南部戦争(3)
サンライズベイを陥落させ、南部へと侵攻した部隊は、アースガルド王国とアルカディア王国の寄せ集めからなる連合軍だった。彼らは連携も武装も劣っていたが、カーライル伯爵家の軍を打ち破り、その領都を占領した。彼らの勝利は、純粋に相手の油断と、リオウ商会の富という餌に釣られた結果に過ぎなかった。
一方、ゼノクラシア王国の北西。西の大国グランベール王国との国境沿いに北上したアースガルド王国の軍隊は、訓練され、統率の取れた正規軍だった。彼らは、南部での混乱に乗じ、瞬く間にヴォルガスト伯爵領を制圧し、その領都を陥落させた。
ヴォルガスト伯爵領では、兵士たちが懸命に抵抗したが、アースガルド正規軍の圧倒的な物量の前になすすべがなかった。彼らの鎧は硬く、剣は鋭い。一兵たりとも無駄な動きはなく、一糸乱れぬ隊列で進軍する。
「なんてことだ……。まるで、機械のようだ」
ヴォルガスト伯爵は、その光景を城壁から見て、絶望的な顔で呟いた。
そして、その勢いのまま、正規軍は東南方面へ進軍を開始、王都を迂回してオルドヴァン伯爵領へと迫った。
オルドヴァン伯爵家の軍は、アースガルド軍の猛攻に対し、善戦を続けていた。彼らは、独自の武装と、長年の訓練によって、何度も敵の侵攻を食い止めてきた。だが、二方向から迫る敵には、もはや抵抗する術がなかった。
「伯爵! 北からアースガルドの正規軍です! 数も、武装も、我々をはるかに上回っています!」
オルドヴァン伯爵は、その報告を聞いて、静かに目を閉じた。
「そうか……。これが、やつらの本命だったか……」
彼らが何年も前から警戒していた、真の脅威。それは、南の連合軍ではなく、この北西から進軍してきた正規軍だった。南部の混乱は、彼らが王都へと進むための、単なる陽動に過ぎなかったのだ。
オルドヴァン伯爵領都は、激しい攻防戦の末に陥落した。城門は火薬によって吹き飛ばされ、血で染まった旗が、無残に引き裂かれて地面に落ちた。オルドヴァン伯爵は、最後まで剣を手に取り戦い、名誉ある死を選んだ。
そして、その勢いのまま、正規軍は王都へと迫った。王都の城壁は、すでに東と南からの敵の陽動によって手薄になっていた。
最後の防衛線は、あっけなく突破された。
ゼノクラシア王国の王都は陥落し、その旗は引きずり下ろされ、代わりにアースガルド王国の雷の槌が、血に染まった王宮の上で翻った。
ゼノクラシア王国は、一つの時代を終えた。それは、敵の真の目的を見抜くことができず、自らの油断と、情報の軽視によって招いた、完全な敗北だった。
トールがこの異世界に現れて、二年目の初冬のことであった。
◆
王都の陥落とゼノクラシア王国の滅亡は、もはや疑いようのない事実として、クレメンス子爵領都に押し寄せた避難民の波とともに伝えられた。王都から逃れてきた人々は、疲労と恐怖に顔を歪ませ、絶望の言葉を口にした。
「王都が……落ちたんだ……」
「何もかも、終わったんだ……」
領都は、行き場を失った人々で溢れかえり、その混乱は頂点に達していた。略奪と暴動が起きかねない状況の中、クレメンス子爵は、静かに、しかし毅然とした態度で指揮を執った。
「落ち着け! 皆の者、落ち着くのだ!」
クレメンス子爵は、兵士たちに命じ、食糧と水を公平に分配させた。彼は、一人ひとりの避難民に声をかけ、彼らの不安を少しでも和らげようとした。
しかし、彼の胸の内は、絶望と怒りで満ちていた。ゼノクラシア王国は、あまりにもあっけなく滅びた。それは、長きにわたる平和と、それに甘んじた者たちの油断が招いた結果だった。
「子爵、どうなさいますか? このままでは、アースガルド軍がここへも……」
副官の言葉に、クレメンス子爵は静かに頷いた。彼の選択肢は二つしかなかった。徹底抗戦し、領民を道連れに滅びるか。あるいは、屈服し、領民の命を守るか。
彼は、すでに答えを決めていた。
「全兵士に告ぐ。武器を捨て、城門を開け放て」
その言葉に、兵士たちは驚愕し、ざわめきが起こった。
「しかし、子爵! それでは、我々の誇りはどうなるのです!?」
一人の兵士が叫ぶ。
「誇りだと? その誇りのために、どれだけの命が失われた? 王都を、そして王国を滅ぼした者たちの誇りを、見ただろう」
クレメンス子爵は、血の涙を流すかのような痛ましい顔で続けた。
「我々は、戦わない。この地に集まった、何万という人々、そして領民たちの命を、私は守らねばならん。それが、私に残された最後の務めだ」
クレメンス子爵は、一人の騎士としてではなく、一人の領主として、最も重い決断を下した。彼は、自らの領地と、そこに集まったすべての命を守るため、無血開城を選んだのだ。
城門が静かに開け放たれた。遠くから聞こえてくる、アースガルド軍の進軍の足音が、刻一刻と近づいてくる。
クレメンス子爵は、避難民の群れの中に身を置き、彼らと共に来るべき運命に立ち向かうことを選んだ。それは、敗戦国の領主が、最後に示せる唯一の尊厳だったのかもしれない。彼の選択は、ゼノクラシア王国の最後の希望であり、新たな時代の幕開けを告げる、静かな一歩だった。
クレメンス子爵の勇気ある無血開城にもかかわらず、連合軍は彼の領地へ攻め込むことはなかった。ゼノクラシア王国の王都を陥落させたアースガルド王国の正規軍と、南部の制圧を終えた連合軍が合流したものの、戦線は予想以上に拡大し、補給線が間延びしていたのだ。これ以上の北上は危険と判断したのか、敵は旧王都を拠点に、その先の侵攻を停止した。
クレメンス子爵は、期せずして、旧王都との間に事実上の停戦ラインを設けることができた。それは、静かで貴重な時間だった。
その間、クレメンス子爵は、崩壊したゼノクラシア王国の軍隊を立て直すという、絶望的な任務に着手した。
「ゼノクラシア王国兵は、北のクレメンス子爵領を目指せ!」
この呼びかけは、絶望の淵に立たされていた兵士たちの心に、かすかな希望の光を灯した。各地で敗走し、行き場を失っていた兵士たちが、クレメンス子爵領へと集結し始めた。
彼らの顔には、敗北の屈辱と、再起を期する強い意志が入り混じっていた。
「生き残っていたか……」
クレメンス子爵は、集まってきた兵士たちを一人ひとり見つめ、その中に、懐かしい顔を見つけた。東部のオルドヴァン伯爵家の生き残り、そして、南部のカーライル伯爵家の元衛兵たち。彼らは、それぞれの領地が滅びた悲劇を背負いながらも、新たな戦いに身を投じるためにここに集まっていた。
空白の時間は、ゼノクラシア王国軍に、失われた統制と士気を取り戻す機会を与えた。
一方、連合軍もまた、補給線を立て直し、兵站を再整備していた。旧王都は、彼らの新たな拠点となり、そこから次の侵攻の準備が進められていた。
静寂は、永遠には続かない。
◆
バルザック商会のドレイクが、ストーンゲート男爵邸に「はがねの剣」と「カイトシールド」を50組納品に向かっていたその時、事態は急速に悪化していた。男爵邸に到着すると、門前はすでに慌ただしく、男爵が自ら兵士たちに武器を装備させ、出撃の準備を進めているところだった。
「ドレイク、ちょうどよかった! これを受け取ってすぐに準備をしろ!」
ストーンゲート男爵は、ドレイクの姿を見て叫んだ。
「男爵様、一体何が……?」
ドレイクが驚きながら尋ねると、男爵は険しい表情で答えた。
「連合軍が王都に接近しているらしい。王都からの増援依頼もあり、我々も出かけなくてはならない。」
男爵の言葉には、決意と同時に、かすかな諦めのようなものが含まれていた。彼は、王国の窮地を救うべく、自らの軍を率いて王都へ向かった。しかし、それは絶望的な戦いだった。
王都の城壁の下で、ストーンゲート男爵軍は、アースガルド王国の正規軍と激突した。男爵軍は、バルザック商会から納品されたばかりの真新しい装備で善戦を試みた。兵士たちは、訓練された敵に立ち向かい、奮闘した。しかし、アースガルド正規軍の圧倒的な物量と、完璧な統率の前では、一握りの勇気だけではどうにもならなかった。
戦闘は、膠着した。ストーンゲート男爵軍は、アースガルド正規軍を前にして一歩も引けを取らなかった。が、その圧倒的な物量と兵数の前に、じりじりと追い込まれ、男爵自身も、最前線で奮戦したが、多勢に無勢、傷ついた兵士たちとともに、領地へと退却するしかなかった。
数日後、ストーンゲート男爵邸に戻ってきた男爵の姿は、以前の威厳に満ちた姿とは程遠いものだった。彼の鎧は血に汚れ、顔には深い絶望が刻まれていた。
「我々は、まだ負けたわけではない。クレメンス子爵に合流する」
◆
エト町の街道沿いにある跳ねる小鹿商会。その執務室は、書類の山と、さまざまな特産品の見本で溢れていた。普段はドレイクに取引を任せているバルザックが、珍しく直接ここを訪れていた。
「いらっしゃいませ、バルザック様。このたびはご足労いただき、ありがとうございます」
アットホームな雰囲気の中、アリアは柔らかな笑顔でバルザックを出迎えた。彼女は、王都の混乱が遠い世界の話だとでもいうように、穏やかな声で言った。
「さて、商会長様の直々のご来店です。ご用件をお伺いしましょう」
アリアの言葉に、バルザックは、いつも商談で見せる冷静な表情を崩し、どこか深刻な面持ちで口を開いた。
「実は、アリア殿……」
彼はゆっくりと話し始めた。南部のカーライル伯爵軍の壊滅、そして王都の陥落。ゼノクラシア王国が、もはや滅亡寸前の状態にあること。そして、その北部にある、クレメンス子爵領オルドヴィスへの周到な侵略計画。
「彼らは、我々を次の獲物と見ているはずだ。不平等な貿易で、我々を弱体化させ、いずれ侵略するつもりだろう。このままでは、我々も王都と同じ道を辿ることになる」
アリアは、バルザックの言葉を静かに聞いていた。彼女の表情は、いつもの穏やかな笑顔から、真剣なものへと変わっていた。
「……バルザック様のお話、信じがたいことですが、今の状況を考えれば、あり得ない話ではありませんね。では、私たちにできることは何でしょうか?」
バルザックは、テーブルに広げた地図を指差した。それは、グランデル王国の旧王都と、クレメンス子爵領都オルドヴィスとの間に想定された前線だった。
「私たちは、ただ待っているわけにはいかない。この火の粉がグランデルの町に燃え広がる前に、手を打たなければならない」
二人の商人は、自商会の未来を左右する重大な決断を、小さな執務室で交わしていた。それは、ただの取引ではない。商人の矜持と、自国を守るための、密かな戦いの始まりだった。
◆
再び、戦火が熾ろうとしていた。
ゼノクラシア王国軍は、クレメンス子爵という新たな希望の旗の下に集結した。そして、その前方には、再び牙をむく、アースガルド王国とアルカディア王国の連合軍が控えていた。
両軍の睨み合いは、まるで嵐の前の静けさのようだった。次に動くのはどちらか。その一歩が、この戦争の、そしてゼノクラシア王国の命運を決定づけることになるだろう。
◆
「御屋形さま、バルザックから出撃要請がございました。」
「第一大隊、第二大隊、遊撃魔道中隊、全部隊に出撃させてよいよ。総司令官はアリアね。蒼龍飛龍も随行させて。」
「ただ、ダービーはだめだ。あれには人殺しを禁止している。たとえ敵兵でもね。戦場では何の役にも立たない。」




