南部戦争(2)
カーライル伯爵領都が陥落した日、太陽は血の色に染まっていた。
勝利に酔いしれた連合軍の兵士たちは、略奪と破壊の限りを尽くした。かつてリオウ商会の繁栄を象徴していた豪華な商店は、窓ガラスが打ち破られ、商品が路上にまき散らされ、価値あるものはすべて持ち去られていた。富を築き上げた三角貿易の証である金銀財宝は、兵士たちの欲望を満たすために奪われ、その財宝を守ろうとした商人や市民は、容赦なく斬り殺された。
美しい南洋の町は、一瞬にして暴力と悲鳴が支配する地獄へと変貌した。抵抗する男たちは容赦なく斬り捨てられ、女子供は物のように扱われた。敗北した衛兵たちは、武器を捨て、地面にひざまずいた。彼らの顔には、屈辱と恐怖、そして自らの無力さに対する絶望が浮かんでいた。
捕虜となった兵士たちは、泥まみれの服と血に染まった顔で、鎖につながれ、引きずられていく。彼らの目に宿るのは、もはや戦う意志ではなく、ただ生きるためのわずかな希望だけだった。
「なぜだ……」
ある兵士が虚ろな声で呟いた。
「なぜ、俺たちは負けたんだ……」
その問いに、答える者は誰もいなかった。彼らは、自らが築き上げた平和と繁栄が、いかに薄っぺらなものだったかを知った。最新の装備も、十分な訓練も、そして何よりも、敵の脅威を正しく見極める洞察力も持っていなかった。
「お前たちが肥え太るために、俺たちはどれだけ苦しんだか……!」
アースガルド軍の兵士が、倒れたゼノクラシア兵の胸に槍を突き立てながら叫ぶ。彼らの憎悪は、単なる戦争の敵意ではなく、長年にわたる不平等な貿易に対する鬱憤からくるものだった。
カーライル伯爵領都の城門には、無残に首を刎ねられた伯爵の遺体が晒され、その傍らには、リオウ商会の旗が引き裂かれて捨てられていた。それは、この地の権力者と、富の象徴が、いかに脆く崩れ去ったかを物語る、残酷な結末だった。
南部の惨状は、王国全体に深い傷跡を残した。それは単なる領地の喪失ではなく、ゼノクラシア王国の自尊心と、長年の平和がもたらした油断の、あまりにも大きな代償だった。
◆
王都グラヴィスに、カーライル伯爵領陥落の報せが届いたのは、侵攻が始まってから実に三日後のことだった。伝令の兵士は、泥と血にまみれ、疲れ果てた表情で王の玉座へとひざまずいた。
「申し上げます! 南部カーライル伯爵領、陥落いたしました! アースガルド王国とアルカディア王国の連合軍による奇襲で……」
報せを聞いたゼノクラシア国王の顔から血の気が引く。彼は、すぐさま宰相を呼び寄せ、状況を確かめた。
「何だと!? カーライル伯爵には、あの双剣使い、デュラン・オーエンがいるんじゃなかったのか? 彼がいて、なぜ領都が落ちたのだ?」
宰相は、震える声で答えた。
「その、オーエン殿は、グランベール王国のダンジョン攻略に出ておりました。その留守を、敵は狙ったようです……」
国王は激しく玉座を叩き、怒りをあらわにした。
「馬鹿な! そんな重要な人物が、なぜ今、国外にいるのだ! そしてなぜ、その情報がこれほど遅れたのだ!」
時すでに遅し。カーライル伯爵領は完全に敵の手に落ち、連合軍は破竹の勢いで北上を続けている。ゼノクラシア王国の防衛網は、南部の要衝を失ったことで、がら空きになってしまった。
国王は、もはや後悔している暇はないと悟り、防衛の陣頭指揮を執り始めた。
「全軍に警戒態勢を敷け! 王都の城壁を固めろ! 各伯爵家にも伝令を送り、速やかに援軍を要請しろ! 特に、東部のオルドヴァン伯爵家には、最大限の警戒と援軍を要請しろ!」
王都グラヴィスの兵士たちは、慌ただしく防衛準備を始めた。市民もまた、南から聞こえてくる不穏な噂に不安を募らせ、家に閉じこもる者が増えていった。
この国は長らく、東と西の二つの大国に挟まれながらも、天然の障壁と巧妙な外交で平和を保ってきた。しかし、その均衡は、アースガルド王国の周到な準備と、ゼノクラシア王国の油断によって、もろくも崩れ去った。
王都は、いつ来るか分からない敵の襲撃に備え、静かな緊張感に包まれていた。だが、彼らがどれだけ準備をしても、すでに多くのものを失っていることに、彼らはまだ気づいていなかった。
これは、ただの戦争ではなかった。これは、王国全体の無防備さと、情報を軽視した代償だった。
◆
ゼノクラシア王国の東部。オルドヴァン伯爵の居城にも、遅ればせながら南部の壊滅的な知らせが届いた。伝令の兵士が息も絶え絶えに告げた報せは、オルドヴァン伯爵の顔を厳しく歪ませた。
「くそ、南が落ちたか……」
彼は奥歯を噛みしめ、地図に視線を落とした。カーライル伯爵領が陥落した今、連合軍は南から王都グラヴィスへと一直線に進軍してくるだろう。東にいる彼らが王都への援軍に向かえば、その間隙を突かれて領地を失うリスクがあった。
副官が厳しい表情で進言する。
「伯爵、今の戦況では、王都へ援軍は出せません! アースガルド軍の攻勢は激しく、我々も手一杯です。無理に兵を割れば、この領地も危うくなります!」
オルドヴァン伯爵は黙って頷いた。彼は何年も前から、東の大国アースガルドの脅威を肌で感じていた。それゆえ、リオウ商会との取引を制限し、自領の鉱山で採掘した鉱石を最新の技術で武装に転用させていた。彼らの装備は、カーライル伯爵領の旧式な武装とは違い、アースガルド軍のそれとも十分渡り合えるだけの性能を持っていた。
それが功を奏し、オルドヴァン伯爵家は、連日続くアースガルド軍との激戦でなんとか持ちこたえていた。彼らの要塞化された城壁は敵の猛攻をしのぎ、精鋭兵たちは知略と勇気で敵の進軍を遅らせていた。
しかし、南部の陥落は、オルドヴァン伯爵家の戦況をさらに厳しいものにした。彼らは今、ゼノクラシア王国にとって、王都を守るための最後の砦となっていた。
「わかっている……。だが、我らが持ちこたえなければ、王都は守れん。そして、王都が落ちれば、ゼノクラシア王国は終わる」
オルドヴァン伯爵の目に迷いはなかった。彼は立ち上がり、決然とした声で命じた。
「全軍に伝えろ。我々は、この地で東からの敵を食い止める。一歩たりとも、西には通さないと!」
東の山脈に響く鬨の声が、彼の揺るがぬ意志を物語っていた。それは、カーライル伯爵家が見失った危機意識と、長年かけて築き上げた防衛力によって、かろうじて保たれている希望の光だった。彼らは、自らが王国最後の盾であることを理解し、その使命を果たすために戦い続けることを誓った。
◆
カーライル伯爵領の陥落から数週間後、ゼノクラシア王国の防衛戦線に、信じられないほどの好機が訪れた。
連合軍は、南部での圧倒的な勝利に酔いしれ、その統制はすでに瓦解していた。リオウ商会が所有していた高級ワインの貯蔵庫が発見されると、一般兵士から下級士官に至るまで、文字通り酒に溺れ、略奪品に興じる日々を送っていたのだ。規律は失われ、酔いつぶれた兵士たちが、占領地で好き勝手に振る舞っていた。それを統括すべき上官たちでさえ、同様に勝利の美酒に酔いしれていた。
「勝利に浮かれ、規律を失うとは……なんと愚かな」
王都グラヴィスの城壁から、ゼノクラシア王国軍の指揮官は、その油断しきった敵軍の様子を見て、そう呟いた。
この状況を好機と捉えたゼノクラシア王国軍は、即座に反撃を開始した。北部の国境から、南部の防衛線へと、精鋭部隊が静かに進軍する。彼らは、敵の警戒網をすり抜け、夜陰に紛れて攻撃を仕掛けた。
「敵襲だ! 酔っぱらっている場合じゃない!」
酒にまみれて眠りこけていた連合軍の兵士たちは、突如として鳴り響く剣戟の音に、慌てて武器を手に取る。しかし、その動きは鈍く、戦意も失われていた。
「我々に、敗北はない!」
ゼノクラシア王国軍は、南部の屈辱を晴らすべく、猛烈な勢いで攻め込んだ。連合軍の兵士たちが、武器を持つこともままならないうちに、次々と斬り伏せられていく。
戦闘は、もはや一方的な虐殺だった。訓練されたゼノクラシア王国軍の兵士たちは、規律を失った連合軍を次々と打ち破り、占領された領土を奪還していった。
それは、ゼノクラシア王国が、敗北の淵から立ち上がり、自らの誇りを取り戻すための、激しい戦いの始まりだった。
カーライル伯爵領は、血にまみれた泥沼のような戦場と化したが、ゼノクラシア王国軍は、その戦線を進め、着実に勝利を積み重ねていった。
「我々は、まだ終わっていない!」
指揮官の叫びが、戦場に響き渡る。その声は、敗北の絶望に沈んでいた人々の心に、希望の光を灯した。
ゼノクラシア王国軍の反撃は、まさに歴史的な転換点となった。しかし、この勝利が一時的なものに過ぎないことを、彼らはまだ知らない。この戦いの背後には、まだ見ぬ思惑が渦巻いていることを……。
◆
ゼノクラシア王国軍の反撃は、まさに奇跡的だった。勝利に酔いしれていた連合軍を打ち破り、占領された領地を次々と奪還していく。王都グラヴィスの城壁には、歓声が響き渡り、人々の顔には希望の光が戻っていた。しかし、その勝利は、彼らが想像するよりもはるかに脆いものだった。
南部の反撃戦線で指揮を執っていたベテラン将軍は、次第に違和感を覚える。あまりにも敵の抵抗が弱すぎる。まるで、最初から勝利を捨てているかのように。
「将軍、敵は我々が反撃に出るのを待っていたのかもしれません」
副官の言葉に、将軍は眉をひそめた。
「どういうことだ?」
「彼らは、カーライル伯爵領での略奪と破壊を、意図的に放置したのではないでしょうか? 我々が南部に全力を向けるよう、誘い込むために……」
その言葉は、将軍の胸に冷たい水を浴びせかけた。そうだ、オルドヴァン伯爵家は東部で必死に防衛を続けている。そして、この反撃のために、王都の防備も手薄になっているはずだ。
その時、遠く西の空に、狼煙が上がった。それは、ゼノクラシア王国の西部の要衝、ヴォルガスト伯爵領地の方向からだった。
「まさか……!」
将軍は震える声で呟く。
アースガルド王国の艦隊は、サンライズベイを襲った後、南部の海岸線沿いを迂回し、西の大国グランベール王国との国境沿いに北上していたのだ。彼らは、あえてゼノクラシア王国軍の反撃を誘い込み、南部に戦力を集中させ、その隙を突いて西から王都へ進軍する、二重の奇襲を仕掛けていたのだった。
「なんてことだ……。南での勝利は、我々を欺くための罠だったのか!」
ゼノクラシア王国軍は、喜び勇んで進軍した南の戦線で、完璧な罠にはまっていたのだ。東部ではオルドヴァン伯爵家が必死に敵を食い止め、南部では反撃に成功したかに見えた。しかし、そのすべての動きは、アースガルド王国の綿密な計画の上で動かされていたパペットダンスに過ぎなかった。
ゼノクラシア王国の防衛戦線は、西から完全に突破され、王都グラヴィスは、今、三方から包囲されようとしていた。
これは、単なる敗北ではなかった。これは、アースガルド王国の周到な知略と、ゼノクラシア王国の情報収集能力の欠如がもたらした、完全な敗北だった。
そして、遠く離れたオルドヴァン伯爵は、王都の危機を悟り、苦渋の決断を迫られていた。彼が王都へと援軍を送れば、東部の防衛は崩壊する。しかし、このまま東部を守り続ければ、王国そのものが消滅する。
ゼノクラシア王国は、完全な窮地に追い込まれていた。




