束の間の平穏
大森林の夜は、どこまでも深く、獣の咆哮が遠くで響いていた。バルザックは、北の大森林を背に、揺れる馬車の奥でブランデーを一口飲み、その琥珀色の液体が喉を焼くのを感じた。
「もうすぐだ、もうすぐグランデルだ……」
彼が独りごちた。馬車には、高価な酒樽が厳重に積み込まれている。それは、エト村へ出張取引に出ては小銭を稼ぐ程度の、これまでのバルザックでは決して手に入らなかったものだ。
この成功は、エト村の北に広がる大森林と、その向こうにそびえる大山脈を根城とする“得体のしれない怪物”、未知の文化圏との接触によってもたらされた。誰もが最果てのエト村の更に北に、そんな場所があるとは想像すらしなかった。突然バルザックにもたらされた幸運。しかし、幸運の女神さまの前髪をしっかりと掴んだのもバルザックだった。
彼が持ち帰ったブランデーやウィスキーは、この地域では見慣れない、しかし抗いがたい魅力を持つ商品だった。しかし、その成功は、すぐにグランデルの権力者たちの耳に届いた。
グランデルにあるクレメンス子爵の邸宅では、代理人ハーマンが、バルザックが持ち込んだ酒を口にし、その味に驚愕していた。
「これは……他の地域の奴らとの差別化になる。なんとしても手に入れなくては。」
ハーマンの言葉は、単なる嫉妬ではない。それは、自分たちの支配が及ばない場所で、新たな富と力が生まれていることへの危機感だった。
「バルザックは、エト村へ出張取引に出かけては小銭を稼ぐ程度の商人だったはず。奴がこれらの商品をどこから仕入れたのか、徹底的に調べさせろ!」
彼の声が、書斎に響く。
バルザックが切り開いた道は、既存の貴族社会の秩序を揺るがすものだった。彼にとって、それは単なる富の獲得ではない。それは、古い権力に縛られない、新しい時代の幕開けだった。しかし、その成功は、彼に新たな危険をもたらすことになるだろう。
馬車が揺れるたびに、積み込まれた小麦粉の袋が微かに擦れる音がする。その音は、バルザックにとって、故郷の村では決して聞くことのなかった、成功の響きだった。
エト村の北に広がる大森林とその向こうにそびえる大山脈、そこには未開拓の地が広がっていた。貴族の支配が及ばないその場所で、バルザックは従来の商人とは異なる方法で富を築き始めた。
彼の商売の柱は二つ。一つは精製された白い小麦粉だ。手間暇をかけて作られたそれは、この世界では高貴な身分の者しか口にできない高級品だった。そしてもう一つが、グラスモーの精肉だ。牛に似た大型の魔物で、その肉は驚くほど美味いと聞いていた。そして、特定のハーブを食べることで回復効果が付与されるため、冒険者たちの間で人気が高い。
“得体のしれない怪物”の未知の文化圏の知識により、ハーブを混ぜた特殊な餌でグラスモーを捕獲し、その肉は、ジャーキーや塩漬けに加工され、保存食として彼の馬車に積み込まれた。
彼が持ち帰った商品は、たちまち評判を呼んだ。貴族たちは白い小麦粉を求め、冒険者たちは回復効果のあるグラスモーの肉に殺到した。バルザックは、従来の富裕層だけでなく、新たな顧客層をも獲得していった。それは、単に珍しい商品を売るだけでなく、知識と技術で新たな価値を創造するという、この世界にはなかった新しい商売の形だった。
しかし、その成功は、グランデルの権力者たちの耳にも届いていた。クレメンス子爵の代理人ハーマンは、バルザックが持ち帰ったブランデーを飲み干した後、その報告書を読み上げ、忌々しげに呟いた。
「精製小麦粉にグラスモーの精肉だと?……奴はただの小銭稼ぎではなかったか。どこでこのような品を手に入れたのだ。我々の領地でこのようなことが許されるはずがない」
ハーマンの顔には、バルザックへの個人的な嫉妬ではなく、自分たちの既存の権力と経済的利益が脅かされることへの危機感が浮かんでいた。
「バルザックという男、徹底的に調べ上げろ。奴の商売の仕入れ先を特定し、その供給を断て。そして……奴がこれ以上、我らの秩序を乱さないように、手を打て」
バルザックは、自身の成功が、やがて来る嵐の前触れであることを感じていた。彼の戦いは、この世界に新しい風を吹き込むと同時に、古い権力との避けられない衝突へと向かっていた。
エト村へ出張取引に出ては小銭を稼ぐ程度の商人だった頃には、夢にも思わなかった大規模なキャラバンを率いることになった。積み荷は、これまで扱ってきた品物とは全く異なる。それは、奴隷だった。
「私が仕入れたいのは、奴隷です」
バルザックの前に現れたのは、フードを深く被り、その素性が全く掴めない「得体のしれない怪物」と呼ばれる男だった。男の声は低く、しかし奇妙なほどに丁寧で、その提案はバルザックを一瞬驚かせた。奴隷の取引。それは、彼のこれまでの商売とは次元の異なる、暗く、しかし莫大な利益を生む世界だった。
「ほう、お前さんのような者が奴隷を? いったい何に使う?」
バルザックはすぐに興味を抱いた。彼は無数の商品を扱ってきたが、人間を「商品」として見る視点には、ある種の新鮮さを感じていた。
「労働力としてだけでなく、護衛や情報収集など、多目的に利用できる者を探しています。特に、希少なスキルを持つ者や、使い込みの激しい奴隷を安く引き取りたい」
男の言葉を聞き、バルザックはにやりと笑った。まさに、渡りに船だった。彼自身、抱えきれないほどの奴隷を抱えており、使い道のない者や、何らかの理由で不都合になった者の処分に困っていたのだ。
「フム、それは面白い。手持ちの奴隷の中には、お前さんの希望に沿える者もいるだろう」
この取引は、バルザックにとっての勝利の瞬間だった。これまでの小銭稼ぎとは違う、遥かに大きな富と、そして力を手に入れる機会。不良在庫の山が、莫大な金貨の山へと変貌するのだ。それは、貴族たちの妨害工作が激しくなる中で、自身の身を守り、さらなる高みを目指すための重要な一歩となるだろう。
キャラバンが砂塵を巻き上げて進む。バルザックの目は、ただの富だけでなく、その先に広がる新しい世界を見据えていた。彼は、この未知の取引が、自身の運命を大きく変えることを確信していた。そして、その変化こそが、古い秩序を打ち破るための、新たな武器となるのだと。
エト村へ向かう馬車の揺れは、バルザックの心臓の鼓動と重なっていた。積み荷の空になったエール樽が立てる微かな音も、今となっては遠い過去の小銭稼ぎの日々を思い出させる。しかし、彼の頭を占めていたのは、故郷の村の風景でも、目の前の利益でもなかった。
グランデルの権力者たちからの、甘い、しかし危険な誘い。
グランデルの邸宅にある書斎で、バルザックは代理人ハーマンと向き合っていた。ハーマンは、彼が持ち込んだブランデーをゆっくりとグラスに注ぎ、その琥珀色の液体を愉しむように眺めていた。
「バルザック殿。単刀直入に申し上げよう」ハーマンの声は、滑らかで、しかし刃物のように鋭かった。「あなたの商才、そしてその商売の出所、我々は高く評価している」
バルザックは黙って、次の言葉を待った。
「あなたと、その……『得体のしれない怪物』を、我々の庇護下に置きたい。さすれば、グランデルでの安全と、さらなる繁栄を約束しよう」
その言葉は、まるで蜜のように甘く聞こえた。貴族の庇護を得るということは、予想していた「出る杭を打つ」妨害工作から解放されることを意味する。絶大な権力を盾に、彼は自由に商売を拡大できるだろう。
しかし、バルザックは知っていた。この誘いは、彼が築き上げた全てを、貴族の支配下に置くための罠だということを。彼の成功の根源である、大森林と大山脈の麓の異文化圏も、自由な交易路も、精製された白い小麦粉も、グラスモーの精肉も、すべてが彼らのものになる。そして、彼自身もまた、彼らの手足となって使われるだけの存在になるだろう。
バルザックは静かに、しかし決意のこもった目でハーマンを見つめ返した。
「それは、私がこれまで築き上げてきたものを、すべて差し出せということですか?」
ハーマンは優雅に微笑んだ。
「そうは聞こえなかったでしょう? これは、より大きな富と権力への道。あなたには、その道を開く鍵が、私たちには、その道を守る力が、ある」
バルザックは、グラスに残ったブランデーを一口で飲み干した。喉を焼く熱い液体は、彼の心の中の葛藤を映し出しているようだった。
この誘いを受けるのか。それとも、この誘いを断り、さらなる危険に身を投じるのか。
バルザックは、ハーマンの甘い誘いを即答で受け入れることはできなかった。彼が口にしたのは、「取引先に話をしておきます」という、その場しのぎの返事だった。
次の取引の際、バルザックは“得体のしれない怪物”にハーマンの提案を伝えた。
「子爵代理人のハーマンが、お前さんのブランデーとウィスキーを気に入ったようだ」
バルザックの言葉を聞いた男は、冷ややかに鼻で笑った。
「ふん、寝言は寝て言え」
男はハーマンの真意を見抜いていた。ハーマンは、自分を庇護するふりをして、最終的には隷属させ、自由に使い倒すつもりなのだと。
この瞬間から、三者の間で危険な駆け引きが始まった。
“得体のしれない怪物”は、ハーマンの要求を全面的に拒否するのではなく、バルザックを仲介役として利用し、ハーマンが欲する希少な物資を戦略的に提供し始めた。
これは、ハーマンに恩恵を与えつつも、自身の正体や弱みを一切見せないという、高度な情報戦だった。ハーマンは、姿の見えない男の存在に警戒心を抱きながらも、その恩恵を捨て去ることができなかった。一方、バルザックは、二人の間に立ち、この危険な取引を仲介することで、自身の立ち位置を確立していった。
こうして、それぞれの利害が一致している間だけ続く、危うい共存関係が築かれていく。ハーマンは高品質な物資を手に入れ、男は自らの情報と安全を守り、バルザックは両者から利益を得る。この三つ巴の構図は、一見すると安定しているが、バランスを崩せば、いつでも破綻する可能性を秘めていた。
◆
夕闇がエト村を包み込む頃、クレメンス子爵の私兵を装った調査員たちは、成果を得られずに引き下がるしかなかった。彼らがたどり着いたのは、「跳ねる子鹿商会」という、いかにも田舎風の造りの小さな売店だった。
「店は田舎風の造りで、怪しいところはない」
調査員の一人が報告する。彼らが持ち帰ったのは、その程度の情報だけだった。
「店員は皆、この村の娘で、経営者のことは何も知らない」
「売られているのはエール樽と、どこにでもあるような雑貨だけ」
彼らが欲しがっている、高価なブランデーも、精製された白い小麦粉も、回復効果を持つグラスモーの肉も、店のどこにも見つからなかった。彼らが唯一奇妙に感じたのは、ごく普通の店の造りにしては、不自然に厳重な地下室の扉と、それを守るかのような見えない圧迫感だけだった。だが、その正体まで突き止める術はない。
その夜、バルザックは帳簿をつけながら、静かに呟いた。
「あの強欲な貴族め、また余計な詮索をしてきたか…」
彼は常に情報網を張り巡らせ、貴族の動きを監視していた。調査員たちが手ぶらで帰ったことを早々に察知した彼は、静かに安堵の息を漏らした。
「跳ねる子鹿商会」は、“得体のしれない怪物”が取引場として築いてくれた、二重の顔を持つ拠点だった。一階は中世風の村の売店を装い、地元の人間や旅人を相手に安価な雑貨を、村の食堂にはエール樽を売る。しかし、地下には現代のセキュリティが施され、貴族が欲しがる高級品はそこに保管されていた。
貴族の浅はかな行動は、かえってバルザックの警戒心を強め、“得体のしれない怪物”への信頼を深める結果となった。バルザックにとって、彼という唯一無二の仕入れ先を失うわけにはいかない。
貴族の介入を阻止するため、バルザックは水面下で様々な手を打つだろう。この小さな村の売店を舞台に、貴族の権力と、新しい時代の商人が、静かに、しかし確実に戦いを始めていた。




