東上級ダンジョン(7)
それは、一種異様な光景だった。
森の奥深く、不気味な闇を放つ『淀み』を前にして、第一中隊、第二中隊の隊員たちは、肉をほおばり、エールを片手に愛唱歌を合唱している。
「われらが~いこう、いこう、行こおぉぉぉぉ♪ 勝利の道へ~♪」
彼らの歌声は、まるで町の酒場で開かれる宴会のようだ。肉を焼く香ばしい匂いが漂い、陽気な笑い声が響き渡る。だが、その背後には、世界を蝕むかのような『淀み』が、じっと彼らを見つめている。
その横では、三人の中隊長と第三中隊の隊員が、呪い耐性ポーションとマナポーションを抱え、緊張した面持ちで待機していた。彼らの顔には、「一体何が始まるんだ…」という困惑と、ほんの少しの呆れが浮かんでいる。
ダービーは、上空をゆっくりと旋回している。その瞳は、一点の曇りもなく『淀み』を捉えていた。時折、そのライフル銃が発火し、空を切り裂くような音が響く。
「聖女様はまだか?」
誰かが、そう呟いた。
「いや、聖女様を呼ぶ前に、レイスを呼び出すのが先だ!」
ザックの声が、通信端末から響く。彼は、この状況をモニターで確認しながら、作戦を指揮している。
「もっとだ!もっと歌え!もっと笑え!もっと食え!『淀み』の奴に、幸福という名の毒を食らわせてやるんだ!」
ザックの指示に、隊員たちはさらに熱気を帯びる。
「くそっ、こんな作戦、聞いたことねぇぞ…!」
第三中隊長レイブンが、思わず舌打ちする。しかし、その顔には、どこか楽しそうな笑みが浮かんでいた。
その時、『淀み』の中から、かすかな呻き声が聞こえてきた。それは、まるで負の感情を食らいすぎて、胃もたれを起こしたかのようだ。
「来たぞ…!」
レイブンが、緊張した面持ちで叫んだ。
『淀み』は、ゆっくりと形を変え始め、やがて、人の形をした黒い影が、その中から現れた。それは、まさしくレイスだった。その姿は、まるで酔っぱらいが二日酔いで苦しんでいるかのようだ。
レイスは、隊員たちの陽気な歌声と、肉を焼く香ばしい匂いに、明らかに苦しんでいる。その姿は、もはや恐怖の魔物ではない。ただただ、哀れで滑稽な存在だった。
「よし、今だ!第三中隊、突撃!ダービー、援護を頼む!」
ザックの指示が飛ぶ。
隊員たちは、愛唱歌を合唱しながら、レイスへと突撃していく。彼らの顔には、この作戦のバカバカしさと、そして勝利への確信が満ち溢れていた。
レイスは、隊員たちの陽気な歌声と、肉を焼く香ばしい匂いに苦しみながらも、その半透明な体で、第三中隊へと向かってきた。
「よし、今だ!第三中隊、突撃!」
第三中隊長レイブンの号令に、隊員たちは一斉に剣を構え、レイスへと斬りかかった。
シャキィィィン!
剣が、レイスの体をすり抜ける。まるで、空気でも斬ったかのような、軽やかな音だけが響いた。
「な、なんだ!? 効かねぇぞ!」
隊員の一人が、絶叫した。
「くそっ、やっぱり物理攻撃は通じないのか…!」
レイブンが歯ぎしりする。レイスの攻撃は、物理的な接触を伴わない。ただ、その半透明な手が、隊員たちの体に触れるだけで、その生命力を吸い取っていく。
「うわぁあああ! 俺の力が吸い取られていく!」
隊員の一人が、悲鳴を上げた。その体は、まるで干からびた木のように、みるみるうちに痩せ細っていく。
「くそっ、このままじゃ…!」
レイブンは、焦燥感に駆られた。彼らは、レイスの弱点である正の感情で満たされた空間を作り出し、レイスを誘い出すことには成功した。だが、肝心の攻撃手段がなかった。
「ダービー! 援護を!」
レイブンが、上空を旋回するダービーに指示を出した。ダービーは、無言で降下し、腕を変形させたミスリス製の剣で、レイスへと斬りかかった。
ガキィィィン!
剣が、レイスの体をわずかに揺るがせる。しかし、それは、まるで水面を叩いたかのような、微かな衝撃に過ぎなかった。
「…なんてことだ。ミスリス製でもダメなのか…!」
レイブンは、絶望的な気分になった。彼らは、目の前のレイスを倒すことができない。このままでは、ただ一方的にやられるだけだ。
「聖女様はまだか!」
誰かが、そう叫んだ。
その言葉に、レイブンの胸に、一筋の希望が差し込んだ。そうだ、聖女だ。このレイスを浄化できるのは、聖女しかいない。
「…大隊長! 聖女様はまだですか!」
レイブンは、通信端末に必死に叫んだ。その声は、もはや悲鳴に近かった。
第三中隊の隊員たちは、レイスの攻撃に苦戦していた。
鋼の剣は、レイスの半透明な体を虚しくすり抜けていく。彼らが振るう剣は、まるで空気を切るかのような音しか立てなかった。
ザシュッ!ザシュッ!ザシュッ!
レイスは、その物理法則を無視した体で、隊員たちの中を駆け抜ける。その手が触れた隊員は、悲鳴を上げ、その生命力を吸い取られていく。
「くそっ、このままじゃ、全滅するぞ!」
第三中隊長レイブンの声が、焦燥に満ちていた。
第一、第二中隊の隊員たちは、遠巻きに見守ることしかできなかった。彼らが持つ火炎放射器も、ライフル銃も、レイスには全く効果がない。ただ、目の前で仲間が苦しんでいる姿を、見ていることしかできない。
頼みのミスリル剣も、レイスの体をわずかに揺るがせるだけで、決定的なダメージにはならない。ダービーが放つ高出力の魔力弾も、レイスの体をすり抜けていく。
八方ふさがり。
ザックは、モニターに映し出されるその光景に、絶望的な気分になっていた。
「…なんてことだ。このレイスは、もはや無敵じゃないか…!」
彼の脳内には、攻略の糸口が全く見つからなかった。このダンジョンは、彼らの常識をことごとく打ち破っていく。
「…くそっ、どうすればいいんだ…!」
ザックは、自らの無力さに、歯がみした。
その時、通信端末が震え、アリアからの通信が入った。
「ザック大隊長。聖女様が、ダンジョンに到着しました」
アリアの声は、いつになく真剣だった。その言葉に、ザックの心に、一筋の光が差し込んだ。
「…よし、全隊員、聖女様を護衛しろ!レイスの動きを封じろ!この戦い、勝つぞ!」
ザックの叫びは、虚しくも、このダンジョンに響き渡った。だが、彼の顔には、もう絶望の色はない。彼は、この八方ふさがりの状況から、ついに一筋の希望を見出したのだ。
◆
俺が、ノースミッドタワーの屋上ヘリポートへと駆け込むと、後ろから技術担当ゴーレムが追いかけてきていた。
「これをお使いください。時間の都合で一発しか準備できませんでした」
技術担当ゴーレムが手渡してきたのは、一発の弾丸だった。白銀色に輝くその弾丸は、ただのミスリル製のものではないと直感でわかった。その表面には、複雑な魔方陣が刻み込まれており、かすかに聖なる光を放っている。
「中には、聖属性のマナクリスタルを充填してあります。御屋形さま、ご武運を」
技術担当ゴーレムの言葉に、俺の胸に熱いものがこみ上げてきた。奴は、俺が何をしようとしているのか、すべて理解していたのだ。
「わかった」
俺は、それだけ答えると、その弾丸をしっかりと握りしめた。その感触は、このダンジョンを攻略するための、最後の希望のようだった。
俺は、飛龍に抱えられ、東上級ダンジョンへと飛び立っていた。眼下には、都市の明かりが遠ざかっていく。そして、目の前には、不気味な光を放つダンジョンが口を開けていた。
俺の胸には、恐怖はなかった。ただ、このダンジョンを攻略するという、燃えるような決意だけがあった。
東上級ダンジョンに到着する。
俺は、飛龍から降りると、そのままダンジョン入り口前の中央指令テントへと駆け込んだ。中には、モニターを睨みつけている通信兵がいた。
「ザックへ伝えろ、俺が来た、と」
俺の言葉に、通信兵は顔を上げ、俺の姿を見て目を丸くした。
「は、はいっ!」
通信兵が慌ててザックへと通信を入れる。俺たちは、止まる間もなく入り口へと入っていった。
現場前のテントにいるザックは、モニターに映し出される『淀み』と、苦戦する隊員たちの姿に歯がみしていた。
「くそっ、このままじゃ…!」
そのとき、通信端末から通信兵の興奮した声が聞こえてきた。
「大隊長!今、御屋形さまがお連れさまとダンジョンへ突入されました!」
「…なにっ?」
ザックは、思わず声を上げた。御屋形さまが「お連れさま」を連れてきてくださった!
「よぉし、予定通りだ。皆、聞いたな!まもなく聖女様が到着だ。もう少し頑張ってくれ!」
ザックは、通信端末に激を飛ばした。彼の声には、先ほどの絶望は微塵もない。彼の頭の中は、聖女さまの御姿で一杯いっぱいになっていた。
「…来たぞ!これで、この戦いも終わりだ!」
ザックの言葉に、隊員たちは安堵の表情を浮かべた。彼らはザックの言葉を信じ、再びレイスへと立ち向かっていく。
その直前、俺は飛龍にマナクリスタルを手渡した。
「あいつの頭上で、これに魔力を注ぎ込め!10秒稼げ!いけっ、飛龍!」
飛龍は、マナクリスタルを受け取ると、あっという間に加速してレイスへと向かっていった。
「ザック!これから閃光弾を撃つ、皆に目を閉じさせろ、すぐだ!」
俺は、ダンジョンに響き渡る声で叫んだ。
「よぉし、皆目を閉じろ!まぶしいのが来るぞ!」
ザックがそう怒鳴るやいなや、レイスの頭上で眩い光が降り注ぎ始めた。それは、まるで太陽がダンジョンに降臨したかのような、圧倒的な光だった。
「よし、レールガン!」
俺は、レイスの前に到着すると、相棒の黒棒をレイスに向けて構え、そう叫んだ。
飛龍の放つ光の束が降り注ぐ中、黒棒が変化を遂げる。
バチッ、バチバチッ
激しいスパーク音を立てて、黒棒は二本のレールガンへと姿を変えた。ここまで残り5秒!
「くらえ!」
二本のレールの間に、ミスリル製の聖弾丸が俺のインベントリから静かに配置される。その弾丸は、白銀色の光を放ち始めた。一瞬の閃光とともに、弾丸が超音速で放たれた。
弾丸は、同時にレイスへと着弾する。そして、ターゲットに命中した瞬間、眩いばかりの閃光が周囲に飛び散った。
それは、闇を払う光、邪悪を浄化する神聖な力そのものだった。レイスは、絶叫を上げ、その半透明な体を痙攣させる。光は、レイスの体を内側から蝕み、その存在を消滅させていく。
「…目標、消滅」
ダービーの声が、静かに響き渡った。
レイスが消滅すると、周囲を覆っていた『淀み』は、まるで靄が晴れるかのように消え去った。そして、代わりに、清らかなマナの光が、ダンジョン全体を満たしていく。
「皆、目を開けていいぞ」
俺に声をかけられ、隊員たちは恐る恐る目を開いた。彼らは、目の前で起きた奇跡を直接見る機会を逃したが、その代わり、光の余韻が残る光景を目の当たりにしていた。あたりは清らかなマナに満ち、まるで聖域のようだった。
「…聖女さま、すごい…」
ザックは、モニターに映る、まだ眩く光り輝く二体の天使のような影を見て、そう呟いた。彼の瞳には、ダービーと飛龍が、神々しい存在として映っていた。そして、ダンジョンを攻略したことへの安堵と、俺に対する畏敬の念が満ち溢れていた。
「飛龍、撤収!」
俺の指示にすぐさま反応し、飛龍は俺を抱え、あっという間にその場を飛び去っていく。
「ザック、あと片付けまでがダンジョン攻略だ。あと交渉は任せたぞ!それと隊員たちの回復を急げ!」
俺は、去り際にそう叫んだ。
「よぉし、ダービー。上空の安全確保を頼む……」
ようやく目がみえるようになったザックが、隊員たちに指示を出していく。彼の声は、安堵と、混乱と、そして喜びが混じり合った奇妙なものだった。
その声を聞きながら、俺は飛龍に抱えられながらも小さく笑った。
「…まったくもって、聖女様さまのお陰ですよっと」
そう呟きながら、俺は、南の空へと消えていった。




