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32歳、人生リセット、ただし異世界で  作者: トール
三章 魔法と錬金術の探求と「特別な力」の獲得

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かわいらしいポーチ

「始まりの村のパン屋」。その名は、遠く離れたクレメンス子爵街オルドヴィスの貴族たちの間でも、ある種のステータスとして囁かれていた。単なるパン屋ではない。そこは、五感を満たす極上の体験を提供する場所だった。


 中でも、顧客の目を最も引くのは、店の奥から小麦粉の白い埃をまといながら現れる、若い女性従業員たちだ。彼女たちが身につけているのは、まるで天使の羽衣のような、清潔感あふれる白い制服エプロン。そして、腰元で静かに存在感を放つ、ライトブラウンの小さな革製のポーチだった。


「まぁ、素敵……」


 オルドヴィスの西に位置する都市ストーンゲートからわざわざ馬車を仕立ててやってきた男爵夫人が、思わず感嘆の声を漏らした。その視線は、若い従業員の腰にぶら下がった、一見すると何の変哲もないポーチに釘付けになっている。


「こちらですか?」


 夫人の視線に気づいた従業員は、にこやかに微笑んだ。


「はい、お揃いなんです。これがないと、仕事になりませんの」


 彼女はそう言って、誇らしげにポーチを軽く叩いた。その仕草で、ポーチの表面に刻まれたミョルニルのロゴマークと、「通」の文字が光を反射する。


 夫人は、我慢できずに尋ねた。


「そのポーチ、とても上質な革に見えるけれど、中には何が入っているのかしら?」


「ええと……」


 従業員は少し恥ずかしそうにしながら、ポーチのフラップを開けた。


 夫人は身を乗り出して、その中を覗き込む。彼女は、金貨や宝石、あるいは魔法の道具でも入っているのだろうかと想像していた。しかし、ポーチの中身は、拍子抜けするほどシンプルだった。


 そこには、焼き上がったパンの熱いパンくずを拭うための布巾と、レシピを記した小さなメモ帳、そして、パンを焼く際に使う木製のへらが、きれいに収められていた。


「あら、意外だわ……」


 夫人は、その素朴な中身に少しばかり驚いた。だが、次の瞬間、彼女の表情は感銘に変わった。


 パンを愛する者たちにとって、最も価値あるものは、金貨でも宝石でもない。焼きたてのパンの香り、その温もり、そしてそれを生み出すための道具。このポーチは、彼女たちのパン作りに対する真摯な情熱を、そのまま形にしたものだったのだ。


 夫人は、従業員の女性が持つポーチをじっと見つめながら、その質感に思いを馳せた。生後6ヶ月の子牛の革、カーフスキン。表面の銀面を削らずに残したフルグレインレザー。使い込むほどにツヤが増し、深い色合いに変化していくエイジング。手で触れた瞬間にわかる、吸い付くような滑らかさと柔らかさ。そして、職人の手で丁寧に磨き上げられた、毛羽立ち一つないコバの処理。


「…素晴らしいわ」


 夫人は静かに呟いた。彼女の視線は、もはやポーチではなく、そのポーチを持つ従業員たちの、誇らしげで生き生きとした瞳に向けられていた。


「始まりの村のパン屋」のパンが、なぜこれほどまでに人々の心を掴むのか。その答えは、単にパンの味にあるのではなく、この場所が持つ、圧倒的なまでの「本物」へのこだわりと、それを体現する人々の情熱にあった。


「夫人、こちらのものに何か……」


 品質の良い白い無地のシャツに、ブラウン系のパンツ。手入れの行き届いたウイングチップ。厚手のキャンバス地のエプロンを付けた男性は、この店の店長だろうか。細めのフレームの眼鏡が、顔の雰囲気にマッチしていて、知的な魅力を加えている。


 男の声は、焼きたてのパンが持つ温かさのように、どこか懐かしく、そして心地よい響きを持っていた。夫人は顔を上げ、彼の優しい瞳と視線を合わせた。


「いえ、少しばかり感銘を受けまして。このポーチ……いえ、このお店の在り方そのものに、ですわ」


 夫人は素直にそう語った。男は少しばかり驚いた表情を見せた後、ふっと笑みをこぼした。


「それは、光栄です。私たちはただ、自分たちが本当に良いと思うものを作っているだけですから」


「それが、一番難しいことなのでしょう?」


 夫人の言葉に、男は静かに頷いた。


「ええ。ですが、この店の誰もが、パンを焼くことに、そして最高の状態で皆さまにお届けすることに、喜びを感じています。このポーチも、その喜びを形にしたものの一つです。ただの作業道具ではありません。これは、私たちの仕事への誇りを示すものです」


 男の言葉には、商売の枠を超えた、純粋な情熱が宿っていた。夫人は、この店のパンが特別な理由を、ようやく心から理解した。


 この店は、ただのパン屋ではない。職人が魂を込めて作ったパンを、同じように誇りを持って働く人々が、最高の空間で提供する場所。それは、単に物を売るのではなく、そこに込められた物語や哲学を伝える営みだった。


「では、私も、何かその物語の一部をいただいて帰りましょうか」


 夫人はそう言って、ショーケースに並んだ黄金色のクロワッサンを指差した。その声には、単なる顧客としてではなく、この店の価値を深く理解した者としての、敬意が込められていた。


 男は微笑んで、最も美しい形のクロワッサンを選び、丁寧に紙袋に入れた。その袋には、先ほどのポーチと同じ、ミョルニルのロゴが控えめに刻まれていた。


「ご婦人、あのポーチが気になりますか?」


 男は商品を手渡しながら、夫人に向かって、穏やかに問いかけた。


「えっ? えぇ、とっても」


 夫人は、内心を見透かされたことに少し驚きながらも、素直に答えた。


「グランデルのバルザック商会はご存じでしょうか。あのポーチは、そちらの商品になります」


 店長の言葉に、夫人の目が見開かれた。グランデルのバルザック商会。それは、王都の貴族なら誰もが知る商会だが、最高級の革製品を扱うとは初耳だ。バルザック商会が、職人たちの手作業によって一つひとつ丁寧に作られた革製品を取り扱うのなら、市場にはめったに出回らないことだろう。


「えっ? そうなの?」


 夫人の驚きは、やがて興奮に変わっていった。もしや、この店でそのポーチが買えるのだろうか。そうすれば、皆を驚かせてやれる。そんな下心が一瞬、頭をよぎった。


「はい。ただ特別なあつらえ品で、われわれはバルザックさまと懇意にさせていただいておりますので、お作りいただけたものです」


「そうなんですか……」


 夫人の声には、期待が裏切られた落胆がにじみ出ていた。このポーチは、誰でも手に入れられるものではない。このパン屋の従業員だけが持つことを許された、特別なものだったのだ。


 店長は、夫人の気持ちを察したように、柔らかな声で続けた。


「申し訳ございません。ですが、どうぞご安心ください。私たちが心を込めて焼いたパンは、バルザック商会の製品にも劣らぬ、最高の一品でございます」


 彼の言葉は、夫人の落胆を静かに包み込んだ。そして、彼女は再び、ショーケースに並んだパンへと視線を移した。


「ええ、分かっていますわ。このお店のパンが、何よりも素晴らしいということを」


 夫人は、そう言って微笑んだ。彼女は、金銭では手に入らない真の価値、そしてこのパン屋が持つ誇りを、心から理解したのだった。そして、この特別なポーチは、単なる商品ではなく、この店の物語を語るための、大切な一部なのだと。


 ◆


 コンコンコン


「リナさま、失礼いたします。」


「どうしたの?ギルフォード」


 現在、「始まりの村のパン屋」の店長を務めるギルフォードが、跳ねる小鹿商会の二階にある商会長室へとやってくる。


「リナさま、一点報告がございます。本日午後1時、店舗にストーンゲート男爵夫人が来店され、店員の白い制服エプロンと革製ポーチについて質問をしていました。」


「あら、ストーンゲート男爵夫人が? 珍しい。それで、何か問題でも?」


 リナは優雅にカップを傾けながら、ギルフォードに視線を向けた。彼女の瞳は、どんな報告にも動じない、商会長“代理”としての冷静さと鋭さを秘めている。


 ギルフォードは眼鏡のブリッジを直し、淡々と報告を続けた。


「いえ、特に問題はございません。彼女はポーチについて詳しく尋ねられ、我々が懇意にしているバルザック商会の特別あつらえ品であることをお伝えしました。少々がっかりされたご様子でしたが、最終的には当店のパンをご購入になり、ご満足してお帰りになられました」


「そう。わかったわ」


 リナは静かに頷き、カップをソーサーに戻した。その表情は、報告の内容を深く考えているようだった。


「ギルフォード、彼女が注目したのは、制服そのものではなく、そこに込められた物語よ。バルザック商会の特別あつらえ品という事実が、この店の価値をより高めた。彼女は、単にパンを買ったのではなく、特別なパン屋で、特別な体験をしたという満足感を得たのよ」


 リナの言葉に、ギルフォードは深く頷いた。彼は単なる店長ではなく、商会長であるリナの右腕として、その意図を理解していた。


「リナさまのおっしゃる通りです。私は、彼女の視線がポーチから、それを持つ従業員たちの誇らしげな目に移ったのを確かに見ました。当店のパンが、貴族たちの間でステータスとして語られる理由が、改めて腑に落ちました」


「いえ、そうね。彼女は『北の御殿守』にお泊りよね。明日の朝食には、クロワッサンとロールパンを準備してちょうだい」


「了解いたしました。」


 ギルフォードはそう言って、一礼した。しかし、リナは彼の背中に向かって、さらに言葉を続けた。


「それと、大事なことだけど」


 ギルフォードは振り返り、訝しげに眉をひそめた。


「まだ何か?」


「バルザック商会の女性従業員数を調べて。女性全員にあのポーチを身に着けさせるわ」


 ギルフォードの顔に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。しかし、すぐにその意図を理解し、静かに頷いた。


「かしこまりました。」


 リナの指示は、このパン屋が目指すものが、単なる商売ではないことを物語っていた。彼女は、パンを売るという行為を通して、人々の心に響く「本物」の物語を紡ごうとしていた。そして、その物語を語るための、最も効果的な「装置」として、あの特別なポーチを選んだのだ。


 店長室を後にするギルフォードの足取りは、先ほどよりも軽やかだった。彼の心は、商会長の壮大なビジョンに触れ、新たな情熱で満たされていた。これから始まる、パンと物語が織りなす、新たな日々への期待に胸を膨らませていた。




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