じる。
――この森もどんどん静かになってゆく。いい兆しなのか、悪い兆しなのか。まだ若い僕には判断がつかない。
枝の先を垂らして、若い木はしゅんとする。それを見た他の木は体から漏れる酸素を触れ合わせながら、どこか心がざわめくのを隠せなかった。何か言葉を掛けようとして果たせずにいた。その時、木々たちの背後から低く鳴動するような声が周囲の空気を震わせた。
――そう悲観することはない。鳥が旅立つのは自然の摂理、誰のせいでもない。むしろ鳥の旅路を祝福することだ。鳥たちにいい風が吹くように、我らは祈るのみさ。
――……長老。
若い木が目を向けた先には、この森の中央に位置する巨大な木があった。他の木々の三倍はあろうという巨大な幹に、太い枝を天へと縦横無尽に伸ばしている。まるで空を掴むようなその威容に、若い木たちは畏れ多くなって口を噤んだ。長老、と呼ばれる木は彼ら若い木が生まれる遥か以前より存在していた。長老の記憶は膨大で、若い木は想像も及ばない天変地異の話や、動物たちとの関わりをよく話した。それに耳を澄ませるたびに、森全体の息遣いが聞こえたような気がして、木々たちは嬉しかったものだった。長老の声は低いがよく通ったバリトンで、若い木のまだ青さが残る葉っぱや細い体にはまるで子守唄のような心地よい振動として感じられた。そよぐ風は長老の手の一つであり、優しく撫でてくれているのが木々たちには分かった。
――長老が、そう言うなら。
木々たちはそう言ってからカサカサと枝葉を揺らして感情を表現した。葉と葉の擦れあう高い音は、心が安定したサインだった。長老の声は彼らの荒立った心の波を鎮める効果があるのだ。
木々は糸のような三日月が垂れる夜の下で眠りについた。木々から放出される見えない酸素の帯が徐々に細くなり、寝息へと変わる。それを長老は見つめていた。この森は大丈夫だ。滅びを迎えることはない。木々たちは心を落ち着かせている。そう思って長老も眠りにつこうとしたその時だった。微かに、足元に落ちた枝を踏みしめる音が聞こえた。長老は薄く目を開けて、自分の周囲を見渡す。すると、すぐ傍で人間が地面に膝をついていた。長い髪に、どこか柔らかな甘い香りは人間の性別が女であることを長老に教えた。人間の女は何かを抱えているようだった。その肩が上下している。長老は枝を揺らして、女に話しかけた。
――どうなさった?
その声に女がぎょっとして周囲に目をやった。だが、他の人間の姿は認められないらしく、不安そうに胸に抱いたものをより強く抱き寄せる。長老はもう一度、呼びかけた。
――わしが言ったんだ。人間よ。
女はまたも驚いて立ち上がりつつ、辺りを振り仰いだ。ようやく長老が話していることに気づいたのか、その目が長老の姿に釘付けになった。
「樹が、喋った……?」
長老が重々しく頷きの意を返した。
――左様。わしの声にもっと耳を澄ませるといい。なに、怖がる必要はない。心静かに耳を傾けるのだ。そうすれば、もっとはっきりと、わしの声が心に届くだろう。
女は全身を聴覚にするように震える瞼を閉じた。胸に抱えたものを強く抱き寄せ、深呼吸をして気持ちを落ち着かせているようである。長老はその助けになればと、緩やかな風を地面に滑らせた。緑色の空気が女を包み込む。直後、女はゆっくりと目を開いた。黒曜石のような澄んだ黒色の瞳が、長老の巨躯を映す。
「聞こえるわ。あなたの声」
震えていた女の肩がゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
長老は、女に問いかけた。
――何の用で参った? ここは人間が一人で来るような場所ではないぞ。
その言葉に女は目を伏せた。抱いた何かに手をあて、ゆっくりと言葉を唇から紡ぎ出す。
「……私は、もう村にはいられなくなったんです。村はここ最近不作続きで、みんなが殺気立っていました。だから、村の人数を間引こうと、一昨日の集まりで決まったみたいです。私は、それに選ばれて、この森に来ました」
長老はその風習に覚えがあった。村落社会では、天災に対して有効な手段が得られなかった時、その村での弱者を村の中から追い出す。そうすることによって秩序と村の益を守り、村を存続することが可能になるのだという。長老は黙したまま、まだそんな因習が続いているのか、と身を引き裂かれるような思いに駆られた。人間の所業を何百年と見てきた長老は、人間がさして進歩していないことに、怒るよりも憐れみの念を抱いた。そうすることでしか生きながらえない人間の弱さ。そして、その弱さの一身に背負うものがどの時代にも存在する。今は、この女こそがまさにそうだった。女はさめざめと泣き始めた。涙の雫が地面に張った長老の根に落ちて、長老の胸にも熱いものがこみ上げた。
「私は、どこへ向かえばいいのか分からず、この森に迷い込みました。これからどうするべきなのか、頭に靄がかかったように見当がつきません。生き残るには、この子を」
女はハッと顔を上げた。長老を仰ぎ見て、抱いた何かに視線を移しながら、重々しく口を開いた。
「あなたにお願いがあります。聞いていただけますか?」
女の問いに長老はウムと神妙な声を返した。女は意を決して、震える唇から言葉を搾り出した。
「この子を預かっていただきたいのです」
女が膝をつき、抱えているものを上納するように差し出した。それはまだ赤子との境が分からぬような子供だった。
長老は困惑したように眉根を寄せた。
――それはうぬの子供であろう。
「はい。わが子でございます。しかし、このままでは親子共々飢え死ぬのは必定。ならば、あなたにお任せしたいのです。もちろん、母親としてはこの上ない愚行であることは承知しております。なんと、この母は子を捨てるのかとお思いになるでしょう。しかし、これ以外に方法がないのです。私とこの子の両方が生きるには」
長老はしばらく押し黙った。重い沈黙が、ぬるい風となって辺りを包み込む。母親は頭を下げたまま、子を掲げ続けた。
やがて、長老は枝葉を揺らして応じた。
――よかろう。
母親はその声を聞くと、子を根の張ったでこぼこの地面に置いた。そして、「ごめんよ」と一声呟くと、長老を仰いだ。
「必ず、迎えに参ります。その時まで、この子をお願いします」
母親は走り出した。後ろを何度も振り返ろうとしたが寸前で躊躇ったようであった。きっと、未練を断ち切るためだったのであろう。中途半端に愛情を残してしまわぬように、母親は暗い森の中へと消えていった。狼の鳴き声が静寂の森に細く長く響いた。足音も風に追いやられて去り、あとには子供だけが残された。
――子供を引き取るとは。……正気ですか、長老。
声を上げたのは若い木だった。朝露が葉っぱを濡らし、昇った朝日が反射して若々しい葉が宝石のように煌いた。長老はその言葉に是を返した。
――この子はわしが責任を持って育てよう。何か、異議あるものはおるか。
木々たちは何も口には出さなかった。それは無言の圧力となって長老の老いた幹を乾いた鞭のようにひしと打ち据えた。
長老は、子供を育てることに決めた。
その子供はやがて成長した。長老はあえて名をつけなかった。名づけるのは母の役目、そう感じていたからだ。いつか母が迎えに来るのだと、子供には教え続けた。若い木々たちからの一目置いた眼差しは消え、長老は森の中で孤独になった。それでも子を手放そうとは考えなかった。
子供は森の中で逞しく育った。そのことを疎む樹もいたが、口には出さなかった。自分たちの森の中で、人間の子供が育っても、いつか自分たちを脅かす存在になるかもしれないと考える樹が少なくはないことを長老は知っていた。彼らの気持ちも分かる反面、子供を健やかに育てたいというのが長老の気持ちであった。人間世界から隔絶されたこの場所では、せめてそのような視線を浴びさせたくはない。しかし、長老には守る力もなく、威厳も失った巨大なだけの体を持て余すばかりで何かをしてやることは出来なかった。威嚇するように枝葉を揺らしても、もう長老はもうろくしているという噂が立つばかりで誰も相手にしなかった。それでもいい、と長老は思っていた。ただ母親が迎えに来るまではせめて心は綺麗なままでいて欲しい。それだけが切なる願いだった。
ある日、子供は長老の幹に手を当てて静かに呟いた。
「おれ、今日森の傍で骨を見つけた」
そうか、といつものように長老は静かに応じた。子供――もう、少年だが――はそのままの声音で付け足した。
「女の骨だった。もう、何年も前に狼に食われたみたいだった」
その言葉に長老はハッとした。あの時、狼の声が聞こえていたことを思い出したのだ。子供はそれが誰の骨なのか気づいているのかいないのか、幹を優しく撫でながら言った。
「ねぇ、長老。おれ、ひとりはいやだよぅ」
子供は幹を撫でていた手を止めて、長老にすがりついた。長老はしばらく子供の泣き声を耳元に聞いていた。子供の体温は、あの時根に落ちた母親の涙の熱と同じだった。長老は吐息を漏らすように口を開いた。
――大丈夫だよ。わしは、お前をひとりにはせん。
「本当?」と涙と鼻水にまみれた顔で子供は尋ねる。長老は微笑を浮かべながら、本当だとも、と返した。
長老は傾きかけた日を見つめた。朱色に照らされて長老の幹はより年老いて見えた。皺の一本一本が流動しながら、刻一刻と命の音を刻む。
――命果てるまで、共に……。
その呟きは子供には聞こえなかったようだ。子供は泣きつかれて寝息を立てていた。長老はフッと微笑を浮かべ、斜陽を見つめた。その日が枝葉を照らし、幾つもの季節を経て空洞と化しかけている我が身を貫くようだった。
長老はその日の温度を内側に感じながら、静かにその目を閉じた。