白い粉の侵略(2)
エト村はもはや、アリアが初めて訪れた、あの慎ましやかな集落ではなかった。
村は目を見張るような変貌を遂げ、かつての三倍もの広さになっていた。木造の多層階住居が軒を連ね、石壁の塀と堀が村全体を取り囲んでいる。堀には清らかな水が張られ、防御と美観の両方を兼ね備えていた。足元は石畳できれいに舗装され、村全体に清潔感と秩序をもたらしている。
集落の入り口には、頑丈な見張り台が新設された。革鎧と槍で武装した門兵が厳重に警護しており、村の安全が徹底されていることが見て取れる。この村が、単なる農村から、確固たる力を持った拠点へと変わったことを示していた。
跳ねる小鹿商会の店舗は、エト村の外郭、グランデルへと続く街道沿いに堂々と建っていた。そして、その隣には、アリアが構想したパン屋が隣接している。ガラス張りの大きな窓からは、焼きたてのパンが並ぶ様子が伺える。
そして、パン屋のさらに隣には、広大な駐車場が整備されていた。これは、遠方から馬車で訪れる客や商人を想定した、アリアの周到な計画の証だった。エト村は、単なる生産拠点ではなく、この地域における商業の中心地へと生まれ変わろうとしていた。
◆
グランデル商会の豪華な執務室で、バルザックは苛立ちを隠せずにいた。
担当者であるドレイクが、興奮気味に報告するエト村の変貌。聞けば聞くほど、にわかには信じがたい話だった。三倍に膨れ上がった村の規模、石壁と堀、そして武装した門兵……。そして、何よりバルザックの心をざわつかせたのは、あの跳ねる小鹿商会が村外れに設けた店舗と、その隣に新設されたという謎のパン屋の存在だ。
「あの娘が、一体何を企んでいるのだ?」
バルザックは、数ヶ月前に自分が仕入れた「商品」、アリアの鋭い眼差しを思い出していた。ただの奴隷にはない、底知れない知性と野心を秘めた瞳。ドレイクは彼女を「小物」と評したが、バルザックはそうは思わなかった。
「すぐに馬車を用意させろ。この目で確かめに行く」
バルザックは、もう居ても立ってもいられなかった。この異常な事態の真実を、自らの目で確認する必要があった。
エト村の入り口に到着したバルザックは、息をのんだ。
かつては泥だらけだった道は、見事な石畳に変わり、村全体が清潔で整然としている。厳重な警備の門をくぐり、街道を進むと、そこには彼の想像を遥かに超える光景が広がっていた。
「あれが……」
バルザックの視線の先にあったのは、堂々とした構えの跳ねる小鹿商会と、隣接するガラス張りの建物、そしてその手前に広がる広大な駐車場だった。
そして、その店の入り口に立つ人影を見て、バルザックはさらに衝撃を受けた。それは、かつて自分が仕入れてきたはずの、あの「商品」アリアだった。
彼女は、使用人の女性に何かを指示し、客らしき男と楽しげに話している。その立ち姿は、まるでこの村の、いや、この場所の全てを支配する女主人のようだった。
「ば、馬鹿な……」
バルザックは、呆然と立ち尽くした。ドレイクは小物ではない。彼こそが、アリアという規格外の存在を見抜くことができなかった、真の小物だったのだ。バルザックの脳裏に、アリアが最初に自分に見せた、あの不敵な笑みが蘇る。
(これは、私の知らないところで、とてつもないことが始まっている……)
バルザックの心は、得体の知れない不安と、抑えきれない好奇心で満たされていた。
◆
バルザックは、グランデルの商人ではあったが、その商売は決して大規模なものではなかった。せいぜいエト村のような小さな集落まで自ら馬車を引いて出向き、細々と取引を行う程度だった。
しかし、そのささやかな商売が、彼との出会いによって一変した。エト村の村長から紹介された彼は、驚くほど多岐にわたる品々を扱っていた。森で手に入れた珍しい魔物の素材や、クレメンス子爵の領地では滅多にお目にかかれない上質な物資。中でもバルザックの目を釘付けにしたのは、アルコール度数の高いブランデーとウィスキーだった。
これまで味わったことのない、芳醇で力強い香りと喉を焼くような感覚。バルザックはすっかりその虜になり、彼との取引を重ねていった。彼の扱う品々は、どれもがこの世界の常識を覆すものばかりで、バルザックは彼の持つ底知れない知識と、その知識を形にする手腕に惹きつけられていった。
彼との独占契約に成功したバルザック商会は、グランデルでも指折りの商会へと成長していった。
やがて、「上物」アリアを納品すると、彼はアリアをエト村担当者として、自身はどこかにある拠点へと身を隠してしまった。それに伴い、バルザックもエト村担当者としてドレイクを勤めさせたのだが、この娘は、ただの商人ではなかった。この世界の商業を根底から覆そうとしているのだ。バルザックは、彼女の計画に自らの商会を賭ける覚悟を決めた。
「アリア、君と私は、ただの商売相手ではない。ビジネスパートナーだ」
バルザックは、そう言って彼女に手を差し出した。それは、単なる取引の継続ではなく、アリアの望んだ新たな時代の幕開けを意味していた。
◆
バルザックは、跳ねる小鹿商会の隣にあるパン屋の店内に足を踏み入れた。店内は、彼がこれまで知るどんな店とも違っていた。磨き上げられたガラスケースの中に、白くふっくらとしたパンが並んでいる。甘く香ばしい匂いが漂い、バルザックの食欲を刺激した。
彼は、並んでいた商品を片っ端から買い求めた。白い食パン、つやつやと光る菓子パン、硬質な美しさを持つフランスパン、そして幾重にも層をなすクロワッサン。それらを大きなバスケットに詰め込むと、バルザックは店を出て、村の広場へと向かった。
広場の中央にあるベンチに腰を下ろすと、バルザックは人目もはばからず、パンにかぶりついた。
まず手に取ったのは、食パンだった。一口かじると、驚くほどの柔らかさと、口の中に広がる優しい甘み。これまで食べてきた硬くて味気ないパンとは全く違う。彼は夢中で食べ進め、あっという間に一片を平らげた。
次に、クロワッサンを口に運んだ。サクサクと音を立てる軽い食感。噛むたびにバターの香りが広がり、至福の味が舌の上で踊る。バルザックは、思わず目をつむり、その味を堪能した。
彼の周りには、好奇の目を向ける村人たちが集まっていた。パンを夢中で頬張る見慣れない商人の姿は、彼らにとって異様な光景だっただろう。しかし、バルザックはそんな視線など気にも留めなかった。彼の心は、このパンが持つ無限の可能性で満たされていた。
(これだ……。これこそが、彼女が創り出そうとしている新しい時代だ!)
バルザックは、バスケットの中身を次々と口に放り込んだ。甘いクリームパン、ジャムパン、そして初めて見る形のピザ。一つ一つが、彼の商業に対する固定観念を打ち砕いていく。
「こんなものが、この世にあったとは……」
バルザックは、残りのパンを大事そうにバスケットに戻し、ゆっくりと立ち上がった。彼の顔は、満足と興奮で高揚していた。
このパンは、単なる食料ではない。この世界の商業を根底から変える力を持っていた。そしてその材料となる白い小麦粉は、このバルザックが独占販売権を持っている。バルザックは、アリアという少女の真の恐ろしさと、彼女と組んだ自身の未来に、震えるほどの高揚感を覚えていた。
◆
バルザックは、熱い興奮に胸を躍らせていた。アリアが創り出したパンの味は、彼の商魂に火をつけた。
(よし、白い小麦粉の販売計画を練り直すぞ!これをグランデルの貴族たちに売り込めば、莫大な利益になる!)
彼はすぐさま、頭の中で新たなビジネスプランを組み立て始めた。パン屋をグランデルに開く。そして、白い小麦粉を独占的に卸す。そうすれば、あの高慢な貴族どもも、自分に頭を下げることになるだろう。
熱心に計画を練っていたその矢先、アリアの声がバルザックの耳に飛び込んできた。
「この村では、パン職人になってくれる人を募集します」
バルザックは耳を疑った。
「なんだと? あの技術を公開するというのか?!」
彼は思わず、アリアの前に進み出た。
「アリア、何を考えているんだ! その技術は、君の、いや、我々の最大の強みではないか! それを、こんな平民たちに、無料で教えてしまうつもりなのか?」
バルザックの声には、驚きと焦りが入り混じっていた。白い小麦粉も、その製法も、すべてを独占することで、彼はこの世界の商業の頂点に立つ夢を見ていたのだ。
しかし、アリアはただ静かに微笑むだけだった。既にエト村の女性たちがそのパン屋で、工房でパンを焼いているのだ。その瞳の奥には、バルザックの想像を遥かに超えた、壮大な計画が宿っていることを、彼はまだ知らなかった。
バルザックの焦りにも似た問いかけに、アリアは静かに微笑むだけだった。
「ご心配なく、バルザックさま」
アリアの声は、穏やかでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。その視線が、パン屋の工房で働くエト村の女性たちへと向けられる。彼女たちは、白い粉を顔につけ、一生懸命に生地をこね、窯の火を調整している。
「あの技術は、誰にも渡さない。いえ、そうではありません。誰にも渡せないのです」
バルザックは、アリアの言葉の意味を理解できなかった。すでに彼女たちは、その技術を学び、実行しているではないか。
アリアは、そんなバルザックの心中を見透かしたように、言葉を続けた。
「あの白い小麦粉。その製法は、私と御屋形さましか知らない。そして、あのパンを焼くには、特殊な石窯と、特定の条件を満たす発酵技術が必要なの。すべて、私がこの世界で作り上げた、唯一無二のものです」
バルザックは、はっと息をのんだ。彼が驚愕したのは、パンの味だけではなかった。その製法全体が、アリアの独占技術だったのだ。
「彼らがどれだけ熱心に学ぼうとも、私と全く同じものを作ることはできない。彼らは、あくまで私の手足。このパンを、この世界に広めるための、私の手足にすぎないのです」
アリアの瞳の奥には、すべてを見通すような深い知性が宿っていた。彼女の計画は、単なる商品の独占に留まらない。技術とノウハウを独占し、それをこの世界の民に広めさせることで、彼らを自身の経済圏に取り込む。そうして、この世界の商業全体を、根底から支配しようとしているのだ。
バルザックは、自分がとてつもない人物と出会ってしまったことを改めて悟った。アリアは、自分を「ビジネスパートナー」と呼んだ。しかし、実態は違った。彼は、アリアという巨大な渦に巻き込まれ、共に世界を支配する片棒を担ぐことになるだろう。そして、そのことに、彼は言いようのない高揚感を覚えていた。




