3,林田家
優れた公共サービスとして認知されていた団地の入り口の老婆ではあったが、すべてのものに完璧はなく、あるいは老朽化というべきか、わずかの誤差があった。
区画によりまちまちだが、八尋の案内された区画は4軒で長屋を作り、それが3棟並んで細い道路に囲まれていた。
老婆の言う通りなら、向かって一番左の棟の手前2軒、あるいは真ん中の棟の手前1軒あたりが林田の家ということになるだろう。
しかしどの家にも林田の表札はなかった。
その3軒のチャイムを押してみることも考えた。老婆の「表札があれば」という言葉を考えれば、その表札が違っていることも考慮すべきだからだ。
とはいえそれは後回しだ。
全部で12軒だ。1軒1軒が狭いのですべての家の表札を確認しても大して時間はかからない。人通りはそれなりにあったが、別に尋ねる必要もない。
そう思って手前の棟の表札を眺めて歩いていたが、八尋の意に反し中年の、多分父親と同じくらいの年の女に声を掛けられ、「林田綾さんの同級生です。プリントを届けに来ました」と答えたためにあっさりと目的地へと案内された。
それは真ん中の棟の手前から3番目の家だった。
これは普通なら「手前のほう」とは言わないだろう。まあ、この団地の規模とアクセスの簡易性を考えれば問題視されるレベルではない、むしろかなり完成されたサービスではある。
あるいは団地の事情というものを自分は知らない。以前は老婆の言う通り「手前」に住んでいて、何かしらの事情で部屋をかえたということもあるのかもしれない。
八尋が「ありがとうございます」とお辞儀をすると、あまり愛想を感じない女だったが、「いいよ」と言って手をひらひらとさせた。
八尋が同じように手を振ると女は少し笑った。
八尋になじみのあるタイプの女ではなかったが、悪くはないなと思った。
女の姿が見えなくなると、八尋はその案内された家を見た。
表札、と便宜上そう呼んでいたが、ほぼすべての家にそんなものはなく、あるのは郵便受けに手書きされた林田の文字だった。
カーテンは閉められている。
林田は寝ているのかも。
低く一段だけ上がった玄関の古いコンクリートに埋め込まれた、緑と茶色とピンクの、デッキブラシを針金で拘束したようなマットの上で八尋は靴の裏を鳴らした。
別に汚れてはいないが、まあ、そうすることがマナーだと思うし、そうしながら玄関から出てきた人に、それが林田綾本人であっても、よどみなく言葉を発せるよう脳内に文を作った。
チャイムを鳴らす。
ピンポーンという、いわゆるチャイムの間延びした音を想像していたが、実際に聞こえたのはカンッ、コンッ、という潔い乾いた金属音だった。
物音が聞こえ、足音が聞こえ、「はーい」と、今度はしっかりと間延びした声がした。イメージ通りのお宅訪問の環境音だ。
賢い八尋はたいがいのことをその10歳という年齢からすればそつなくこなすほうだったが、「あ、えっと。5年2組の、同じクラスの安藤です。今日はその、林田…じゃなくて、リン…、綾さんに学校の、休んでる間のプリントを持ってきました」少したどたどしくなってしまった。
いかにも昔の、がららと音を立てる引き戸から現れたのはセーラー服を着た女だった。
この人が林田詩織さん。
美人だった。
昨年末、現在行われている日見大祭の始まり「御子入り」において、日見島中央にそびえる椀岳のふもとにある平原神社にて御子のお披露目があっている。
八尋もそこにはいたが、その姿は遠く、人垣もありよく見えず、というより級友と遊んでいてあまり気にしていなかった。
日見大祭は短ければ9年、長ければ13年に一度行われる祭りであり、その祭りの顔として選ばれる、いわば島の、島民のアイコンともいうべき御子の久々の誕生に島民は沸いていた。
八尋にとってもその稀にしか行われない祭りの稀にしか現れない御子の重要性はよく知っていた。
だがお披露目の直前にイカ焼きを買ったのが良くなかった。その大きさのためにしっかりと集中し食べねばならず、またその味のために財布の中身を確認し、この後の予定を考えつつ2本目を買っていた。
級友たちがでかいイカ焼きの2本目に集中する八尋を指さして笑う。
島の一大事とはいえ、この時間と御子入りを比べどちらが尊いなどとは誰にも言えないだろう。
そのため、一度は見る機会のあった御子の、詩織の姿を、八尋はこの時初めて見たのだった。
リンダ、林田綾と学校で一番よく話すのは自分だと思う。
それもそのはず、昨年末より一緒に勉強する時間ができたことに加え、綾はほとんどしゃべらない物静かな人物、というより陰気な、友達のいないタイプだった。
美人ではない。なんてことはない。
ちゃんと、こう、磨けば光る。と言いますか、八尋は善人であり善意でもって綾に接してはいましたが、なんというか打算の全くない人物ではないというか、投資のできる人物というか、まあそんなところなので、綾もそういう見た目であることは察してほしい。
綾の姉が御子に選ばれたというのはもちろん知っていたが、なんとなく綾を縦に引き伸ばした姿を想像していたがために、その、綾とは真逆と言っていい穏やかで落ち着いた姿に圧倒された。
「あ、安藤君?八尋君だよね、はじめまして」
詩織はにっこりと笑った。
自分のことを知っているようだ。
ゆったりと束ね、肩から前に垂らした長い髪がゆれている。
この島には八尋のいとこが住んでいる。母の姉の娘で古月雪江という。そのいとこが今年から着ている制服と同じだ。
女子高生になった雪江を八尋はずいぶんと大人に感じていたが、それよりもずっと大人な、そんじょそこらの法律上成人となっただけの連中よりも洗練されたような雰囲気を詩織に感じた。
「あ、そうです。これ、プリント。こっちが宿題で、こっちが学校便りです」
「ありがとう八尋君。読んどくね」
たどたどしく喋る八尋に詩織は優しく、親しげに微笑んだ。
「え、詩織さんが読むんですか」
「うん、読むよ。小学校のことはだいたい私が読んでお母さんに見せるの。最近お母さん観光局で働くようになってね、新しい仕事で忙しいからまず私が読んで…、転職する前からそうしてたんだけどね。ていうか私の名前八尋君知ってるんだね」
「それは…、有名人だから」
八尋は上目遣いに、少し照れくさそうに言った。
「そっか、そうだね。あ、綾ー、こっちおいでー。ふふ、すっかり忘れてた」
「いや、リン…綾さんは風邪なんで…、起こさないでいいです」
家の中に声を向ける詩織に、八尋は慌てて手と首を振った。
「もう大丈夫だよ。念のため今日まで休ませてるだけ。多分明日か明後日には学校行くよ。私も念のため今日まで塾休んで早く帰ったんだけど、八尋君が来るのが今日でよかった」
詩織の微笑みは今まで見たどの笑顔よりも大人に見えた。
「御子になるのが決まったあたりから平原神社の支援で塾に行かせてもらって大学目指してるの。でもみんな小さいころから塾行ってるでしょ、あと二年で間に合うのかなーって思ってるんだけど頑張ってるんだ。八尋君は塾は?ていうか八尋君が塾か、八尋塾」
「東京に住んでた時は行ってたけど今は…、八尋塾?」
「そうそう、ありがとうね、綾に勉強…」
詩織が言いかけたところで抽象的な、地平線?と月がうっすら描かれた襖紙の戸が開いた。
「お姉ちゃん何…」
もともとぼさぼさ髪の印象だったが、それに輪をかけてぼさぼさの綾が現れた。
八尋はギョッとした。
下には短くなった古い、毛玉のついた薄ピンクのパジャマ。上は同じく古い、短く、生地の薄くなったキャミソールを着ていた。
どちらもサイズが小さくなっていてぴっちりしている。それなのにきちんとよれよれという、なかなか意図的にこの状態を再現しようとしても難しいのではないかという、まさに生活感という言葉の想起されるお姿であった。
いいね。
「あっ、やひっ、安藤君…」
「あ、リンダ、プリント。先生に、頼まれて」
「ありがと、風邪、うつるとよくないから、あ、ありがと」
綾はそう言うと戸の裏に隠れ顔の半分だけ見せた。
「あ、じゃあ僕もう帰るから」
八尋はたどたどしくそう言うと後ろを向いてその場を離れた。
「え、綾、あんたもう治ってるでしょ。八尋君、ちょっと送るよ」
詩織は速足の八尋にすぐに追いついた。
「ごめんね、綾、なんか照れちゃったみたい」
その姿が恥ずかしかっただけではない、いつもと違う環境、特に自分のテリトリーでの普段の姿を見られたという事実にも恥ずかしさがあった。
いいね。
「いえ、別に」
綾の姿に動揺したことに自分でも驚いた、そこに相手の身内がいたことも一つの要因だ。少し緊張してしまった。
二人はとぼとぼと歩いた。
「私のこと有名人って言ってたけどさ、八尋君もかなり有名人だよね。ほら!」
詩織は無言の八尋に気気を遣い明るく話し、得意げに左腕をあげて見せた。
「ヒーリー…」
詩織の左手首には薄緑色の細い紐が、いわゆるミサンガのように巻かれていた。
「そう、本物のヒーリーだよ。御子に選ばれたお祝いにお母さんが私と、綾にも何か買ってやるって言ってくれてね、綾はこれが欲しいって。自分用か、ひょっとして八尋君に贈るのかなって思ったんだけど、ちゃんと御子ができて、ちゃんと大学に行けますようにって私にくれたの。優しいでしょ」
詩織はそれまでの大人びた優しい微笑みとは違う、いたずらっぽい、子供っぽい、年相応かもしれない笑顔を見せた。
「八尋君は持ってないの?」
横に並び背を屈め顔を覗き込む詩織。
八尋は照れながらポケットから鍵を取り出した。
そこには家の鍵と東京の家の鍵、自転車のカギをつけた小さなカラビナがり、そのカラビナに穿たれた小さな穴には詩織の手首に巻かれたものに似た紐が短く結ばれていた。
詩織のものよりも光沢がなく、ポケットのせいか鍵のせいかわずかに黒ずんでおり、粗野な質感ではあったが、同じものであることがわかる。汚れのせいか八尋のもののほうが緑が濃いように見える。
「手には巻かないんだ」
その鍵、そしてヒーリーと呼ばれた紐をよく見ようと、詩織は八尋の右手ごと両手で掬うように持った。
二人は立ち止まる。
「お父さんが絹糸の作り方調べてくれて…、糸車も買ってくれたんだけど。ぶつぶつ切れて短くなって。普通は繭の中に蚕が生きているうちに殺していい糸を取り出すんだけど、僕は全部羽化した後に作ったから」
ふうんと詩織がうなずく。
自身の手を奇麗なお姉さんが両手で包み込む。白く細く、やわらかな指が自分の手の中の物、そして自分の手そのものも撫でるように這うたび、八尋は背筋にぞわぞわする感覚を覚えた。
「今はあんまり鍵持ってないけど、大人になったら車の鍵とかいっぱいつけて、この、ズボンのベルトのとこにつるすんだ」
「鍵をいっぱい?なんで?ヒーリーは?」
「大人の男はそうするから。ヒーリーは、形はあれだけど丈夫にはできたと思うからずっとつけたままにしておくと思う。この島のお守りだから」
一瞬話が飛んだように思えた。子供っぽくていいと思った。
「すごいよね、新聞載ってたもんね。地元小学生天然記念物を人工羽化、ハナヨリヤママユガは花の蜜を吸うか。だっけ」
詩織は手を握ったまま八尋の目を見つめた。
「昔はみんなやってたことだから…。段ボールと加湿器とか湿度計とか使って、べつに自分一人でやったんじゃないよ。お父さんが手伝ってくれて。ノートにメモしてたから先生がそれを夏休みの自由研究でまとめて出しなさいって言って、それで」
八尋は照れくさそうに、少し早口にしゃべった。
「それでハナヨリヤママユガは花の蜜を吸わなかったんだよね」
「うん、島に生えてる花を、できるだけいろんなものを集めたんだけどどれも吸わなくて。名前の由来が花の蜜を吸うからじゃないかって聞いたから」
「そっか」
詩織は八尋から手を離した。
「蛾は大人になったら数週間何も食べずに死んじゃうんだよね」
「うん」
「大人になったら何も食べず、子孫を、交尾だけ。なんだよね」
「…うん」
八尋はどきっとしてゆっくりと詩織を見上げた。こっちを見て、目を細めて笑っていた。
「今日はありがとうね。ここで帰ってもいいかな。綾怒ってるかもだし」
どこをどう歩いたか八尋は覚えていなかった。
気がついたら団地はとうに過ぎていて、日見川河口にかかる細い橋まで歩いていた。
気にしていた老婆の横を通り過ぎたかも覚えていない。
「私ね、綾がすごく大切なの」
少し距離をとってみた詩織の顔は最初に見た、穏やかな微笑みだった。
「最近お母さんが転職したって言ったでしょう。その前はなんて言うか、もっと大変な仕事しててね。いつか、もしお母さんがいなくなったとしても、ちゃんと綾と二人で生きていかなきゃって。ずっとそればっかり考えてたの」
八尋は無言でかすかに頷く。大きな丸い目で、しっかりと詩織を見た。
「ずっとそう思ってて、それが最近生活が良くなって、しかも綾に、こんなにいいお友達ができたでしょう。私本当にうれしくて」
目を細め、上気したような顔になる。八尋にはまだわからない表情だ。
「綾の同級生が新聞に載ったのは知ってたよ。でも八尋君のことちゃんと知ったのは御子になってから。八尋君が綾の勉強見てくれるようになってから」
ああ、八尋塾ってそれのことか。八尋は今更ながら気づいた。
「御子になってからいろいろ環境が変わってね。良いの。お母さんの仕事も、考えもしなかった大学も、そして八尋君も。綾にとっての八尋君も」
だいたいの詩織が言いたいことは理解できたが、なんと返せばいいか八尋にはわからなかった。そしてこういう場合、無理に何か言う必要もないと八尋は知っていた。
「よかったらまた来てね。いや、綾と仲良くしてあげてね」
それじゃあね、と詩織は手を振った。
「リンダは、綾さんはもともと頭が良かったんだと思います。だから、僕は元に戻る手伝いをしてるんです」
この言い方が正しいかどうかはわからないが、八尋なりの卑屈すぎない謙遜であった。
「じゃあこれからも手伝ってあげて」
詩織はくすっと笑った。
八尋はうん。と言うべきかはい。と言うべきか迷って、結局何も言わずただ頷いた。
そして手を振って小走りに帰っていった。
詩織は八尋が見えなくなるまでずっと走り去る後姿を眺めていた。
寄り道と呼ぶにも大した時間ではなく、まだ街灯もついていない。
それでも八尋はずいぶん長い時間詩織と話したように感じた。
肩に力が入っていることに気づく。
そうか緊張していたのか。それに気がつくと立ち止まり、わざと深くため息をつき、強張った肩を回してみた。だがそう簡単に元に戻るものでもなく、そもそも普段の状態がどのようであったかを見失っているようだった。それが緊張だ。
肌着姿の綾にはどきっとした。もしも高熱のまだひどいときであったなら、あのよれよれのパジャマも履いてていなかったかもしれない。
そう考えると込み上げるものがあった。
しかし、それ以上に詩織との時間が糸引いた。
大人びた、そう、絵にかいたような大人のお姉さんだった。
優しく包容力のある微笑みに子供っぽい笑顔。そして別れの間際に一瞬だけ見た、見た気がした目を細めた知らない笑顔。
それがどんな表情なのかはわからないが、ひどく大人な表情のように思えた。
わずかな時間で見ることのできたそれらの笑顔の、その配分はなんというか、黄金律のようで。
早い話が八尋はお姉さん好きです。




