4,詩織と綾
「ねえお姉ちゃん、ひどいよ」
「えー、何が?」
布団にもぐり顔の上半分だけを見せた綾。見えないものの、口元を尖らせていることがわかる。
詩織はかつて自分が使い、今はもっぽら綾が使うようになった机、学習机などではなく折り畳みの安い机にブックスタンドを置いただけのものにプリントを並べ、その一枚を見ていた。
座っている椅子も安い、高さ調整もできない、回転もしないパイプ椅子だ。
まだ夜の寒いこの時期には、できる限り西日を集め部屋を暖かくするために開け放つカーテンが、今は綾がまぶしくないように閉じられている。汚れてはいないが色にくすみがある。
壁も畳も、きれいに掃除がされているが全体に古くくすんでいる。
この家全体が、この周辺、カラン全体がそうなのだ。
「八尋君が来たんなら最初にそう言ってよ」
「えー、言ったでしょ」
「言ってないー!」
綾は布団から顔を出した。やはり口元がとがっていた。
「どうしよう、このパジャマ毛玉すごいから…、すごい貧乏だって思われてないかな」
そっちか。と詩織は笑った。まあ、上を気にするのはもう少し後か。いや、このくらいの年ならもうちょい気にするな。
妹の態度に少し不安になるも微笑ましく思い、頬杖をついて妹を眺める。
「あんた安藤君って呼んでるんだ。うちではいつも八尋君八尋君って言ってるくせに」
「ん、…うん…」
「それかアンディは?あんたはリンダって呼ばれてるんでしょ」
「それは、ほとんど男子だけだから…」
ふーんそっかあ、と頬杖をついたまま、ため息交じりのような笑いを妹に向ける。
「どうしよう、明日八尋君にあって、変に思われたりしないかな」
綾は再び布団に潜り込み、上目遣いに姉を見た。
「実際貧乏でしょ、うちは。それにあんたが変なのも知ったうえで八尋君は仲良くしてくれてるんでしょ」
詩織は慈しむような目で微笑み、過度に妹を慰めるような態度をとらぬよう言葉を選んだ。
「私って変かな…」
「変よ。少なくともせっかく来てくれたのにあんな隠れて。失礼よ」
「だって格好が…。お姉ちゃんが八尋君が来たって言わないから」
「えー、言ったでしょ」
「言ってな…、もー、話がぁ!」
文句を言う綾を見て詩織は笑った。
八尋は妹のことを頭がいいと言っていた。それに学校ではおとなしいことも知っている。
それが家ではこうなのだ。家ではと言うよりも自分には。母に対してはもう少し遠慮がちだ。
だからこの様子が、この妹の姿がとても愛おしく思えた。
「のお、綾よ…」
「え、老師。久々…」
詩織はふざけた。たまにやってることなのが綾の様子からわかる。
「わしはお前の何倍も長生きしとるじゃろう」
「そんなことないよ老師。どうしちゃったの、2倍もないよ」
「何倍もの経験の差…、だからわしにはよおくわかることがあるんじゃ」
「話を聞いて老師。あなたはあなたが思ってるよりずっと若いよ」
途中で噴き出すなどもなく、二人は真剣に話した。
「あの子はいい子じゃあ、おまえがどんなに悪い心配をしようとそうなることはないじゃよ…」
詩織は優しく、教え聞かすように語りかけた。
「老師…」
布団から出てぺたんと座り、上目遣いに自分を見つめる妹にうん、うん。と頷いて見せる。
「老師にそんなこと言われなくても知ってるよ。何年生きたとか経験がとか。そんなの関係なく多分みんな知ってることだよ」
綾はキョトンとした顔で姉を見た。
「あんたねー。知ってるんならそんな心配するんじゃないわよ!」
「わかるけど心配なのー」
「そんな心配する暇があるなら早く寝なさいよ!ぶり返して明日学校行けなくなるわよ!」
笑いながら大声をあげ、立ち上がる詩織に、綾も笑いながら慌てて毛布をかぶった。
毛布の中で丸くなる綾に向かい、詩織は掛布団をつかみ勢いよく叩きつけた。
きゃははと笑う綾を蹴りながら叩きつけた布団の形状を均し、妹全体に被さるようにしてやる。
カーテンを閉めていたので点けていた電気を消す。
まだ夕方だ。赤く薄暗い部屋は、真っ暗な部屋よりもむしろ休むにちょうどいい状態かもしれない。
そうして、まったくもうとため息をつき、再び椅子に座り古い電気スタンドをつけプリントの続きを読んだ。
「あ、そうだ宿題」
また顔の上半分を出した綾がこもった声で言った。
「明日にしな。八尋君とやればいいでしょ」
「うん…」
詩織はプリントから目を離さず、綾を見ずに言った。
垂れた横髪を耳にかけた。
「ねえ、お姉ちゃん…」
「ん」
「ありがとね」
「ん、八尋君に言いなさい」
詩織は落ち着いた声で言った。
「うん。八尋君にも言う」
そう言った綾を見ると、向こうを、壁のほうを向いて寝ようとしているようだった。
詩織は微笑んだ。
学校便りには大したことは書いてなかった。大事なことは3学期の終わりか、あるいは始業式後に連絡があったため、特にしっかりと母に伝えるようなことはないように思った。
宿題のプリントも見てみた。一枚は算数ドリル、漢字ドリルのどこの問題を解くと何行か書かれた手書きのもの。一枚は算数のプリントだった。
ドリルもあるのにプリントもあるのか。理科は?社会は?手書きなら進んだページ数くらい書けばいいのに。
詩織はそんなことを思いながら何気なく算数のプリントの裏を見た。
ゆっくりやすんで!
プリントの裏の右下に、恐らく急いで書いたように、しかし汚くない字で、そう書かれていた。
詩織は目を丸くし、そして細めた。
「ふふ、はやくよくなってじゃないんだ」
八尋と別れる直前に見せた、あの笑顔だ。
詩織は右手で頬杖をつき、左手でその文字をなぞった。
そしてそのまま手を伸ばし、ブックスタンドから薄いフォトブックを取り出した。
学校行事で撮られた写真の、その希望するものを販売するあれだ。
友達と写った写真もなく、また、たかが写真とはいえ林田家には金銭的余裕はない。
集合写真とたまたま写ったもの、必要はないがせっかくだからと買った写真は年数枚程度だった。
しかし、今年の2月に行われた遠足。お別れ遠足と呼ばれるそのイベントの主役は当然6年生なのだろうが、実際にはほとんどのものがそんなことは気にせずただ遠足するだけのものだ。
この時の写真だけ、5枚。他の子からすれば少ないかもしれないが、5枚の写真を綾は買っていた。
一枚は集合写真。
一枚は自分だけの写真。
一枚は八尋と写っている写真。
一枚は八尋と一緒に数人で写っている写真。
もう一枚は八尋だけの写真。
教師は生徒の写る枚数に差が出ないように気を付けて撮影している。
それでもどうしても差が出るらしく、綾のような生徒の写真は少なく、八尋のように目立つ生徒の写真は多かった。
八尋の写っているものはたくさんあったが、自分が買ってもおかしくないものと思うと、自分と八尋が一緒に写っている2枚だけになった。
最後の一枚、八尋だけの写真は詩織が選んだ。
この子が綾に良くしてくれてるんだよ。と、母親に説明するために買うのだと言った。
そんなの他の写真でもできる。
そう思ったが、綾は何も言わなかった。
実際届いた写真を見せ詩織は母親に八尋のことを話していた。
母は喜んでいた。
詩織は綾と八尋、二人が写った写真を見て微笑んだ。
そして八尋だけの写った写真、お菓子を食べながらすっとぼけた表情のものだったが、それを愛おしそうに指でなぞった。
「八尋君はいい子」
かすれた、小さな声、起きていても綾の耳に判別できないくらいの声。
「綾、幸せになろうね…」
もう一度二人が写った写真を見てそれを指でなぞった。
目を細め微笑んだ。
母性に近い。あくまでしいて言うならば、母性に近い微笑みだった。




