1,不思議な味
「八尋君」
声がして、八尋は振り向いた。
「メガネ…」
真っ先に目に入ったのは昨日とは違う、メガネをかけた姿だった。
「あ、これ?後ろの席だとどうしても見えづらくて、最近買ってもらったんだよ。家ではかけてないけど。今帰り?」
帰宅中の八尋に声をかけたのは詩織だった。
昨日初めて会って、心に残っていた存在。それが翌日にはもう味変を提供してくるという事態に動揺した。
「今日は放課後綾と勉強するのかって思ってたけど、早いんだね。それとも昼休みとかに終わらせちゃった?」
「はい。今日はアンダーソ…、友達と遊ぶ約束をしてるので、昼休みに綾さんと宿題をして、それに、病み上がりだし早く帰った方がいいと思って」
八尋は詩織の笑顔に少し照れながら答えた。
「優しいんだね。下村君と遊ぶの?一番仲いいんだよね、アンダーソン君」
詩織は八尋の横に並び顔を覗き込んだ。
「綾と一緒に帰ったりはしないんだね」
「いや、方向違うし…、クラスメイトの目もあるから。彼ら、多感な時期なので」
「あはは、そうか。確かに多感な時期だね、綾もね、けっこう多感だと思うよ」
詩織は八尋の言葉に噴き出した。君は多感ではないのかと。でもそれは言わないでおいた。
「詩織さんはなんでこっちのほうに?何か用事ですか?」
八尋は照れながら笑顔で話しかけた。
「ああ、塾。しばらくお休みしたから頑張らないと」
明るく答える詩織に八尋は頷いた。
高校生の素敵なお姉さんに、できるだけ対等に、大人ぶって激励しなければと思った結果が、この声に出さずに視線を送る方法だった。
「途中まで一緒に歩こっか。家は…八兵衛だったよね。レストラン。食べに行ったことないけど。うちあんまりお金ないし」
詩織は八尋のランドセルをつかみ、もたれかかるように上半身で押した。
急なことに足がもつれそうになる八尋だったが、ああ、もしこの黒い合皮の壁がなければ、直に、直に、と、真面目な顔で思った。
「うん。家にカバンおいて…。うちは知り合いのときは結構値引きしてるから、僕がいる時なら安くできると思いますよ」
いい言い方だと思った。
せっかく知り合った素敵なお姉さんとの関係を途切れさせないためにはちょうどいい、そして子供らしさを欠かない言い方だと思った。
「そうなの?じゃあ今度家族で行こっかな。あ、予約とかいる?」
「狭い店なんで、あったほうがいいかも」
少し前かがみにランドセルを押す詩織の髪が八尋に触れ、そしていい匂いがした。
昨日はずいぶんと大人に感じた詩織であったが、今日は少し子供っぽいというか、スキンシップが多いように思う。嫌ではない。
そしてそうか、一人で来るわけではないよな。綾と、つまり同級生とその母親で来たとき、自分はどういう感じでそこに居ればいいのだろうかと思った。
母親の相手は親文に任せるとして、綾と詩織の相手を自分が、二人に挟まる感じで居ればいいのか、それもいいな。でもきっとリンダはあまりしゃべらない。
それとも詩織は保護者側に交じって三人で話をするだろうか。
その場合僕とリンダは二人で何を話すかな。そもそも一緒に勉強はするがそれ以外はあまりたくさん話すわけでもない。家族の前となるとなぜか気後れしそうな気もする。
いっそいつもみたいに二人で勉強しようか。それが一番自然な気がする。でも、わざわざご飯を食べに来た先で?その場合は部屋に上げたほうがいいのか?
…ああ、結局は僕も多感だということか…。
八尋はなんかいろいろ考えました。
「あ、もうそこでわかれるね」
いろいろ考えているうちに、家と塾の分かれ道に来ていた。
ほんの数分であったが、詩織とのつかの間の道中。
八尋がなんかいろいろ考えている間も詩織はいろいろと話し掛けてくれていた。八尋はそれにきちんと相槌をうち、ある程度返事をしていたのだが、いらぬ妄想のせいで上の空だったのが悔やまれた。
「あ、そうだこれ」
詩織はそう言うと分厚いナイロンの学校指定カバンの中から小さなラップに包まれたものを取り出した。
「これあげる」
八尋の小さな手にもすっぽり収まるくしゃくしゃのラップ。それは透明とはいえぱっと見では何かよくわからなかった。
しかし数秒手の中で遊ばせ、少しめくったところでその中身がわかった。
「クッキー…」
「そう!作ったの!隣の家にオーブンがあるから使わせてもらったの。綾もあの後結局眠れなくってさ、夜二人で作ったの。これはまだ…練習中なんだけどね」
「練習中…」
「そ、練習中。たべてみて」
ラップを開けると5枚のクッキーがあった。
色は良いがかなり砕けていた。詩織はあちゃーと言う顔をした。
作り方のせいというよりは包み方とバッグの中に放り込んであったせいだと思う。
八尋はそのうちの一つ、比較的形を保っているものを口にした。
クッキーらしい、焼いた小麦と砂糖の味。かなり甘い。少し違和感を感じたのは香りだ。
「おいしい」
嘘ではない。本当においしかった。バニラエッセンスが入っていないせいで風味に違和感があるものの、味はおいしいクッキーだった。急に夜中に作ったもののため、材料不足でこうなったのだろう。
「あ、でも八尋君のお父さんってコックさんだよね…しまった、ほんとに大丈夫?次はもっとちゃんと上手に作れると思うけど」
詩織は膝に手をやり、至近距離で、かなりの至近距離で八尋の顔を覗き込んだ。
年の割に大人な八尋だ。しかしこれにはたまらず赤面する。大人でもする。
「いや、おいしいです。本当に」
照れを隠すように砕けたクッキーを一気に食べた。
本当においしいというアピールを、できるだけ子供らしくしようと思った。
「わ、はや。全部食べちゃった」
詩織は笑った。
「あ、ごめんなさい。…食べちゃった」
そう言えば全部食べていいとは言われていなかった。八尋は一瞬戸惑い詩織の顔を見たが、
「いいよ。おいしかったならよかった」
詩織はより一層顔を近づけ、まつげが当たるのではないかという距離でささやくようにそう言った。
体を起こし、またにっこりと微笑み、
「じゃあまたね、もう行かなきゃ」
と手をひらひらとさせ、詩織は速足にその場を去った。
八尋は呆然と直立不動にその姿を見た。
詩織はもうこちらを見ていないのに、その姿がずいぶん離れてから右手をひらひらと返した。
左手は指をわずかに動かし、ラップと、その中の砕けた粉がかさかさと音を立てた。




