南部戦争
ゼノクラシア王国の東部を預かるオルドヴァン伯爵家は、東にアースガルド王国との国境を接する。彼らの兵力と装備から、伯爵が領地の南部、すなわちアースガルド王国との国境付近の防衛に力を入れているのは明らかだった。これは、オルドヴァン伯爵家がアースガルド王国の軍事的脅威を十分に認識していることを物語っている。
東の大国アースガルド王国とゼノクラシア王国との間には、東の大山脈とアルカディア王国が横たわっている。オルドヴァン伯爵がこの地で安泰を保てているのは、まさにこの天然の障壁と、間に他国を挟んでいることによるものだった。
しかし、もしアースガルド王国がこの障壁を突破する、あるいはアルカディア王国を懐柔し、彼らの領地を迂回する戦術を取ったとしたら、この地の平和は一瞬にして崩れ去るだろう。オルドヴァン伯爵が南部の防衛に力を入れているのは、この脅威を肌で感じているからに他ならない。
ゼノクラシア王国の南部を預かるカーライル伯爵家は、その豊かな自然に恵まれている。南東で国境を接するアルカディア王国正規軍との小競り合いは絶えないが、両地域とも食糧に困窮していないため、本格的な争いには発展せず、常に小競り合いで終わっていた。
そこには油断があったのかもしれない。地域特産品を活かした貿易で莫大な富を築き上げているリオウ商会は、相変わらず三角貿易で巨額の利益を上げ、その財力はカーライル伯爵家の勢力拡大に大きく貢献している。
もしアースガルド王国がその障壁を突破する、あるいはアルカディア王国を懐柔し、彼らの領地を迂回する戦術を取ったとしたら、この地の平和は一瞬にして崩れ去るだろう。しかし、カーライル伯爵家は、その脅威を感知できていなかったようだ。
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サンライズベイの朝は、いつもと変わらない賑わいに満ちていた。ヤシの木が風にそよぎ、波は穏やかに海岸線を洗う。紅茶葉とスパイスを積んだ貿易船が停泊し、リオウ商会の旗が眩しい陽光の下で誇らしげにはためいていた。ここは、カーライル伯爵領が誇る豊穣の象徴。長年続くアルカディア王国との小競り合いなど、この地の平和を揺るがすにはあまりに取るに足らない出来事だった。
「今日も大漁だ!」
日焼けした漁師が威勢のいい声を上げ、網いっぱいの魚を陸に引き揚げる。その様子を、港に並んだ露店の商人が笑いながら眺めていた。活気と富に満ちたこの町で、誰もが明日も同じような平穏が続くことを疑わなかった。
しかし、その平穏は、突如として断ち切られる。
水平線の彼方、東の空にうっすらと見えていた影が、徐々にその姿を現した。それは一隻、また一隻と増え、やがて視界を埋め尽くすほどの巨大な船団へと変わっていく。船首に掲げられた旗は、見慣れない二つの紋章を掲げていた。一つは、東の大国アースガルド王国の象徴である、荒々しい雷神の槌。そしてもう一つは、これまで小競り合いを続けてきたはずのアルカディア王国の、太陽の剣。
「まさか……」
誰かがかすれた声で呟く。その瞬間、船団から放たれた無数の矢が、太陽の光を遮るように空を覆った。矢は貿易船の帆を切り裂き、港の建物を容赦なく突き刺す。
海が、燃え上がった。
アースガルド王国の艦隊は、魔法で強化された火矢を放ち、サンライズベイの港を炎の海へと変えた。リオウ商会の豪華な商船も、あっという間に業火に包まれていく。
「敵襲だ! 港を閉じろ!」
カーライル伯爵家の衛兵隊長が叫ぶが、その声は轟く砲声にかき消された。アルカディア王国の正規軍が率いる強襲揚陸艇が、次々と浜辺に兵士を吐き出す。彼らの顔には、見慣れた敵意ではなく、冷酷な従順さが浮かんでいた。
このとき、カーライル伯爵家は初めて、彼らが抱いていた「油断」の代償の大きさを知った。アースガルド王国がその天然の障壁を乗り越え、アルカディア王国を懐柔するという、最も恐ろしいシナリオが現実のものとなったのだ。
平和と繁栄に甘んじていたこの町は、わずか数分のうちに戦火に包まれ、その歴史に血の一ページを刻むこととなる。そして、それはゼノクラシア王国南部の、終わりの始まりだった。
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カーライル伯爵領の南部国境。今日もアルカディア王国正規軍との小競り合いが続いていた。ゼノクラシア王国の衛兵たちは、慣れた様子で敵の動きを警戒している。この地域での戦いは、もはや日常の一部だった。どちらも本気で領土を奪う気はなく、ただ互いの存在を確認し合うような、形ばかりの衝突でしかなかった。
「今日もすぐに引き揚げるだろうさ。もう日も暮れる」
古参の兵士が退屈そうに呟き、仲間がそれに頷く。
しかし、この日のアルカディア軍の様子は、いつもと違っていた。
彼らは引き下がるどころか、むしろ隊列を整え、これまで見せたことのない規律と獰猛さをもって、攻撃を仕掛けてきたのだ。さらに、その中には見慣れない鎧をまとった兵士たちが混じっていた。彼らの装備は、アルカディア軍のそれよりも遥かに洗練されており、一つ一つの動きに無駄がない。
「おい、あれは……?」
衛兵の一人が目を見開く。その兵士たちの盾には、見慣れない雷の槌の紋章が刻まれていた。ゼノクラシア王国との間を大山脈で隔てられた東の大国、アースガルド王国の紋章だ。
「馬鹿な……アースガルドの兵士が、なぜここに?」
疑問が渦巻く中、背後から轟音が響いた。南洋海岸の港町サンライズベイの方向から、空を焦がすような黒煙が立ち上っている。港の町が燃えているのだ。
その瞬間、衛兵たちの顔から血の気が引いた。彼らが日常だと思っていた小競り合いは、すでに本物の戦争へと変貌していたのだ。アースガルド王国がアルカディア王国を懐柔し、二つの王国が連合して攻め込んできた。そして、彼らが最優先に狙ったのは、カーライル伯爵家の繁栄の象徴であるサンライズベイだった。
彼らは、自分たちがどれほどの油断をしていたかを思い知る。港が襲われれば、食糧や物資の供給が断たれ、カーライル伯爵家は立ち行かなくなる。アルカディア軍の目的は、もはや国境での小競り合いではなく、ゼノクラシア王国の南部の完全な制圧だった。
南の国境を任されていた衛兵たちは、後方の状況を把握しようと混乱する。しかし、その隙を逃すほど、敵は甘くなかった。アースガルド王国の精鋭部隊が、一斉に襲いかかってきた。その動きは、まるで嵐のようだった。
カーライル伯爵領は、南と東からの挟撃を受け、あっという間に戦火に包まれた。平和に慣れきっていたこの地は、もはや地獄と化す。これは、始まりに過ぎなかった。
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アースガルド王国とアルカディア王国の連合軍が、ゼノクラシア王国への侵攻を開始した。その進撃はまさに電撃的だった。通信網が未発達なこの時代、奇襲攻撃は敵に準備する暇を与えない有効な戦略であり、その効果は絶大だった。ゼノクラシア王国軍は、各領地が個別に襲撃されたことで混乱し、統一された防衛戦線を築くことができなかった。
アースガルド王国の艦隊は、サンライズベイを陥落させた後、カーライル伯爵領の中心部へと内陸を遡上し始めた。同時に、アルカディア王国の陸軍は、南の国境を突破し、まるで嵐のようにカーライル伯爵領都へと迫る。
この二方面からの挟撃を正当化するため、アースガルド王国の宰相は、国民に向けて高らかに宣言した。
「ゼノクラシア王国の悪徳商人であるリオウ商会は、不平等な取引により我々の富を搾取し、奴らだけは肥え太っている。正義は我々にある。正義の鉄槌を食らわせろ!」
この声明は、アースガルド王国内で熱狂的に受け入れられた。彼らは、自国の富を守るための「正義の戦い」だと信じ込まされ、士気は最高潮に達していた。
連合軍は、破竹の勢いで進む。南洋の豊かな平野は、瞬く間に戦場へと変わり、のどかな村々は炎に包まれた。
カーライル伯爵領都の城壁から、衛兵たちは迫りくる連合軍の姿を見て、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。平和に慣れきっていた彼らの軍は、圧倒的な戦力差の前に為す術もなく、各地で壊滅的な打撃を受けていた。
東と南から、雷の槌を掲げたアースガルド王国の精鋭部隊が、太陽の剣を掲げたアルカディア王国の正規軍が、一つの巨大な渦となって領都を飲み込もうとしていた。
カーライル伯爵領の平和は、もろくも崩れ去り、その富は血と炎の代償として奪われようとしていた。彼らは、自らが築き上げた富と引き換えに、最も重要なものを失っていたのだ。それは、未来を予見し、脅威に備えるという、ごく当たり前の危機意識だった。
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カーライル伯爵領都の城門は、連合軍の圧倒的な物量と、その装備の差によって、もはや風前の灯火だった。
ゼノクラシア王国軍の武装は、アースガルド王国から輸入された剣や鉱石を基に作られていた。それは、数年、あるいは十年以上も前に製造された旧式の武器であり、すでに一世代前の技術でしか扱えない代物だった。それがゼノクラシア王国軍全体の武装の主流を占めていたのだ。
一方、城壁を打ち破ろうとするアースガルド王国の攻城兵器は、より硬く、より鋭い新たな鉄鋼で作られていた。彼らの兵士が持つ剣や槍も、ゼノクラシア軍のそれとは比べ物にならないほど洗練されており、わずかな剣戟で相手の武器をへし折ることができた。
「嘘だろ……俺の剣が……!」
ある兵士が叫ぶ。彼の剣は、アースガルド王国の兵士が振るった一撃によって、簡単に刃こぼれし、ついには折れてしまった。
「くそっ、奴らの鎧は硬すぎる!」
別の兵士が、敵の分厚いプレートアーマーに剣を突き立てるが、その刃は滑り、傷一つつけられない。彼らが長年頼りにしてきた武装は、もはや何の役にも立たなかった。
この圧倒的な武装の優位性は、この侵略が何年も前から周到に準備されていたことを雄弁に物語っていた。アースガルド王国は、ゼノクラシア王国に旧式の素材を輸出し、その間に自国では最新の技術で軍備を整えていたのだ。貿易による利益を享受していたリオウ商会も、カーライル伯爵家も、まさかその裏で、自らの喉元に突きつけられる刃が磨かれていたとは夢にも思わなかっただろう。
カーライル伯爵は、城壁の上から、目の前の絶望的な光景を眺めていた。兵士たちの士気は地に落ち、もはやまともな抵抗は不可能だった。
南洋の美しい港町サンライズベイを失い、食糧と物資の供給は途絶えた。そして今、領都を死守する最後の砦も、その武装の差によって、無力化されつつある。
カーライル伯爵領の陥落は、もはや時間の問題だった。それは単なる敗北ではなく、長きにわたる平和と油断の代償として、自ら招き入れた破滅の序曲だった。
城門を打ち破る、けたたましい破壊音が響く。それは、ゼノクラシア王国の南部の、そしてカーライル伯爵家の時代の終焉を告げる、最後の鉄槌だった。




