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32歳、人生リセット、ただし異世界で  作者: トール
二章 自治都市への基盤

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白い粉の侵略

 アリアの提案は、多岐にわたった。だが、そのすべては、彼女が次に仕掛ける大勝負への布石に過ぎなかった。


 次にアリアがバルザック商会との新たな取引交渉の材料としたのは、白い精製小麦だった。


 庶民の食卓を支えるのは、ライ麦や大麦の粗挽き粉で作られた、黒く、固く、ずっしりと重いパンだ。栄養価は高いものの、そのままでは石のように硬く、肉や野菜のスープに浸して初めて喉を通る代物。それが、この世界の日常だった。


 一方、貴族たちが饗宴で供されるパンは、何度もふるいにかけられた、きめ細かな小麦粉から作られる。その白く柔らかなパンは、口にした瞬間溶けるようになめらかで、庶民のパンとはまさに天と地ほどの差があった。それはただの食糧ではなく、富と地位、そして力の象徴。それゆえに、白いパンを求める貴族は後を絶たず、その需要は常に供給を上回っていた。


 アリアは、この小麦が持つ価値を誰よりも理解していた。


「バルザック商会は、領主や貴族階級との結びつきが強い。彼らが本当に欲しているものは、金だけではないわ」


 彼女は、静かに呟いた。交渉の席に持ち込むのは、単なる商品ではない。それは、富と権力をさらに確固たるものにしたいと願う、バルザック商会の欲望そのものだった。


 薄暗い倉庫の中、アリアは白い布に包まれた山積みの麻袋を見つめていた。中身は全て、彼女がこの世界で初めて手に入れた「精製小麦」。


「白いパン……本当にそれしか思いつかないのかしら?」


 彼女の脳裏には、卸した先のパン屋が試行錯誤の末に生み出した、ありきたりな白いパンの姿が浮かんだ。精製された小麦粉が持つ無限の可能性を前にして、彼らの発想の貧困さには辟易する。アリアは、この世界の常識を遥かに超えた御屋形さまから授かった知識を思い返す。


「食パン、菓子パン、フランスパン、クロワッサン……。それから、ピザも良いわね。スポンジケーキ、パウンドケーキ、クッキー、ビスケット、カステラ、かりんとう……。あのお好み焼きなんていう料理も、きっと彼らの度肝を抜くはず」


 次々と浮かぶ品目のリストは、アリアの胸を高鳴らせた。小麦粉の魅力を最大限に引き出す、多様なレシピの数々。彼女の頭の中では、御屋形さまの知識と、彼女自身の学んだ製法が混ざり合い、新たなアイデアが次々と生まれていく。早くこれらを形にして、この手で、この舌で確かめてみたい。


 アリアは、バルザック商会の担当者、ドレイクを思い浮かべた。私が担当となった際に、商会側の担当者として出向いてきた。だが、それだけだ。小さな利益に目を奪われ、本質を見抜くことができない小物。アリアにとって、彼はただの踏み台に過ぎなかった。


「この程度の男では物足りないわね。バルザック会長を引っ張り出すまでの辛抱よ」


 アリアは静かに微笑んだ。精製小麦は、彼女がこの世界を掌握するための最初のカード。そして、その先の道は、彼女自身の知識と野心によって切り開かれていくのだ。



 アリアは静かに目を閉じた。御屋形さまから授かった、この世界には存在しない「精製された白い小麦粉」。それを独占的に手にした彼女の次の一手は、すでに決まっていた。


「まずは、エト村ね」


 小麦粉をただ卸すだけでは、その真価は伝わらない。この世界の人々は、茶色く硬いパンしか知らないのだ。ならば、彼女自身が最高の完成品を提示してやればいい。


「完成品の店を開くわ」


 アリアの脳裏に、店の構想が鮮明に描かれていく。店内に並ぶのは、白くふっくらとした食パン、黄金色に輝くクロワッサン、甘い香りを放つクッキー……。それらは全て、白い小麦粉が持つ無限の可能性を示す証拠となる。


「あのお好み焼きも、店で出してみましょうか。きっと皆、その美味に驚くはずよ」


 エト村は、周囲の村々との交流が盛んな場所だ。ここで評判になれば、噂は瞬く間に広がり、より大きな商機へと繋がる。バルザック商会も彼女の力を見せつけられるだろう。


「ふふ、楽しみだわ」


 アリアは、冷たい倉庫の中でただ一人、未来への熱い思いを燃やしていた。この白い小麦粉は、彼女がこの世界で成り上がるための、最初の一歩に過ぎないのだから。


 その夜、跳ねる小鹿商会の地下室では、アリアがスケッチブックに筆を走らせていた。ざっくりと描かれた店の間取り。工房、陳列棚、そして客席。どれもこれも、この世界には存在しない斬新な構造だ。彼女の頭の中では、すでに白い小麦粉の香りが満ちている。


 翌朝のエト村は、思いのほか活気に満ちていた。だが、並んでいるのは、いかにも硬そうな茶色いパンばかり。アリアは、この村から革命をひろげていくんだという確信を強めた。


 村外れの一角に、最適な場所を見つけた。かつては鍛冶屋だったのだろうか、煤けて荒れた建物がぽつんと建っている。これを理想の店へと変えるのだ。アリアは迷うことなく、跳ねる小鹿商会の地下室から技術担当ゴーレムを呼び出した。


「ゴーレム、聞こえる?」


 商会からゆっくりと姿を現したのは、鈍い金属の光を放つ、四角い身体のゴーレムだった。その無機質な目が、アリアを見つめている。


「エト村で、パン屋を開きたいの。成功のポイントを調査してちょうだい」


 アリアは、ゴーレムにスケッチブックを差し出した。ゴーレムの目が一瞬光り、無言で彼女の指示を理解したことを示す。


「パン屋を展開するのに必要な店舗の大きさ、場所、運営に必要な資材……。できるだけ詳細に。急ぎなさい。そうね、場所は、街道沿いで商会の隣がいいわね。グランデル側でね。」


 ゴーレムは再び光を放ち、すっと姿を消した。アリアは、村の風景を眺めながら、勝利の確信に満ちた笑みを浮かべた。御屋形さまの知識と、ゴーレムという技術。そして、彼女自身の商才があれば、この計画は必ず成功する。白い小麦粉の香りが、この世界に満ちる日は近い。


 ◆


 ゴーレムの報告は、アリアの予想をはるかに上回るものだった。


 数時間後、跳ねる小鹿商会の地下室に戻ったゴーレムは、その調査結果を無機質な声で読み上げた。


「……パン屋の成功要因、主要三点、特定しました」


 アリアは、スケッチブックを脇に置いてゴーレムに視線を向けた。


「第一に、立地。ご指定の街道沿い、グランデル側は通行量が多く、理想的です。特に、跳ねる小鹿商会はすでに多くの販売実績があり、その隣接地に店舗を構えることで、新たな顧客層を獲得できる可能性が高いと分析します」


 ゴーレムの声には抑揚がないが、その報告内容はアリアを満足させるに十分なものだった。


「第二に、店舗の規模と内装。エト村の既存のパン屋は、簡素な造りです。客が店内でくつろげる空間、そして焼き立てのパンの香りが漂うような内装にすることで、既存店との差別化が図れるでしょう。むしろ従業員ごと吸収合併してもよいかもしれません。推奨される店舗面積は、工房を含め最低でも四十坪以上です」


 ゴーレムはそう言いながら、三次元の設計図をアリアの目の前に投影した。それは、彼女の描いたラフな図面を、より詳細に、そして現実的に落とし込んだものだった。


「第三に、資材と設備。パン製造に必要な石窯は、この世界に既存のものが存在しません。高温を維持できる特殊な石材が必要です。また、生地をこねるミキサー、発酵を促す機器、パンを陳列するガラスケースなども、一から製作する必要があります。これらは、全て私の技術で賄えます」


 ゴーレムの報告を聞き終えたアリアは、満足げに微笑んだ。


「ありがとう、ゴーレム。とても良い情報だわ」


 ゴーレムは、アリアの言葉に反応することなく、静かに元の場所へと戻っていく。アリアは、投影された設計図をじっと見つめていた。頭の中では、すでに完成した店舗の姿が鮮明に浮かび上がっている。


「四十坪……。資材も設備も全て自前で用意するとなると、かなりの初期投資になるわね」「さっそく、御屋形さまに報告しなくては」


 数刻後、アリアは静かにゴーレム馬車を走らせていた。行き先は、森の中の滝つぼの奥にひっそりと佇む仮拠点。そこにいる御屋形さまに、今日の調査結果を報告するためだ。


 馬車の微かな揺れが、アリアの心臓の鼓動と重なる。白い小麦粉という未知の資源。それを独占するための最初の計画は、順調に進んでいる。技術担当ゴーレムが提示した詳細なデータは、彼女の確信をさらに強いものにした。


(四十坪の店舗、特殊な石窯、そしてガラスケース……。初期投資はかさむけれど、この世界の常識を打ち破るには、それだけのインパクトが必要だわ)


 アリアは、御屋形さまの知識がこの世界にもたらすであろう革命を思い描く。それは、単に美味しいパンを作るというだけではない。人々の食生活を変え、商業のあり方を変え、やがては世界の構造そのものを変えていく壮大な計画だ。


 やがて、馬車は目的地の前で止まった。御屋形さまの指令室の堅い樫製の扉を叩くと、中から静かに声が聞こえてくる。


「入りなさい」


 アリアは、深呼吸をして扉を開けた。


 ◆


「承知いたしました」


 アリアは、御屋形さまの言葉に静かに応じた。


「エト村を全面に出す……ですか」


 彼女は、御屋形さまの意図を瞬時に理解した。この世界の貴族社会は、非常に閉鎖的で、よそ者を簡単には受け入れない。特に、御屋形さまの知識という、この世界にとってあまりに異質な力が関わっていることを知られれば、厄介な事態になることは想像に難くない。


「跳ねる小鹿商会は裏方に徹する。あくまで、エト村が自力で商業を興したという形を取るのですね」


「その通りだ。それに、アリア、君が全てを一人で背負う必要はない。村人を雇いなさい」


 御屋形さまの言葉は、アリアの計画に新たな視点を与えた。


「雇用……。そうですね。村の労働力を活用すれば、生産力も向上しますし、村人からの信頼も得られます。それに、彼らの生活が豊かになれば、自ずと消費も増える。良い循環が生まれます」


 アリアは、御屋形さまの言葉に深く納得した。単にパン屋を開くという計画が、村全体の発展に繋がる壮大な事業へと変貌していく。


「そして、前回約束したエト村の生産力向上。肥沃な土地と豊富な労働力を遊ばせておく手はないよ」


 御屋形さまの言葉に、アリアは静かに頷いた。白い小麦粉の生産は、村の新たな基幹産業となる。平行して、小麦畑の新規開墾にゴーレムを大量に投入しよう。この事業が成功すれば、エト村は間違いなく、この地域で最も豊かな村になるだろう。


 アリアの胸に、新たな熱意が湧き上がった。御屋形さまの知識を、この世界の人々の幸福のために使う。それは、彼女のこれまでの人生で感じたことのない、強い喜びだった。



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