白い粉の侵略(4)
窓の外に広がるエト町の風景を、アリアは跳ねる小鹿商会の二階からじっと見つめていた。もはや「村」と呼ぶにはあまりに不釣り合いな、活気と秩序に満ちた光景がそこにはあった。
ここからの景色は、アリアのお気に入りだ。石畳の道を行き交う人々、新しく建てられたばかりの住居、そして町の入り口を警護する門兵、町中を巡回する衛兵たち。わずか数ヶ月前、彼女が最初に見たあの慎ましかったエト村とは、まるで別世界だ。町の規模も、最初期の村から見れば9倍にも拡張されている。
この目覚ましい発展は、人々の目に触れる地上の部分だけではなかった。御屋形様の意向により、地下には強固なインフラが張り巡らされている。地下第一階層には下水道が完備され、第二階層には仮拠点のプラントから高密度のマナを流すパイプラインが埋設されていた。パイプラインの要所には雷属性のゴーレムが配置され、微弱な魔力を流し続けることで伝導効率を最大化している。さらに複数の警備ゴーレムが巡回し、地下の安全を維持していた。
人口が著しく増加したことで、町の産業も活気づいている。エト町長となったアロンも多忙を極めていることだろう。そして、彼の娘であるリナは、この跳ねる小鹿商会の会長代理として、この発展を支えている。
跳ねる小鹿商会と、隣接する「始まりの村のパン屋」は、グランデルへと続く街道沿いに建っている。中世初期の村の雰囲気を壊さないよう、地上は二階建てだが、地下にはそれぞれ三階分の広大なスペースがあった。パン屋は3倍に拡張され、広い駐車場も整備された。
町の傍らには、北の大山脈を源とする清らかな流れが南へととうとうと注ぎ、その清流と並行するように街道が走っている。街道の東側には広大な小麦畑が広がり、西側の大河を越えた先には、広大な牧場が二つ設置されていた。そこでは食用牛グラスモーと乳牛モウモウが飼育され、その餌となる豆類やトウモロコシも栽培されている。
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エト町の目覚ましい発展は、クレメンス子爵の注意を引かざるを得ないものとなっていた。隣接するグランデルには遠く及ばず、その文化水準も大きく異なっていたが、増加する小麦の収穫高や牧場からの収益を考えれば、もはや無視できる存在ではなかった。
しかし、グランデルに住む子爵代理人のハーマンは、この新興の町に移り住む気は一切なかった。そこで、彼はエト町を管理するため、代官としてエルランを派遣することを決める。代官とは、領主の代理として、遠隔地の統治や税の徴収、治安維持といった実務を担う役職だ。
エト町の東側の高台に設けられた屋敷で、代官エルランは町長のアロンと協力し、行政を執り行うことになっていた。だが、その実態は少し違っていた。
エルランは元々、一介の下級官吏に過ぎない。毎晩、彼は足しげく村の食堂に通っては、芳醇なエールで喉を潤し、他の町では決して味わえない特別な肴を肴にウィスキーを流し込んでいた。
酒が進むにつれ、上機嫌に出来上がっていくエルラン。その代償として、翌日は決まって二日酔いに悩まされる。そして、本来の職務は、すべてアロンに丸投げされていた。エト町の行政は、彼の怠惰な日常の影で、アロンの手によって粛々と進められていたのだ。
これは、子爵代理人のハーマンには誤算であった。代官エルランが、エト町での職務をアロンに丸投げし、毎晩のように酒に溺れているとは思いもよらなかった。ハーマンが期待していたのは、新興の町を厳格に管理し、確実に税収を増やすこと。しかし、エルランの態度はその真逆だった。
しかもそのことが発覚したのは、だいぶ先のことだった。
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アリアの壮大な計画は、有能な人材の確保によってさらに加速していた。バルザックが見つけ出した、商才、機転、忠誠心を兼ね備えた“使える”人材が3人、アリアの右腕として加わった。彼らは、アリアが面倒に感じる貴族との交渉を代行できる、まさにうってつけの存在だ。
アレン: 営業向きで人当たりがよく、明るく親しみやすいキャラクター。
カイル: 計算に強く、冷静な判断力を持つ経理のスペシャリスト。
ギルフォード: 堅実さと不屈の精神を持ち、特殊な能力を持つ人物。
さらに、町長の娘であるリナが跳ねる小鹿商会の会長代理として迎えられ、経営の中核を担っている。もはやバルザック商会の窓口対応は彼女の仕事だった。
そして、「始まりの村のパン屋」には、5人の若手パン職人が加わり、事業の拡大を力強く支えていた。
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グランデルとエト町は、直線距離で50キロメートルほど離れている。かつてのエト村は、グランデルを取り囲む四つの農村の一つに過ぎず、その北に位置していた。他の西村、東村、南村と同様、その主な特徴は小麦の収益のみだった。
さらに南へ150キロメートル進んだ先には、クレメンス子爵街オルドヴィスが厳かにそびえ立つ。オルドヴィスは、その周囲に地方都市を従えており、グランデルはその北に位置する地方都市の一つだ。
つまり、クレメンス子爵領内におけるエト町の位置関係はこうなる。
エト町
↓(北方50km)
グランデル
↓(北方150km)
クレメンス子爵街オルドヴィス
エト町は、クレメンス子爵領の最も北のはずれに位置し、その先には名も知らぬ広大な大山脈が横たわっている。
エト町とグランデルを結ぶ50キロメートルの街道は、アリアの指示で大型馬車が余裕を持ってすれ違えるほどに拡幅され、石畳で舗装された。これは、バルザックの強い要望に応えるための重要な投資だった。
バルザックは、エト町の「始まりの村のパン屋」で焼かれるパンを、最終商品としてグランデルで小売りすることをアリアに許可させた。アリアは抵抗を感じていたが、彼の熱意に押し切られる形となった。
しかし、問題は輸送だった。グランデルまでパンを運ぶには、日の出前のまだ薄暗い時間に出発し、大型輸送馬車を全力で走らせる必要がある。安全のためにも、街道の整備は急務だったのだ。
こうして、グランデルに届けられた白い粉の侵略は、まず貴族層から始まった。彼らは、パン屋で焼かれた多種多様なパンに魅了された。バルザック商会が毎日届けるパンでは数が足りず、貴族の館の小間使いたちが、こぞってエト街を訪れるようになった。中には、精製された小麦粉を買い求め、料理長にパンを焼かせようとする者もいたが、やはりパン屋で焼かれるものとは比べ物にならない出来だった。
エト町のパンは、その圧倒的な美味しさで、貴族社会に静かなブームを巻き起こし始めていた。
小間使いたちは当然、エト町に宿泊し、その地の食文化に魅了されていった。食堂でエールを楽しみ、グラスモーの焼肉に舌鼓を打ち、モウモウの乳製品の虜となったのだ。この評判は瞬く間に貴族社会に広まり、我先にとエト町を訪れる貴族が増加した。
この大きな流れを、跳ねる小鹿商会が見過ごすはずがなかった。
会長代理のリナはすぐさま宿泊施設を新設し、さらに「何か目玉となるものを創りたい」とアリアに懇願した。
貴族層の心を掴むには、美容、ファッション、宝飾品、美食といった分野が効果的だ。彼らの飽くなき欲望を満たす、斬新で魅力的な「何か」が求められていた。
(御屋形様の仮拠点から温泉を引く、というのはどうかしら?)
アリアは、リナの要望に応えるべく深く思考を巡らせた。
貴族層に訴求する「目玉」として、美容、ファッション、宝飾品、美食が挙げられたが、それらを凌駕する究極の贅沢、それが「温泉」だ。
御屋形さまの仮拠点は、近くの源泉から温泉が引き込まれている。そこからエト町まで温泉を引いてくることは、地下二階層を利用して技術的には可能なはず。
唯一無二の贅沢: 貴族たちは、自身の領地に温泉を引くことなどできない。この温泉は、彼らにとって、ここでしか味わえない唯一無二の体験となる。
健康と美容: 温泉の効能は、疲労回復や美肌効果など、貴族層が特に気にかける健康と美容に直結する。
長期滞在の動機付け: 温泉があれば、貴族たちは一日の観光ではなく、数日間の滞在を選ぶようになるだろう。これは、宿泊施設や飲食店の収益を大幅に増加させる。
(温泉が実現すれば、エト町はただの商業都市ではなくなる。人々の疲れを癒し、明日への活力を与える『癒しの町』として、他に類を見ない特別な場所、『貴族層の別荘地』になるわ。)
しかし、アリアの思考はすぐに次の問題へと移った。
(うーん、土地の権利か……)
温泉を引くとなると、御屋形さまの仮拠点とエト町を結ぶ広大な土地の権利が問題となる。ただでさえ、代官エルランが派遣されたばかりだ。この計画をスムーズに進めるには、複雑な権利問題をどうクリアするかが鍵となるだろう。
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エト町の北門の先には、鬱蒼とした広大な森が広がっていた。アリアはすぐさま、その森の入り口に雷神さまを祀った荘厳な神社を建立した。
そしてハンス町長を通じて、町民たちに以下の二つの規則を徹底させた。
・月の初めには必ず神社に参拝すること。
・北側に広がる手つかずの森は「雷神さまの大地」であり、一切立ち入らないこと。
この徹底した知らせにより、人々は森に近づくことをやめた。こうして、エト町の西側、牧場の先の草原地帯に、不思議なことに“温泉が湧き”始めた。この温泉を利用した高級な宿泊施設や、風情ある温泉街の整備が急ピッチで進められていった。
また、北門の内側には、別の”温泉が湧き”、町民向けの大浴場や足湯など観光客向けの人気スポットとなった。
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ある日の午後、牧場で牛の世話をしていた牛飼いが、西側の草原にシャドウウルフの群れを見つけた。
「ありまー、おらの牛っ子を食べる気だんべがぁ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、次の瞬間、ウルフの群れに雷が落ちた。凄まじい轟音と共に、一瞬にして群れは全滅した。
その夜、牛飼いは町の食堂でその出来事を熱っぽく語った。そして、その話を聞いた町民たちは、口々に「雷神さまのおかげだ」とつぶやき、翌日、皆が揃って北門の雷神神社へと参拝に向かったのだった。
この出来事は、人々にとって、エト町がただ発展しているだけでなく、神聖な守護の力に護られていることを示す、確固たる証拠となり、末永く語り継がれることとなった。




