幕間(5)
ノースミッドタワーの最上階。俺は、さっきまで床に寝転がって「11歳だ」とわめいていた男とは思えないほど、今は王者の風格を装っていた。目の前には、東上級ダンジョンで獅子奮迅の働きを見せた、第一大隊長のザックがいる。
「やあ、ザック。ご苦労」
俺はソファに深く座り、まるで高級葉巻でも吸っているかのように、手を軽く振った。
「はぃ」
ザックは、戦闘服から着替えたばかりの真新しい制服姿で、背筋をピンと伸ばしている。その体躯は屈強で、並の兵士を三人は軽く超える威圧感がある。
「今回は大変だったねぇ」
「はい」
ザックの返事は、相変わらず短く、忠実だ。
「まあ、少し休んで、体を戻してよ」
「はい、ありがとうございます」
俺は、ここまでは完璧な上司のロールプレイングだと思っていた。そして、本題に入る。
「でさぁ、次なんだけどさ。王都の警備周りを頼むわ」
「はいっ?」
ザックの顔に、初めて明確な動揺の色が走った。これまで、彼の顔には驚きや怯えはあっても、これほどの「困惑」はなかった。まるで、巨大なオークと戦えと言われるより、よほど理解に苦しむという表情だ。
「ほら。戦後処理で王都と近隣と南部も含めてさあ、バタバタしてるじゃない?」
俺は、適当に手を広げてみせた。このバタバタの原因の半分は、俺とバルザック商会が急激に進めた近代化のせいなのだが、もちろん言わない。
「はぃ」
「ザックの顔でさあ、ビシッと締めて欲しいのよねぇ」
「はっ!」
ザックは、一瞬で顔を引き締めた。その「ビシッと締めて欲しい」という漠然とした、しかし支配者からの期待に満ちた言葉が、元奴隷兵士の彼にとっては、絶対的な命令として刻まれたのだろう。
「ドライアドのサテュロスたちの、木の実番はレイブンに任せるよ。あそこも大事なポジションだしね」
俺は、全く重要ではない木の実の管理を、さも重要な軍事拠点かのように語った。これは、ザックの警備隊長就任の重要性を引き立てるための、俺の浅はかな演出だ。
「はっ!」
ザックは、またしても力強く頷いた。もう、彼の頭の中では、木の実番などという牧歌的な仕事と、自分が任された王都全域の治安維持という巨大な任務が、比較対象にすらなっていない。
「ドローンもたくさん預けるからさ、じゃあよろしく」
俺は、一国の治安を預かる警察業務すべてを、彼の「顔の締まり具合」という曖昧な理由で、第一大隊長のザックに丸投げしたのだった。
ザックは、敬礼し、退出していく。その背中は、確かにビシッと締まっていたが、よく見ると、微かに「えっ?、マジで俺が全部やるんですか?」という困惑のオーラが漂っていた。
俺は、ソファに体を沈め、満足げに微笑んだ。
後日、王都では、「ビシッと締まった」取り締まりが開始された。そして、王都の裏路地では、「ザック大隊長」のあまりの厳しさに、バルザック商会の下請け業者たちが、小さく悲鳴を上げていたという。
◆
「では、人間がゴーレムの下請けをすればいいのです!」
アリアのひと言で。ゼノクラシア王国の戦後復興は、俺の思いもよらない方向へと進んでいく……。
俺は、執務室の窓辺で、紅茶を飲みながら、アリアに問いかけた。
「アリア、そう言えば出身は、北の大地のローゼリア王国だっけ?」
アリアは、いつものように背筋を伸ばし、淡々と答える。彼女の動きに、無駄なものは一切ない。まさに完璧な首席補佐官だ。
「はい、私の故郷は、北にあるローゼリア王国の首都、シルヴァネスです。父は、王都に屋敷を構える子爵でしたが、政治的な陰謀に巻き込まれ、家は取り潰しになりました」
「三女だったけ?」
「はい、母と私たち三姉妹は奴隷として離れ離れになりました」
アリアはそこで言葉を詰まらせ、わずかに俯いてしまった。いつもの鋼鉄のような冷静さが崩れ、一瞬だけ、かつて貴族の娘であった、年若い女性の影が見えた。
俺の胸に、突如として、ある感情が湧き上がってきた。
(……え? ちょっと待てよ)
俺はカップを置いた。
(この子、いつも完璧な仕事してるけど、もしかして、家族の様子が気になっているのだろうなぁ)
その気づきは、あまりにも唐突で、あまりにも間抜けだった。まるで、三年間一緒に住んでいたルームメイトが、実は猫アレルギーだったことに、今さら気づいたようなものだ。
俺は、これまでの三年間、アリアを「五百枚の大金貨で買った、最高の知略を持つ奴隷」として扱ってきた。彼女の優秀さ、完璧さ、そして合理性しか見ていなかった。彼女の過去を陥れた貴族への復讐? そんなウェットなことは、俺の自由都市国家建設には関係ない。アリアの解放話も、俺にとってはただの「労働契約の再構築」に過ぎなかった。
それなのに、たった今、俺の頭の中に浮かんだのは、「家族の様子が気になっているだろうなぁ」という、極めて平凡で、極めて人間的な感傷だった。
「…アリア?」
俺は、自分の心の中の唐突な優しさに戸惑いながら、彼女に声をかけた。
アリアは、すぐに顔を上げ、冷静さを取り戻した。
「はい、御屋形さま。何かご用命でしょうか。ローゼリア王国の最新の動向は、すでに情報部に分析させております。もし、復讐の実行を――」
「いや、違う!」
俺は、慌てて手を振った。
「その……姉妹って、元気にしてるのかなって。母上も、心配だろうな、とかさ!」
アリアは、目を丸くした。その表情は、まるで「私の演算結果に、なぜこの世で最も非合理的な『情』というパラメータが投入されたのですか?」と問い詰めているようだった。
「御屋形さま……ご心配、ありがとうございます。しかし、私の家族に関する問題は、すでに『解放後の私個人のタスク』として処理を保留しております。現在の国政とは一切関係ございません」
「いやいやいや、タスクじゃねぇだろ! 人の心だろ!」
俺は、自分が築いた完璧なシステムと、自分の心に湧いた急な感情の板挟みになり、床に崩れ落ちそうになった。
(くそっ! 俺は完璧な支配者じゃなかったのか! なぜ、今になって「アリアの幸せ」なんていう、非効率極まりないタスクが最優先事項に上がってくるんだ!)
この異世界に来て、三十二歳の精神を持つ十五歳の俺が、直面したのは、敵国の軍勢でも、経済危機でもなく、優秀な部下の、プライベートな感情問題だった。
俺は、床に散らばった心の破片を拾い集めるように立ち上がり、自嘲気味に笑った。自分が築いた完璧なシステムの中で、一番最初に「非効率な感情」を爆発させたのが、俺自身だという皮肉。
「母と、姉妹の居場所は把握しているんだろ? 会ってきたらどう?」
俺は、まるで友人に「ちょっと気分転換してこいよ」とでも言うかのような、軽い気持ちでそう話した。奴隷兵士たちには休暇を与えた。アリアも、この三年間の働きを考えれば、当然の権利だ。これは、俺の罪滅ぼしでもあった。彼女を道具として扱ってきたことへの、ささやかな贖罪。
アリアは、俺の言葉を聞き、先ほどまでの困惑の色を完全に消し去った。彼女は静かに俺の正面に立ち、両手を組んで深く一礼する。そして、顔を上げたその表情は、俺がこれまで見たこともないほど真剣で、冷徹な覚悟に満ちていた。
「御屋形さま、そのご配慮、心より感謝申し上げます」
彼女の声は、低く、押し殺したような響きを持っていた。
「しかし、現時点では家族との再会は不要であり、かつ危険であると判断いたします」
「な、なぜだ?」
俺の軽い調子は、彼女の重い言葉によって完全に打ち消された。
「まず、母と姉たちの居場所は、ローゼリア王国の辺境にございます。彼女たちは現在、私が解放された身分であることを知りません。私が突然、大国の重鎮として現れれば、彼女たちを過度な希望と危険に晒すことになります」
アリアの瞳は、まるで計算し尽くされた戦略図を映し出しているかのように冷静だった。
「そして、何より重要なのは、私の身分です」
彼女は、自身の胸元を指した。
「私は御屋形さまに大金貨五百枚という対価を背負っています。これは、私の自由が、御屋形さまの経済的価値と直結していることを意味します。この負債を清算し、完全な自由民となるまでは、私は誰の身内でもなく、ただの奴隷上がりの身分です」
彼女は、自分自身を、感情を持たない取引の対象として語っている。そのシリアスさに、俺は言葉を失った。
「私が家族と再会すれば、彼らは私が『裏切り者』としてローゼリア王国から追われる存在であるというリスクを背負うことになります。そして、私自身が家族という『人質』を取られた状態となり、御屋形さまへの奉公に私情を挟むことになりかねません」
アリアは、一切の揺らぎなく言い切った。
「御屋形さま。私は、御屋形さまの近代国家建設という大目標に、自らの私的な感情や過去のリスクを持ち込むつもりはございません。私にとっての家族の救済は、私が『完全な自由』と『絶対的な力』を手に入れた後でなければ、絶対に手を付けてはならないタスクなのです」
その言葉は、俺の提案がどれほど浅はかであったかを物語っていた。俺が「休暇」として提案した再会は、彼女にとっては、命を懸けた将来の戦略を狂わせかねない、最大の「非効率」な危険因子でしかなかったのだ。俺は、彼女の背負う重責と、その覚悟の深さに、ただ圧倒されるしかなかった。
アリアの重い、シリアスな覚悟に、俺はすっかり気圧されていた。彼女にとって、家族の再会はあまりにも重大な戦略的判断であり、俺の軽率な提案は、その計画を乱す雑音でしかなかったのだ。
だが、俺もここで引き下がるわけにはいかない。俺の精神は32歳。完璧なシステムを壊そうと奮闘する、中年サラリーマンの執念がある。
「いや、ちょっと待てよ、アリア」
俺はわざとらしく頭を掻いた。
「たださあ、二十歳で奴隷になったってことは、当時のローゼリア貴族の娘さんだったら、婚約者もいたんじゃないの?」
その瞬間、アリアの完璧に保たれていた冷静なマスクが、パリンと小さな音を立てて崩れた。彼女の白い頬に、ふわりと淡い桃色が差す。視線は泳ぎ、いつもまっすぐ俺を見ていた瞳は、急に床の一点へと向けられた。
「……っ」
アリアは言葉を詰まらせ、俯いてしまう。その仕草は、戦場を駆け抜けた首席補佐官ではなく、ただの年頃の乙女のものだった。
(お、当たった! やっぱいるんだな!)
俺は心の中でガッツポーズをした。
「いたんだね? そりゃそうだよな。名門子爵家の三女だもんな。どんな人だったんだ? 若くてイケメンの騎士様とか?」
俺の容赦ない追撃に、アリアは小さな声で、まるで過去の夢を語るかのように囁いた。
「…その方は、父の学友のご子息で、まだ騎士ではございませんでしたが……とても、誠実で優しい方でした。私が、父のことで悩んでいる時も、いつも静かに話を聞いてくださいました…」
彼女は両手を軽く握りしめた。そのわずかな仕草に、彼女がどれほどその人を大切に想っているかが伝わってくる。
「私は、奴隷に落ちる寸前に、彼に『必ず生き抜いて、あなたを迎えに行く』と、手紙を送りました。もし、もし彼が……私の手紙を覚えていてくださるなら、私は……」
そこでアリアは言葉を飲み込み、無理やり咳払いをして、いつもの冷静さを取り戻そうとした。だが、その努力は無駄だった。彼女の目には、薄い水の膜が張っていた。
「御屋形さま。不覚にも、私情を…」
「いいよ、いいよ」
俺は、すかさず彼女の言葉を遮った。
「そりゃ、会いたいよな! 何が『解放後の私のタスク』だよ! そんな悠長なこと言ってられるか! 会いたいんだろ? 切実に、今すぐ!」
アリアは、俺の言葉に驚き、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に浮かんだのは、長年の間に押し殺されていた、切なくも可愛らしい、一途な恋心だった。
「…もし、もし叶うならば……一度だけでも、彼の無事な姿を、この目で確認したいと……。この戦が終わってから、ずっと…そう思っておりました」
彼女の言葉は、まるで初恋を語る少女のように控えめで、そして純粋だった。俺は、この完璧な主席補佐官の中に、こんなにも愛らしい乙女心が隠されていたことに、喜びを感じずにはいられなかった。
完璧な支配者としてのタスクなんかより、俺は今、この乙女の願いを叶えるという、最高にエモーショナルなタスクに夢中になっていた。




