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32歳、人生リセット、ただし異世界で  作者: トール
六章 王国への浸潤

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セレスティア王女

 旧王都が解放されたばかりの王宮の一室で、クレメンス子爵は戦後の処理に追われていた。そこへ、一人の伝令兵が駆け込んできた。彼の顔には、疲労の色よりも、喜びと安堵が浮かんでいた。


「申し上げます! ゼノクラシア王の第三王女、セレスティア様を確保しました!」


 その言葉を聞いた瞬間、クレメンス子爵は、張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、椅子に深く腰を下ろした。彼は静かに目を閉じ、そして、安堵の息を漏らした。


「よくやった……」


 ◆


 王宮の回廊に、甲冑がぶつかり合う鈍い音と、剣戟の鋭い音が不気味に響き渡っていた。アースガルド王国の軍靴は、既に玉座の間へ続く最後の通路を叩いている。空気は血の匂いと絶望で満たされていた。


 ゼノクラシア王国の玉座の間。絢爛な装飾の玉座の間も、今は少数の騎士が護衛するのみ。ゼノクラシア王は、王冠を外し、自らの剣を強く握りしめた。その顔は悲痛に歪みながらも、王としての最後の覚悟を帯びていた。


 隣には、王の愛娘、十歳になるセレスティアが立っている。震える小さな体は、豪華なドレスに包まれながら、その運命の重さに耐えかねているようだった。


「セレスティア!地下の倉庫部屋に隠れるんだ!侍女についていけ!」


 王の言葉は、悲鳴のような、しかし絶対の命令だった。


「お父さま!」


 セレスティアは、目の前の現実を拒絶するように、王の足元にしがみついた。父の顔は、彼女の記憶にある威厳に満ちた王ではなく、ただ、娘の命を案じる一人の父親の顔だった。


「いけ!」


 王は、その小さな肩を強く突き放した。その瞬間、セレスティアの背後に控えていた老いた侍女が一歩前に出る。


「セレスティアさま、さあ早く」


 侍女の声は震えていたが、その手は強く、迷いはなかった。セレスティアは、父の強い拒絶と、侍女の焦燥に突き動かされるように、泣きながら侍女のあとを追いかけた。


「お父さま、お父さま…!」


 彼女の小さな背中が、重厚な扉の奥へと消えていく。その姿が見えなくなる直前、王は、娘に向かって、もう一度だけ、視線を向けた。それは、未来への希望を託すような、永遠の別れを告げるような、複雑な愛情に満ちた眼差しだった。


 次の瞬間、王は背後の通路から響く、敵兵の雄叫びに向き直った。


「来い、アースガルドの犬どもめ!」


 王は、娘の逃走のための時間を稼ぐため、騎士を引き連れて、敵の群れへと剣を構えた。玉座の間を満たす魔力の残滓と、王の最後の怒号が響き渡る中、ゼノクラシア王国の最期が始まろうとしていた。娘の涙が、王の頬を流れる血と混ざり合うかのように、その悲劇的な光景を照らしていた。


 ◆


 どれほどの時間が経過したのだろうか。時の感覚は、地下深くの湿った空気の中に溶け、失われていた。セレスティアは、硬く冷たい石の床に座り込んだまま、疲れと極度の空腹で意識を手放していたらしい。暗闇の中で、肌を刺すような寒さだけが、辛うじて彼女を現実に引き戻していた。


 その静寂を切り裂いたのは、上階から響く重く、不吉な音だった。


 ドスッ、ドスッ――。


 それは、金属の甲冑を纏った者が、石段を下りてくる音。そして、彼女たちの隠れている倉庫部屋の重い木製扉の前で、その足音が止まった。


 ガチャガチャ!


 次に響いたのは、金属が木に食い込む、ぞっとするような音。扉のかんぬきか、蝶番ちょうつがいか、あるいは錠前を、何か硬いものでこじ開けようとしている音だった。


 セレスティアの心臓は、喉元に張り付いたかのように激しく脈打った。全身の血の気が引き、眠気は一瞬で吹き飛んだ。目の前が真っ暗なはずなのに、恐怖で視界が歪む。


 隣に座っていた老侍女は、既に全身を震わせていた。


「……セレスティアさま」


 その声は、息を吸い込むことすら許されないかのように、声にならない、絞り出すような微かな音だった。侍女は震える手をセレスティアの肩に置き、震える指先で、床に散らばる古びた麻袋の山を指し示した。


「あそこに、隠れて……」


 セレスティアは、涙で濡れた瞳を大きく見開いた。恐怖はもはや悲鳴ではなく、内側から体を蝕む冷たい毒のようだった。彼女は立ち上がる力すら失いかけていたが、侍女に促され、必死に体を引きずる。


 ギィギィギギギッ!


 扉をこじ開けようとする力が強まり、木材がきしむ音が、まるで獣の咆哮のように響く。扉の隙間から、微かな光が差し込み、その向こう側にいるのは、勝利に酔いしれたアースガルドの兵士たちであろうことは明白だった。


 倉庫部屋の中には、古い木箱と埃にまみれたガラクタしかない。逃げ場はどこにもない。老侍女と少女は、ただ息を潜め、来るべき運命を待つしかなかった。この小さな暗闇の空間に、死の恐怖と絶望が、重く、濃密に充満していた。


 扉をこじ開けようとする音は、もはや耳障りな雑音を超え、彼女の鼓膜を打ち破るような破滅の予兆となっていた。老侍女はセレスティアを庇うように、身体を震わせながら麻袋の陰に押し込もうとする。


「いけません、セレスティアさま! お隠れになって!」


 その侍女の焦燥が、セレスティアの凍り付いていた思考を一瞬で解き放った。


(隠れる? 怯える?)


 彼女の脳裏に、玉座の間での父、ゼノクラシア王の最後の姿が蘇る。迫りくる敵軍を前に、勇敢にも剣を構えた、威厳に満ちたその姿。父は、娘を逃がすために命を捨てたのだ。


 セレスティアは、震えを無理やり押し殺した。両の拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせる。


「私は、ゼノクラシア国王の娘。お父さまの娘」


 その言葉が、熱い血流となって全身を駆け巡った。恐怖は消えない。だが、それ以上に、自らが背負うべき矜持と、王家の血の責任が、彼女の小さな身体を突き動かした。


 彼女は、老侍女の手をそっと払いのけ、立ち上がった。


 暗闇に慣れた瞳が、彼女の意志を宿して輝く。ドレスは埃まみれで、顔は涙と煤で汚れていたが、その立ち姿は、まるで玉座の間で戴冠式を迎える王女のように、まっすぐで、揺るぎなかった。


「よろしい、もう隠れるのはやめます」


 彼女の声は、先ほどまでの泣きじゃくる少女の声ではなく、清らかで、しかし確固たる響きを持っていた。


 ガンッ!


 扉が最後の抵抗を見せるように激しく軋み、ついに錠前が破壊された音が響いた。光が差し込み、甲冑姿の兵士たちの影が、巨大な悪魔のように倉庫の床に伸びる。


 セレスティアは、差し込んだ光に向かって、一歩、前に踏み出した。


 彼女は、アースガルドの兵士たちであろうと、自分を見失うことはしない。たとえこの先が地獄であろうと、ゼノクラシアの王女として、その運命を受け入れる。その顔には、もはや恐れではなく、故国の王女としての気高き誇りが刻み込まれていた。


 彼女の凛とした姿は、暗い倉庫の中で、勝利者であるはずの敵兵の目に、一瞬の畏敬の念を抱かせるほどの、静かな威厳を放っていた。セレスティアは、差し込む光を直視し、迫りくる運命を王女として受け入れる覚悟を決めていた。


 光の裂け目から、甲冑を纏った最初の影が倉庫に滑り込んできた。セレスティアは目を固く閉ざし、王家の娘としての誇りを胸に抱きしめた。


 しかし、その兵士は、予想された荒々しい歓声や嘲笑を上げなかった。


 ザザッ


 甲冑の衣擦れの音が響き、その兵士は、セレスティアの前で迷いなく片膝をついた。その動作は、敵の兵士が取るものではない、極めて丁寧で格式張ったものだった。


「セレスティア王女さま、ただいまお迎えに参上致しました」


 その声は、重くくぐもっていたが、確かにゼノクラシア王国の正規兵のものであり、彼が掲げた兜には、見慣れた王家の紋章が刻まれていた。


 セレスティアは、目を見開いた。絶望の深淵にいた彼女の視界に、一筋の光が差し込んだようだった。信じられない、理解できないという感情が、全身を駆け巡る。


 隣にいた老侍女の身体から、張り詰めていた緊張が一気に解けた。


「あぁ……ああ、神よ……」


 侍女は、耐えきれずその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。その声は、恐怖から解放された、純粋な安堵の叫びだった。


 セレスティアもまた、全身の力が抜けていくのを感じた。張り詰めていた糸が切れ、王女としての気丈な覚悟が溶けていく。彼女の小さな瞳から、堰を切ったように再び涙が溢れ出したが、それはもはや悲しみの涙ではなかった。


「お迎えに……?」


 彼女の喉から絞り出された声は、震えていた。その兵士は、再び深々と頭を下げる。


「はい。クレメンス子爵の命により、殿下の安全を確保し、クレメンス子爵の元へご案内申し上げます。もうご安心ください、王女さま」


 その言葉を聞いた瞬間、セレスティアは、その場に立ち尽くす兵士に向かって、崩れ落ちるように抱きついた。小さな体は、冷たい金属の甲冑に包まれながら、しかし、この世で最も温かい安堵を感じていた。


 絶望的な孤独と死の恐怖から一転して、故国の忠臣がもたらした奇跡的な救出。地下倉庫は、一瞬にして、絶望の監獄から、希望の出発点へと変わったのだった。


 ◆


 王宮の奥、薄暗い一室に案内されたクレメンス子爵は、そこに立つ一人の少女の姿を見た。彼女こそ、ゼノクラシア王国の第三王女、セレスティアだった。彼女の顔は、疲弊していたが、その瞳には、ロイヤルファミリーの一員としての気高さが宿っていた。


「クレメンス子爵、ご苦労様でした」


 セレスティア王女は、疲れているにもかかわらず、毅然とした態度で子爵を労った。彼女の言葉に、子爵はひざまずき、深く頭を下げた。


「陛下、ご無事で何よりです。これで、ゼノクラシア王国のロイヤルファミリーを復活させることができます」


 子爵の言葉に、王女は静かに首を振った。


「いいえ、子爵。私がここにいるのは、ロイヤルファミリーを復活させるためではありません。あなたと、あなたの兵士たちが守った、この国と人々を、再び立ち上がらせるためです」


 彼女の言葉は、子爵の胸に深く響いた。それは、王家の血筋を誇る傲慢な言葉ではなく、国民のために尽くすという、真の王族の覚悟が込められていた。


 クレメンス子爵は、王女の言葉に、静かに涙を流した。彼は、この少女が、ゼノクラシア王国に、そして自らの軍隊に、新たな希望を与えてくれることを確信した。





 ゼノクラシア王の第三王女、セレスティア・ルイ・ゼノクラシア、10歳

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