かわいらしいポーチ(2)
天にも昇るような温泉、初めて食する豪華な料理、今まで触れたことのない手触りの寝具。そして、従業員のお客様をおもてなそうとする姿勢。どれをとっても、素晴らしい『北の御殿守』である。最高の保養の旅となるはずだった。
「奥様。何かお気に召しませんでしたか?」
同行したメイド長が夫人の機嫌を伺う。
ストーンゲート男爵夫人は、あのかわいらしいポーチが気になって仕方ない。
男爵夫人は、窓の外に広がる壮大な山々の景色を眺めながら、深く溜息をついた。
「いいえ、そんなことはないわ。全てが素晴らしい。この宿は非の打ち所がないわ」
彼女はそう言ったものの、その声にはどこか晴れない響きがあった。メイド長は、長年仕えてきた主人の心情を察し、静かに言葉を待った。
「…メイド長、あなた、『始まりの村のパン屋』のポーチは見たかしら?」
メイド長は、夫人が朝食にパンを求めたことを思い出し、頷いた。
「はい、奥様。可愛らしいポーチでございましたね」
「可愛らしいだけではないわ。あれは、グランデルのバルザック商会の特別あつらえ品よ。それも、生後六ヶ月の子牛の革、カーフスキンのフルグレインレザーだわ。通常なら、王族かそれに準ずる者しか手に入れられない代物よ」
夫人は、まるで宝石を鑑定するかのように、ポーチの細部を語った。メイド長は驚きに目を見開いた。
「そんな高級品を、パン屋の従業員が…?」
「そうなのよ! 彼女たちは、まるでそれを誇りのように身につけていたわ。そして、あのポーチは非売品だと言われたの」
夫人の声には、羨望と、そして少しばかりの悔しさが混じっていた。『北の御殿守』の完璧なもてなしも、あの小さなポーチの持つ「物語」の前では、色褪せて見えた。
彼女は、最高の贅沢を求めてこの宿に来た。しかし、真の贅沢とは、単なる物の豪華さではない。そこに込められた物語、他にはない特別な体験なのだと、あのパン屋のポーチが教えてくれたのだ。
「最高の保養の旅…そうね、メイド長。私の旅は、まだ終わっていないわ。あのパン屋に、もう一度行かなければならない。今度は、パンだけではなく、あの店が持つ『特別な物語』を、もっと深く知りたいわ」
夫人の瞳には、これまでになかった好奇心と、新たな冒険への期待が宿っていた。
◆
「これは、ストーンゲート男爵夫人。お待ちしておりました。」
「ご主人、今回はパンを買いに来たわけではありませんの」
ストーンゲート男爵夫人は、以前にも増して晴れやかな表情で言った。彼女の横には、メイド長が静かに控えている。
店長のギルフォードは、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにその意図を察し、にこやかな笑みを浮かべた。
「承知いたしました。どうぞ、こちらへ」
ギルフォードは、夫人とメイド長を店内の奥、従業員たちが休憩を取るための小さな部屋へと案内した。部屋のテーブルには、温かい紅茶と、焼き立てのフィナンシェが用意されていた。
「先日は、当店のパンをご購入いただき、ありがとうございました。今回は、どのようなご用件でしょうか?」
夫人は、用意された椅子に腰掛けると、ギルフォードの目をまっすぐ見て言った。
「あなた方のパンが素晴らしいのは、もう知っています。でも、私が本当に知りたいのは、パンの味だけではありません。あのポーチに込められた、あなた方の物語です」
夫人は、自分の言葉で、あのポーチが持つ特別な意味を表現した。彼女は、単なる貴族の奥様ではなく、この店の価値を深く理解しようとする、一人の探求者となっていた。
「私たちは、ただパンを焼いているだけではありません。最高の素材と、最高の職人技、そして何よりも、この仕事に対する誇りを持って、日々を過ごしています。あのポーチは、その誇りの象徴なのです」
ギルフォードは、静かに語り始めた。
「私たちは、お客様に、最高のパンを、最高の状態で召し上がっていただきたいと願っています。そして、それは、私たちが最高の状態で仕事に臨むことから始まります。あのポーチは、それを常に思い出させてくれる存在です」
夫人は、ギルフォードの言葉に深く頷いた。彼女は、この店がなぜこれほどまでに成功しているのか、その理由を肌で感じていた。それは、単なる商品ではなく、そこに込められた魂を売るからだ。
「わたくしは、あなた方の物語を、もっと多くの人々に伝えたい。いえ、伝えさせてほしいのです」
夫人の言葉に、ギルフォードは微笑んだ。彼女は、この店の最大の理解者となり、最高の宣伝役となるだろう。そして、それは、このパン屋が新たな物語を紡ぎ始める、最初のページとなるのだった。
「ストーンゲート男爵夫人。お言葉誠にありがとうございます。感謝に堪えません。」
ギルフォードは深々と頭を下げた。彼の顔には、この上ない喜びと、新たな展望への確信が満ちていた。
「それでは、ストーンゲート男爵夫人に一役買っていただきたく存じます。」
ギルフォードの言葉に、夫人の瞳が輝く。
「もちろんよ。喜んで協力させていただきますわ」
夫人は、その言葉を待っていたと言わんばかりに答えた。
「夫人の領地へのお帰りは何日のご出立ですか。それと、夫人のお好みのお色をお教えください。」
ギルフォードは、手帳を取り出してペンを構えた。
夫人は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐに彼の意図を察した。あのポーチを、自分にも作ってくれるのだろうか。いや、それだけではない。あのパン屋の物語に、自分も参加させてくれる。そのことに、夫人は心が震えるほどの喜びを感じた。
「出発は、明後日の朝ですわ。そして、色は…そうね、深みのあるワインレッドでお願いするわ」
夫人は、まるで新たな旅の始まりを告げるかのように、きっぱりと答えた。彼女の心は、すでにパン屋の物語の次のページへと進んでいた。
◆
ギルフォードは商会長室に戻り、リナに報告した。
「バルザック商会の女性従業員数ですが、9名でございます。」
ギルフォードの言葉に、リナは満足そうに頷いた。
「それと、色違いで1点追加をお願い致します。お色は、深みのあるワインレッドで」
リナはギルフォードの意図をすべて理解していた。ストーンゲート男爵夫人に特別なポーチを贈ることで、彼女をこの店の「物語」の重要な語り手にするつもりなのだ。
「ギルフォード、何か企むのね。いいわ、乗ってあげる。ただし、上手く導くのよ」
リナは微笑みながらそう告げた。彼女の目は、未来を見据えている。この小さな村のパン屋が、やがて王都の文化を動かす大きなうねりとなる、その物語の始まりを。ギルフォードは、その言葉に、深く頷き、新たな決意を胸に抱いた。
◆
「北雷神社には、神聖な場所を守護する存在として、狛犬が必要よね。場所は参道かしら」
アリアの言葉が技術開発室に響く。首席補佐官にでもなったつもりなのだろう。
「狛犬は、参道の入り口にいらっしゃるのが一般的です。」
技術担当ゴーレムは、合成音声で淡々と報告した。
「そして、狛犬だけでは物足りないわね」
アリアはそう言って、仮拠点の上に設けられた「ノースミッドタワー」の最上階30階の窓の外に広がる、北の山々を見つめた。
彼女の視線の先には、鋭く尖った岩山が連なり、時折、頂から雷鳴が轟くのが見えた。その光景は、畏怖すべき自然の力を物語っていた。
「風神、雷神はどうしようかしら」
アリアは、顎に手を当てて思案する。狛犬が参道の入り口を守るなら、風神と雷神は、より神社の奥深く、あるいは本殿の近くに置くべきだろうか。それとも、雷が鳴り響くあの山々の頂に、彼らの姿を象徴的に表現すべきだろうか。
ゴーレムは、アリアの思考を読み取ったかのように、静かに情報を提示した。
「風神、雷神は、一般的に神社の門や、本殿の両脇に配置されます。雷や風を司る神々として、自然の猛威を鎮め、豊穣をもたらす存在として信仰されております」
「そうね、それもいいけれど…」
アリアは、新たなアイデアを思いついたように、目を輝かせた。
「せっかくなら、もっとダイナミックな配置にしたいわ。そうね、わたしの両翼に配置したいわ。」
アリアは、まるで自らが新たな神話の中心に立つかのように、目を輝かせて言った。彼女の言葉は、単なる像の配置ではなく、この地に彼女自身の存在を刻み込む、壮大な意志の表明だった。
技術担当ゴーレムは、アリアの言葉を瞬時に解析し、新たなプロジェクトプランを形成していく。
「承知いたしました。アリア様。風神、雷神の造形と配置、そして、それらを表現するための特殊な技術について、詳細なプランを作成します」
ゴーレムの合成音声は、感情のない淡々としたものだったが、その背後にある演算能力は、すでにアリアのビジョンを具現化するための複雑なシミュレーションを始めていた。タワーの両翼に、風神と雷神が向かい合う形で配置され、風と雷を操る神々が、この地に降り立ったかのような、圧倒的な存在感を放つ。そんな未来の光景が、ゴーレムの頭脳内で、鮮明に描かれていた。
「ええ、期待しているわ…」
アリアは窓の外の景色を見つめながら、静かに呟いた。そのとき、彼女の胸元の通信機が、柔らかな音を立てて光った。
「お姉さま、よろしいでしょうか」
聞き慣れた声が、通信機から響く。跳ねる小鹿商会の会長代理、リナからの通信だった。
「あらっ、リナちゃんどうしたの?」
アリアは驚きと同時に、嬉しそうな声で答えた。リナが直接、アリアに連絡してくるのは珍しいことだった。
「お願いがありまして」
リナの声は、どこか真剣な響きを帯びていた。
「よろしいわよ」
アリアは快く承諾した。彼女は、リナの頼みなら、どんなことでも聞くつもりだった。いずれ商会の拡大に貢献してくれることだろうから。
「『始まりの村のパン屋』で使用している、ポーチを10個、追加をお願い致します。実は…」
リナは、口ごもりながらも、その理由を語り始めた。彼女の言葉の裏には、ギルフォード店長から受けた報告、そして、ストーンゲート男爵夫人とのやり取り、そしてパン屋の物語をさらに広めるための壮大な計画があった。
アリアは、リナの言葉を静かに聞きながら、その賢明な計画に感嘆していた。
「男爵夫人のお帰りは、いつ?」
「明後日の朝です」
「では、明後日の朝に、バルザック商会に10個届けるわ。一個は特別誂えのお色で、それを男爵夫人にお譲りするのね。」
アリアは、リナの計画の核心を瞬時に見抜いた。ただポーチを贈るのではなく、パン屋の物語の象徴として、その価値を最大限に高めて夫人へと渡す。そのための、最善の段取りだった。
「はい、お姉さま。ありがとうございます」
リナの声には、安堵と感謝の響きが混じっていた。
「いいのよ。このパン屋の物語は、ただの商売ではないわ。これは、人々の心に響く、新たな文化を創り出す試みよ。バルザック商会との連携も、きっと新たな物語を紡ぎ出すきっかけになるでしょう」
アリアは、そう言って微笑んだ。
彼女の瞳には、冷たい計算ではなく、物語を紡ぐ者だけが持つ、温かい光が宿っていた。
「ただし、ストーンゲート男爵夫人の身元の確認は、しっかりと店長にさせてね。」
アリアは、パン屋の店長であるギルフォードに、この重要な役割を託した。ただの商取引ではない。これは、このパン屋の物語に新たな登場人物を迎え入れる、儀式のようなものだ。身元をしっかりと確認し、その人物がこの物語にふさわしいかどうかを見極める。それは、このパン屋の価値を、そして「本物」へのこだわりを、さらに高める行為だった。
ギルフォードは、このパン屋の店長として、そしてアリアの右腕として、この役割を完璧にこなすことができた。なぜなら、彼は特殊な能力を持っていたからだ。
それは、より高度な人物鑑定スキル。彼は相手の過去の行動、経歴、重大な出来事を、まるで書物を読むかのように映像や文字として頭の中に読み取ることができた。さらに、相手の現在の感情や、心の中で考えていることも手に取るようにわかるのだ。
この能力は、交渉や人間関係の構築において非常に強力な武器となる。ギルフォードは、ストーンゲート男爵夫人を初めて見た瞬間から、彼女が単なる好奇心でパン屋を訪れたのではなく、本物の価値と物語を求めていることを確信していた。
アリアは、ギルフォードのこの能力を深く信頼していた。だからこそ、彼女は彼にこの重要な役割を託したのだ。夫人にポーチを贈るという行為は、単なる商品提供ではない。それは、ギルフォードの鑑定によって選ばれた、この物語にふさわしい人物を迎え入れる、特別な儀式なのだ。




