東上級ダンジョン(8)
「我々は、最初の試練を乗り越えました。このダンジョンには、あなたたちが浄化しきれないほどの『淀み』があった。その『淀み』を、我々は取り除いた。今度は、あなたたちの番だ」
レイブンは、再びドライアドと対面していた。彼の背後には、清らかなマナに満ちた森が広がっている。もはや、淀みの不気味な気配は微塵も感じられない。
ドライアドは、その光景を静かに見つめていた。その瞳には、驚きと、ほんの少しの困惑が浮かんでいる。
「…あなたたちが、あの『淀み』を浄化した…?」
ドライアドの声は、いつになく震えていた。彼女は、人間が、それもたった一日で、自分たちエルフさえも手が出せなかった『淀み』を浄化するとは、夢にも思っていなかったのだ。
「ええ。少々荒っぽいやり方でしたが」
レイブンは、そう言って苦笑いを浮かべた。彼の頭の中には、バーベキューの煙と、愛唱歌の合唱、そして酔っ払った隊員たちの顔が浮かんでいた。
ドライアドは、しばらくの間、沈黙していた。そして、彼女は、まるで敗北を認めるかのように、深くため息をついた。
「…分かった。あなたたちを信用しよう。約束通り、我々はあなたたちと共存する方法を教えよう」
ドライアドの言葉に、レイブンは安堵の息を漏らした。
「ありがとうございます!」
レイブンが感謝の言葉を述べると、ドライアドは、少し不機嫌そうに顔を歪めた。
「ただし…」
ドライアドは、レイブンに人差し指を突きつけた。
「…あなたたちが、私の森を焼き払ったことについては、まだ許していない」
その言葉に、レイブンは思わず「ですよね…」と呟いた。
「今後、森を焼くことは絶対に許さない。そして、今後、私の森を探索する際は、必ず私に許可を取りなさい。あと、私のサテュロスたちに、美味しい木の実をたくさん持ってきてくれ。彼らは、もうお腹が空きすぎて、私に会いに来るたびに泣きついてくるんだ」
ドライアドは、そう言って不満を訴えた。その姿は、もはや森の守護者というよりも、まるでわがままな子供のようだ。
レイブンは、このダンジョン攻略が、まさかこんな形で終わるとは夢にも思わなかった。
「はい、承知いたしました。美味しい木の実、たくさん用意しておきます!」
レイブンは、深く頭を下げた。
こうして、第一大隊とこのダンジョンの住人たちは、奇妙な共存関係を築き始めた。それは、始まりから終わりまで、どこかコミカルで、笑いと涙に満ちた、奇妙な物語だった。
◆
「第一に、今後、あの森を探索する際は、必ずドライアドに許可を取ること。第二に、ドライアドのサテュロスたちに、美味しい木の実をたくさん持ってくること。我々が、東上級ダンジョンを探索する条件は以上二つでした。」
アリアは、俺のデスク横で、淡々と報告を続けていた。彼女の言葉は、まるでどこかの契約書を読み上げているかのようだった。
「エルフや世界樹のことは何もなしか……」
俺は、独り言をつぶやくように言った。このダンジョンは、世界の存亡がかかった、壮大な戦場だと思っていた。だが、蓋を開けてみれば、ただの土地利用の交渉と、お菓子をねだる子供たちの世話係に成り果ててしまった。
「あの規模の『淀み』に対して、守護番がレイス一体では、解せません。レイスは何かの代わりに見守っていただけなのでしょう」
アリアの的確な推測が、俺の胸に突き刺さる。そうだ、アリアの言う通りだ。あの『淀み』の規模からすれば、レイス一体ではあまりにも脆弱すぎる。
俺は、思考を巡らせた。あのダンジョンは、ただのダンジョンではない。世界の存亡がかかった、壮大な戦場だ。そして、俺は、その戦場に、否応なく巻き込まれてしまった。
「…アリア。このダンジョンは、まだ終わってないな」
俺の言葉に、アリアは無言で頷いた。
「この先、必ず、より強大な敵が現れる。そして、その敵こそが、この『淀み』の真の守護番、あるいは原因だろう」
俺の言葉に、アリアは静かに頷いた。彼女の瞳は、未来の出来事を正確に読み取っているかのようだった。
「ダンジョンのもう一段下の階層には、世界樹の大木と、それを守護するエルフの村が存在するのでしょう。それらと敵対する魔物としては、御屋形さまが以前おっしゃられた邪神や魔王ではないでしょうか。そうでなければ、世界樹の大木とは釣り合いません」
アリアの的確な推測に、俺は思わず息をのんだ。彼女の言葉は、まるでパズルのピースを埋めていくように、このダンジョンの謎を解き明かしていく。
「いずれにしても、様子見か。おやつ貿易と並行して探索を進めることとしようか。何か資源でも見つかればよいのだが」
俺は、そう呟いた。このダンジョンは、もはやただのダンジョンではない。世界の存亡を賭けた、壮大な戦場だ。そして、俺は、その戦場に、否応なく巻き込まれてしまった。
「承知いたしました」
アリアは、無機質な声で答えた。
「そう言えば、一番最初の探索ゴーレムからの報告は、『生命体の反応が一定でない』『マナの濃度が計測限界』という報告だったな。それについてはどう思う?」
俺の問いに、アリアは静かに目を閉じた。彼女の脳内では、無数の情報が駆け巡っている。過去のデータ、現在の状況、そして未来の可能性。それらすべてが、彼女の思考の中で結びついていく。
「…御屋形さま、その報告は、このダンジョンの本質を正確に捉えています」
アリアの声は、いつになく重々しい。
「『生命体の反応が一定でない』。これは、ダンジョン内部の生命体が、単純な魔物ではなく、意志を持った存在であること。そして、その意志が、環境に応じて変化していることを示しています。例えば、サテュロスやドライアドのように」
俺は、アリアの言葉に息をのんだ。彼女の推測は、俺の想像をはるかに超えていた。
「そして、『マナの濃度が計測限界』。これは、二つの可能性を示唆しています。一つは、このダンジョンが、我々の常識を遥かに超えるマナの源、つまり世界樹そのものであること。もう一つは、そのマナの源を、何者かが意図的に操作していること。つまり、邪神や魔王といった存在が、このダンジョンを支配している可能性です」
アリアの言葉は、まるで一枚の絵を完成させていくようだ。彼女の言葉が紡がれるたびに、このダンジョンの全貌が、俺の目の前に浮かび上がっていく。
「しかし、あのレイスは、単なる守護番に過ぎませんでした。とすると、真の敵は、まだ地下深くで力を蓄えているのかもしれません」
アリアは、そう言って目を閉じた。彼女の推測は、もはや単なる推測ではない。それは、このダンジョンの未来を予言しているかのようだった。
俺は、アリアの言葉に、静かに頷いた。このダンジョンは、もはや俺の想像をはるかに超えている。
◆
その答えは、思いがけなくやって来た。
「レイスのボスは何なのか、ですって?」
ドライアドは、レイブンの問いに首を傾げた。彼女の瞳には、ほんの少しの警戒心が浮かんでいる。
「はい、我々の探索はそれです。ドライアド様も、あの『淀み』の真の元凶は知りたいのではないですか?」
レイブンは、そう言って微笑んだ。彼は、すでにドライアドの心を掴んでいた。この数日の間に、美味しい木の実をたくさん持ってきたおかげで、サテュロスたちからの信頼は絶大だ。その信頼は、ドライアドにも伝わっていた。
「…レイスのボスは、ベヒーモスですよ」
ドライアドは、警戒を解き、静かに答えた。
「あの『淀み』はベヒーモスの呪いです。レイスは、ベヒーモスが去ったあとを任されただけですね。ただ、レイスとはいえ、かなり強力な個体でしたが」
「では、『世界樹の大木』は、どんなベヒーモスの怒りを買ってしまったのですか?」
レイブンは、さらに言葉を続けた。彼の質問は、まるで何気ない会話のようだが、その裏には、真相を探る鋭い刃が隠されている。
「それは、私たちにはわかりません。誰もベヒーモスの気持ちなんてわかりません」
ドライアドは、少し不機嫌そうに答えた。
「ただ、エルフも困惑してしまうほどの呪いを受けてしまった…と」
レイブンは、さらに言葉を重ねた。彼の言葉に、ドライアドはハッと顔を上げた。
「はい…あっ! なぜそれを知っている!」
ドライアドは、自分の口から出た言葉に、慌てて口を塞いだ。
レイブンは、心の中で勝利を確信した。
(やった…!)
彼は、何度か交易を重ね、サテュロスたちに美味しい木の実をたくさん持ってきたおかげで、ドライアドの心を巧みに誘導し、このダンジョンの真相にたどり着いたのだ。
「…ドライアド様。我々は、ベヒーモスを討伐するつもりはありません。ただ、このダンジョンの真実を知りたいだけなのです」
レイブンは、真剣な表情で語りかけた。
ドライアドは、しばらくの間、レイブンを見つめていた。そして、彼女は、観念したかのように、深い溜息をついた。
「…分かった。あなたたちには、もう隠し事はできないようだ」
ドライアドは、観念したように深い溜息をついた。レイブンは、ホッと安堵の息を漏らす。この交渉は、彼にとって、これまでのどんな戦闘よりも疲れるものだった。
「ベヒーモスは、どこにいるのか不明だ。次にいつ、ここに来るのかも不明だ。ただ、わたしたちの『世界樹の大木』に呪いを置いていっただけなのだ」
ドライアドの口から語られた真相は、拍子抜けするほどあっさりとしたものだった。ベヒーモスの気まぐれ。その一言に、世界を揺るがす危機が、まるで子供のいたずらだったかのように収まってしまった。
「…そうですか」
レイブンは、間の抜けた声で答える。
「ただ、このところ、近隣のマナが安定していて、ベヒーモスも容易には近づけないでしょう。あの『淀み』が消え去ったあとでは、ね」
ドライアドは、そう言って微笑んだ。彼女の言葉に、レイブンは、ようやく肩の力を抜くことができた。どうやら、すぐにどうこうはなさそうだ。
「…そうですか。それは、よかった」
レイブンは、心から安堵した表情で言った。
「あなたたち、本当に面白いわね。まさか、ベヒーモスの呪いを解くために、バーベキューを始めるとは」
ドライアドは、そう言ってくすくすと笑った。その姿は、もはや森の守護者というよりも、まるで近所のおばさんのようだ。
「…まあ、結果オーライ、ということで」
レイブンは、そう言って苦笑いを浮かべた。
「そうね。ただ、あなたたちのバーベキューの煙は、少し苦手だったわ。今度は、もっと美味しい木の実を持ってきてちょうだい」
ドライアドは、そう言って、レイブンに人差し指を突きつけた。
こうして、第一大隊は、世界を救うという大いなる任務を、美味しい木の実を届けるという、平和な任務へと変えてしまった。それは、始まりから終わりまで、どこかコミカルで、笑いと涙に満ちた、奇妙な物語だった。




