白い粉の侵略(3)
バルザックは、アリアの言葉にただ茫然と立ち尽くしていた。パンの製法だけでなく、その根本をなす資材までが独占技術だという事実に、彼の脳は処理しきれないでいた。
しかし、アリアの言葉はさらにバルザックの理解を超えていく。
「バルザックさま、まだ教えられない原材料があるのです」
アリアはそう言って、スケッチブックを広げた。そこに描かれているのは、見たことのない奇妙な生物と、白い液体や塊だった。
「この大陸のどこかにいる、クイーンビーという蜂が作り出すはちみつ。濃厚な甘みと、深い香りを持ちます」
バルザックは、はちみつという言葉は知っていたが、クイーンビーなど聞いたこともない。
「そして、乳製品。濃厚な味を醸し出すチーズ、バター、そして生クリーム。これらをパンや菓子に使うことで、さらなる高みを目指せます」
バルザックは、チーズやバターという言葉すら初めて耳にした。しかし、彼の心を最も揺さぶったのは、アリアが次に口にした言葉だった。
「これらを新鮮な状態で保つためには、冷蔵冷凍技術が必須です」
冷蔵、冷凍。バルザックの知る限り、この世界には存在しない技術だ。彼は、これまで経験してきた商談とは全く次元の違う話をしていることを悟った。
「バルザック商会との独占販売契約。私の計画は、全てあなたと分かち合うつもりです」
アリアの言葉は、バルザックの心に深く響いた。それは、アリアが彼を対等なビジネスパートナーとして認めている証拠だった。彼は、自分が歴史の転換点に立ち会っていることを確信した。そして、この少女の壮大な計画の片棒を担ぐことに、言いようのない高揚感を覚えていた。
◆
「承知いたしました」とバルザックは力強く答えた。彼の胸には、もはや疑念の欠片もなかった。アリアの言葉は、彼の想像をはるかに超えた壮大なビジネスモデルを描き出していた。
「ですので、バルザック商会には、パン職人になりたい人を連れてきてほしいのです」
アリアの言葉に、バルザックは再び驚いた。パン職人を養成し、技術を広めるというのか。
「技術が独占されてしまえば、貴族はそのパン屋を囲い込みます。ですが、パン屋が多ければ、その貴族の思うとおりにはいきません」
バルザックは、アリアの真意を理解した。独占することで、小さな利益を得るのではない。あえて技術を公開し、市場全体を支配下に置こうとしているのだ。
「原材料と技術を独占している我々の独壇場です」
アリアは、白い小麦粉や、クイーンビーのはちみつ、そして乳製品といった、この世界に存在しない原材料の流通を掌握することで、パン市場全体をコントロールできると確信していた。
「バルザック商会には、貴族との折衝、面倒ごとその他諸々の矢面に立っていただきます」
アリアは、冷たい目でバルザックを見つめた。彼女は、自らが貴族社会と関わることを避け、その役割をバルザックに押し付けるつもりだった。しかし、バルザックはそれを不満に思わなかった。むしろ、彼女の信頼を得られたことに喜びを感じていた。
「アリア、君は、この世界の商業を根底から変えようとしている。私は、その計画に全身全霊で協力しよう」
バルザックの言葉に、アリアは満足そうに微笑んだ。
「心強いわ、バルザックさま」
二人の間に、新たな信頼関係が築かれた瞬間だった。アリアは、この世界の王族や貴族たちを出し抜き、自分たちの経済圏を築き上げることを誓った。そしてバルザックは、その壮大な計画の片棒を担ぐことに、言いようのない高揚感を覚えていた。
◆
グランデルへの帰路、バルザックの馬車は静かに夜道を走っていた。荷台に積まれていたのは、エト村で仕入れたパンや小麦粉ではなく、ずっしりと重い木樽だった。
エール樽が三樽、そして高アルコール度数のブランデーとウィスキーがそれぞれ一樽ずつ。
これらは、アリアが彼の商会に独占販売を任せた、この世界では未だ知られていない酒類だった。琥珀色の液体が詰まった樽は、揺れるたびに鈍い音を立て、バルザックの心を高揚させた。
(これで、あの高慢な貴族どもを懐柔できる……)
バルザックは確信していた。この酒は、彼らがこれまで口にしてきたどんな酒よりも香り高く、強い。美食を追求する貴族たちが、これに抗えるはずがない。酒を媒介に、彼らはバルザック商会に依存するようになり、やがてはアリアの壮大な計画の歯車として組み込まれていくだろう。
そして、もう一つの柱のグラスモーの精肉。肉質は非常に柔らかくジューシーで、適度にサシが入っており、美味い。特定のハーブを食べることで、甘みが増したり、回復効果が付与されたりするため、冒険者たちに人気が高いが、貴族層にも好評だ。その二つをバルザック商会は独占販売権を持っている。
バルザックは、自分がただの商人から、世界の商業を動かす存在へと変貌していく未来を思い描いていた。そして、その道のりが、アリアという規格外の少女の掌の上で進んでいることを知りながら、彼はその未来を心から楽しみにしていた。
◆
翌朝、バルザック商会に活気が満ちていた。バルザックは、重厚な執務室の扉を開け、広間に集まったすべての職員に視線を向けた。彼の顔は、昨日の夜の酩酊から覚めたばかりの、しかし揺るぎない決意に満ちていた。
「皆、よく聞け!」
彼の声は、普段の穏やかさとは一変し、広間全体に響き渡った。
「今日から、我々の最優先業務はこれだ。新しい技術を身につけたいパン屋を、一人残らず探し出せ!」
職員たちは、互いに顔を見合わせる。この数か月莫大な取引で賑わい、活気に満ちた商会となっていたが、そこに輪をかけて突然降って湧いた、主人の力強い指令。
「対象は、グランデルの街だけではない。近隣の村や、子爵領の隅々まで、情報を集めて回れ。技術に飢えている者、現状に満足していない者、そして何より、向上心のある者を探すのだ」
バルザックの言葉には、ただならぬ熱気がこもっていた。彼は、昨夜アリアから見せられた未来を、彼らに見せつけることはできなかったが、その情熱だけは伝えることができると信じていた。
「これは、我々の未来を左右する一大事業だ。成功すれば、我々はグランデルだけでなく、このクレメンス子爵領全体、いや!この大陸全体の商業を掌握することになるだろう!」
職員たちは、バルザックの言葉に次第に顔色を変えていく。パン屋探しという地味な作業の裏に隠された、とてつもなく大きな野望の片鱗を感じ取ったのだ。バルザックは、彼らの反応に満足し、静かに付け加えた。
「これは、この街の常識を覆す革命だ。そして、我々はその革命の先駆者となる。さあ、始めよう!」
その日、グランデル商会の職員たちは、一斉に街へと繰り出していった。彼らの胸には、主人の言葉と、得体の知れない期待が膨らんでいた。この街に、そしてこの世界に、白いパンの時代が幕を開けようとしていた。
◆
バルザックの脳裏には、もうひとつの計画が浮かんでいた。それは、アリアからの直接的な注文ではない。
(パン職人を集めるのは、あくまで表向きだ)
彼には、もっと重要な目的があった。それは、アリアの右腕、いや、彼女の壮大な計画の手足となれるような、"使える"上物を探し出すことだ。ただ腕の良いパン職人ではない。商才に長け、機転が利き、そして何よりも忠実な人間。アリアが面倒だと感じている貴族との折衝を、代行できるような人材。
(跳ねる小鹿商会への支払いをどうするか……)
バルザックは、アリアの商会の異常なほど豊かな財力を目の当たりにし、金貨での支払いが無意味であることを理解していた。彼女が求めるのは、金銭ではない。彼女の計画をより速く、より完璧に進めるための、人材と、情報、そして信用だ。
バルザックは、パン職人募集を隠れ蓑に、このクレメンス子爵領に埋もれているであろう原石を探し出すことを決意した。それは、彼の商会にとっても、そして彼自身の未来にとっても、大きな転機となるだろう。
バルザックの思考は、さらに深部にまで及んでいた。
(人材を探すなら、あらゆる伝手をたどるべきだ)
彼は、自身の商会の職員にパン職人を探させるだけでは不十分だと感じていた。そして、その視線は、彼が過去に幾度となく取引をしてきた、あの薄暗い商会へと向いた。
奴隷商会。
世間からは蔑まれる存在だが、彼らはこの世界の裏の情報を何よりも早く、正確に掴んでいる。人脈も、情報網も、バルザックの商会とは比べ物にならないほど広い。そして、何よりも、彼らは「才能ある者」を嗅ぎ分けることに長けている。
「あの奴隷商会にも声を掛けてみるか。伝手は広い方が良い」
バルザックは、静かに決断した。アリアの求める人材は、一般的な職人の中に埋もれているとは限らない。貴族に逆らい、地位を追われた者。才能がありながらも、不遇な境遇にある者。あるいは、奴隷として売り飛ばされた、隠れた天才。
(もし、アリアの計画に使えるような、とてつもない才能を持った人間が、奴隷として売りに出されているとしたら……)
バルザックの心は、新たな獲物を狩るかのように高揚していた。それは、アリアの計画を加速させるだけでなく、彼自身の商会の力を、そして彼自身の権力を、揺るぎないものにするための、重要な一歩となるだろう
◆
バルザックがグランデルで新たな人材を探し回っている頃、エト村のパン屋では、アリアが技術担当ゴーレムと共に、設備の再点検を行っていた。
「ゴーレム、現代的なパン屋に必要な設備をもう一度洗いなおして」
アリアの指示に、ゴーレムは静かに、しかし精密な動作でパン工房の中を移動し始めた。その無機質な目が、設置されたばかりの巨大な石窯、そしてパン生地をこねるための木製の台を一つ一つ点検していく。
「オーブン……。パンを焼き上げるための熱源。内部の温度を均一に保ち、一定時間高温を維持する機能が必要です。この石窯の構造は、御屋形さまの知識に基づいて設計されており、その要件を満たしています」
ゴーレムの声が、静かな工房に響く。アリアは、ゴーレムの報告を聞きながら、スケッチブックに筆を走らせていた。
「ミキサー……。大量の生地を均一にこねるための機械。手作業では不可能な速度と力で、生地に空気を混ぜ込むことで、より柔らかく、ふっくらとしたパンが作れます。現在、手動式のものが導入されていますが、いずれは動力式のものが必要になります」
「発酵機……。パン生地を発酵させるための、温度と湿度を一定に保つための設備。これにより、安定した品質のパンを大量生産することができます」
「ガスオーブン、対流オーブン、冷蔵庫、冷凍庫、シンク、調理台、シェルフ……」
ゴーレムが次々と、アリアの知る限りの現代的なパン屋の設備名を挙げていく。アリアは、それら一つ一つが、この世界ではまだ存在しない、未知の技術の結晶であることを改めて認識していた。
「問題ないわ。どれも完璧よ」
「今後の課題は、動力式ミキサーの開発ね。早速着手してちょうだい」
アリアは満足げに頷いた。工房の隅で待機していた技術担当ゴーレムは、無機質な音を立てて起動すると、アリアの指示に従い、静かにその場を離れていった。
バルザックが人材を集める一方で、アリアは、この世界に革命を起こすための土台を、着々と固めていた。彼女の心には、この世界の人々が、初めて白いパンを口にした時に見せるであろう、驚きと感動の表情が鮮明に描かれていた。
(パン職人を集める。それは、私の計画の第一歩に過ぎない)
アリアは、動力式ミキサーの開発が、パンの大量生産を実現し、その香りをこの世界の隅々まで届けるための、不可欠なステップであることを理解していた。彼女の目標は、単にパン屋を成功させることではない。この世界の食文化、そして経済そのものを、根底から覆すことだ。
アリアは、窓の外に広がるエト村の風景を眺めた。石畳の道を行き交う人々、新設された住居、そして村の入り口を警護する門兵たち。わずか数ヶ月前とは比べ物にならない、活気と秩序に満ちた光景がそこにはあった。
(いずれ、この村から始まった革命が、この大陸全土を駆け巡ることになるわ)
アリアの瞳には、希望と野心が混ざり合った光が宿っていた。彼女の白い粉の侵略計画は、まだ始まったばかりだ。




