東初級ダンジョン(3)
第一大隊長ザックは、中央指令テントに広げられた第一階層と第二階層の地図から視線を上げた。それぞれ第一中隊、第二中隊がまさしく命に代えて集めた情報だった。
地図に書き込まれた魔物の生息域、罠の配置、そして隠された通路……それらは、血と汗の結晶であり、無駄にはできない。
ザックは、第一と第二中隊の損耗を脳内で再計算し、小さく頷く。ダンジョン攻略は、単なる力比べではない。それは、情報と物資と、何より人命を天秤にかける、冷徹な戦略ゲームだ。
両中隊とも損耗は軽微だ。
彼は、テント内に集まった中隊長たちに目を向けた。第一中隊長オズワル、第二中隊長のカインとも、疲労の色は見えない。そして、第三中隊長のレイブンだけが、静かに命令を待っていた。
「第三中隊、ダンジョン第三階層の調査を命じる」
ザックの言葉に、中隊長たちの間に一瞬の緊張が走った。第一と第二中隊が踏破した第二階層の先に、未知の領域が広がっているのだ。第三中隊の出番がようやく回ってきた。
「第二中隊は、十分な休憩をとるように」
ザックは、それほど疲労の色は見えない第二中隊長に目を向け、付け加えた。中隊長は一瞬驚いた表情を見せた後、安堵と感謝の入り混じった表情で深く頭を下げた。ザックは、感情に流されることなく、兵士たちの隠れた疲労を考慮した合理的な判断を下したのだ。
「目標は、第三階層の地形と、主要な魔物の情報を持ち帰ることだ。深追いはするな。君たちの命は、このダンジョンを攻略するための最も重要な資産だ。」
ザックの言葉に、第三中隊長は敬礼した。彼の瞳には、任務に対する静かな決意が宿っていた。
第三中隊は、準備を整え、第二階層の最奥部にある第三階層への入り口に立った。入り口からは、第二階層のそれとは異なる、冷たく湿った空気が漂ってくる。魔力の濃度も濃く、未知の危険を予感させた。
中隊長は、隊員たちに最後の指示を出す。
「深追いはしない。危険を感じたらすぐに撤退だ。俺たちは英雄になるために来たのではない。大隊長に、次の作戦を立てるための情報を持って帰るために来たのだ。」
その言葉に、隊員たちの間に緊張が走る。彼らは、ザック大隊長の合理性を理解している。英雄的な行為は評価されない。求められているのは、冷徹なまでの任務遂行能力だ。
第三中隊は、慎重に第三階層へと足を踏み入れた。そこは、第二階層とは全く異なる様相を呈していた。壁や天井は奇妙な苔に覆われ、魔力の光を放つキノコが不気味に生えている。魔物の気配は、第二階層よりもはるかに強烈だった。
彼らは、地図を広げ、地形を記録し、遭遇した魔物の特徴を詳細にメモしていく。しかし、任務は順調には進まなかった。突如現れた未知の魔物「オーク」が、彼らを屈強な肉体を武器にして襲撃してきたのだ。
オークは、第二階層の魔物コボルト集団とは比較にならないほどの力を持ち、第三中隊の隊員が次々と負傷していく。中隊長は、任務遂行と部下の命の間で、苦渋の決断を迫られる。
第三中隊は、多大な犠牲を払いながらも、辛うじて中央指令テントに帰還した。彼らが持ち帰った情報は、ザックが求めていた以上のものだった。第三階層の地形図、オークの生態、そして、その先に広がる広大な空間の存在。
しかし、その代償は大きかった。多くの隊員が重傷を負い、第三中隊の戦力は激減していた。中隊長は、報告を終えた後、深く頭を下げ、自らの不手際を謝罪しようとした。
だが、ザックは彼を遮った。
「君たちは、最高の仕事をした。この負傷は決して無駄ではない。」
ザックは、彼らが持ち帰った情報に目を落とした。そこに記されたオークの生態情報を見て、彼はすぐに次の戦略を立て始める。
ザックは、第三中隊が持ち帰った報告書を静かに読んでいた。そこには、オークの生態に関する詳細な情報が克明に記されている。
「オーク…」
ザックは呟く。第二階層のコボルトとは比べ物にならないその戦闘力、そして知性。報告書には、オークが原始的な石器の斧を使い、仲間と連携して攻撃を仕掛けてきたことが記されていた。さらに、負傷した仲間を放置せず、協力して後退させる様子までが描かれている。
ザックの脳内で、新たな戦略が構築されていく。
「オークは、単純な力任せの魔物ではない。彼らは集団で行動し、連携を駆使する。正面からの突撃は、我々の損耗を増やすだけだ。」
彼は、第一中隊と第二中隊の損耗が軽微だった理由を再確認する。彼らが遭遇したコボルトは、数の多さで圧倒してくるものの、連携は稚拙で、奇襲や待ち伏せといった戦術で対応できた。しかし、オークは違う。彼らは、戦術的な思考を持っているのだ。
報告書の一文がザックの目に留まる。
「オークは、自分たちを『森の民』と呼び、第三階層を彼らの聖域と見なしている様子。我々が踏み入れたことに対し、明らかに強い敵意を示した。」
ザックは、報告書を閉じた。第三中隊の犠牲は無駄ではなかった。彼らは、第三階層の真の脅威を明らかにしたのだ。
「レイブン中隊長」
ザックは、静かに報告を終えたレイブンに声をかけた。
「君は、最高の情報をもたらした。第三中隊の犠牲は、このダンジョン攻略の勝利に繋がる。君の判断は正しかった。」
レイブンは、顔を上げた。その目に宿る苦悩が、安堵と達成感に変わっていく。
「オークは、力と知性を持つ。我々は、その両方を上回る必要がある。」
ザックは、地図を広げた。彼は、第三階層への新たな侵入経路を模索する。オークの行動パターン、生息域の特性、そして彼らが聖域と見なす場所…それらの情報から、オークの予測不可能な行動を読み解こうとする。
次の作戦は、正面からの力押しではない。オークの生態を利用した、より狡猾で、冷徹な戦略となるだろう
ザックの計画は、冷たい鉄の塊のように無駄がなかった。彼が、中央指令テントに広げられた第三階層の地図を睨みながら、第一、第二中隊の中隊長たちに命令を伝えたとき、彼らの間に驚きと戸惑いが広がった。
正面からオークの群れと戦うのではない。彼らの縄張りを穢し、社会を内側から崩壊させる、陰湿な戦術だった。
「これは奇襲だ。そして、オークの誇りを利用した心理戦でもある」
ザックは、広げられた地図の上で、第三階層の複雑な地形に指を這わせた。オークの「聖域」から離れた場所。そこには、第三階層へと続く細く、目立たない獣道があった。
「第一中隊はここから侵入。偽の拠点を作り、大きな音を立ててオークの注意を引け」
オズワル中隊長が顔をしかめる。それは囮だ。彼ら自身が、オークの群れの怒りを一身に引き受ける役割だった。
「第二中隊は、ここだ」
ザックの指が、オークの偵察部隊の巡回経路を指し示す。
「奇襲をかけ、斥候を全て無力化する。オークの本隊に我々の意図を悟られるな」
最も危険な任務は、当然、消耗の激しい第三中隊ではなかった。彼らは、ザックの作戦の鍵となる、ある情報収集を任されていた。
「レイブン中隊長。君たちの任務は、ここだ」
ザックの指が、第三階層の中央、オークが「聖域」と呼ぶ場所を指した。
「第三中隊の生き残りは、この聖域に入り、オークの神聖なものを探し出す。そして、それを破壊するのだ」
中隊長たちの間に、再び緊張が走った。オークの力を逆手に取った、あまりにも大胆な作戦。だが、ザックの瞳に宿る確信に満ちた光は、彼らの不安を打ち砕いた。
数時間後、第三階層は、かつてないほどの騒乱に包まれていた。
第一中隊が作った偽の拠点から、炎が上がり、爆発音が轟く。オークの群れは、怒号を上げながらそちらへ向かった。彼らの戦術は単純だ。侵入者を力で排除する。しかし、今回は違った。そこには、抵抗らしい抵抗もなく、ただ燃え盛る火と、爆発の残骸があるだけだった。
「奴らの注意は、完全にそちらに向いている」
第二中隊長の視線の先で、オークの斥候部隊が次々と倒れていく。静かに、素早く。彼らは、敵の意図を本隊に伝える術を奪われたのだ。
そして、レイブン率いる第三中隊は、静寂に包まれたオークの「聖域」へと足を踏み入れた。そこは、奇妙なキノコの光が幻想的に照らし出す、洞窟の奥にあった。
「ここは、いったい何なんだ?」
レイブンは、思わず声を漏らした。足を踏み入れた「聖域」は、彼らがこれまでに見てきた第三階層の場所とは全く異なっていた。壁や天井を覆う苔は、ここでは魔力の光をより強く放ち、まるで星空のように瞬いている。そして、キノコは不気味な形ではなく、まるで花のように美しく咲き乱れ、甘い香りを漂わせていた。
がしかし、その空間にはそれだけだった。ほかには何も見当たらない。
「中央指令部、こちら第三中隊。指示あった聖域に入り、オークの神聖なものを探すも、見当たらず。繰り返す、神聖なものは見当たらず」
レイブンは中央指令部からの指示を待った。
「中央指令部、こちら第三中隊。指示あった聖域に入り、オークの神聖なものを探すも、見当たらず。繰り返す、神聖なものは見当たらず」
レイブンの声が、静寂に包まれた「聖域」に響いた。返答を待つ間、彼は再び周囲を見回した。
壁や天井を覆う苔が放つ、淡い光。まるで花のように美しいキノコから漂う、甘い香り。この幻想的な空間が、オークの「聖域」であることは間違いない。だが、肝心の、彼らの信仰の対象は見当たらない。
『レイブン中隊長。冷静になれ。そちらの状況を詳しく報告せよ。』
通信機から、ザックの冷徹な声が聞こえてきた。その声は、レイブンの焦りを鎮める。
「了解。聖域は、壁や天井を覆う苔が発光し、美しいキノコが咲いている。ここには、オークの原始的な生活痕跡はほとんど見当たらない。彼らの武器や道具も、この場所にはない」
レイブンは、知覚した情報を一つずつ報告していく。
『……そこに、人工的な痕跡はあるか?』
ザックの質問に、レイブンは周囲を見回した。しかし、自然に形成された洞窟にしか見えない。
「人工的な痕跡は見当たらず」
『了解した。全部隊に告ぐ。作戦は終了、速やかに安全を確保して撤収せよ』
ザックの声は、常に冷静だった。だが、その一言は、レイブンの中隊長の心に衝撃を与えた。オークの聖域に信仰対象がなく、人工的な痕跡も見当たらない。その時点で、ザックは迅速な撤収を決断したのだ。
◆
「中隊長、俺たちはどうなるんだ?」
隊員の一人が、戸惑いを隠せない声で尋ねた。多大な犠牲を払ってようやく辿り着いた場所だ。何も得られずに引き返すのか。彼らの顔には、落胆と不満の色が浮かんでいた。
レイブンは、隊員たちの視線を正面から受け止めた。彼らの気持ちは痛いほどわかる。だが、ザックの意図も理解できた。
「撤収だ」
レイブンは、簡潔に告げた。英雄的な行為は評価されない。求められているのは、冷徹なまでの任務遂行能力だ。
「このまま帰るんですか?」
隊員は、不服そうな顔で言った。
「そうだ。我々の任務は、大隊長に次の作戦を立てるための情報を持って帰ることだ。情報は得られた」
「でも、何も見つかってない…」
「それが情報だ。大隊長は、それを求めている」
レイブンは、彼らに背を向け、来た道を戻り始めた。隊員たちは、しぶしぶと彼に従う。彼らはまだ理解していなかった。何も見つからない、という情報こそが、ザックにとって最も重要な情報であることを。
中央指令テントに帰還したレイブンは、ザックの前に立った。彼は、深く頭を下げ、任務の失敗を謝罪しようとした。しかし、ザックは、彼の言葉を遮った。
「君は、最高の仕事をした」
ザックは、広げられた地図に目を向けた。そこには、第三階層の地形図、そして、第三中隊が遭遇したオークの生態が詳細に書き込まれている。そして、その報告書の最後に、たった一行、こう書かれていた。
「聖域、特異な点なし」
この一行が、ザックの計画を根本から覆し、新たな戦略を立てるための礎となったのだ。