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32歳、人生リセット、ただし異世界で  作者: トール
八章 春が来る前に

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終わりなきタスク(2)

 ノースミッドタワー最上階、執務室 。厚い防弾ガラスの向こうには、朝焼けを吸い込んだ

 エトの街並みが、宝石のようにきらめいていた 。エトの街は、もはやノースミッドタワーの首都と化しており、主に地下都市がインフラ系の大拠点となっている 。


「さて、次はライアスとリアかな」


 俺は、ゆったりと椅子にもたれながら、手に持った分厚い資料を閉じた 。紙の束から放たれるインクの匂いが、妙に心地よい 。


 数日前まで、俺を支配していたのは、深海の泥のような絶望的な倦怠感だった 。それは、あまりに重く、深く、思考そのものを鈍らせる毒 。しかし今、窓から差し込む爽快な朝の空気は、その悪夢が嘘だったかのように、俺の肺腑を満たしている 。体中に力が漲り、細胞の一つ一つが覚醒していくのを感じた 。


 この部屋に漂う空気は、もう「停滞」ではない。「動」だ 。


 机の上には、アリアから届けられた第二大隊と遊撃魔道中隊の組織図案が広げられている 。先日までの崩壊寸前の状態から、ようやく再編成という建設的な作業に着手できたのだ 。


「よし、これでいこう」


 思わず口元が緩む 。この再編成は、ただ人員を配置し直すだけではない 。失われた牙を研ぎ澄まし、新しい骨格を与え、「新生・第二大隊」「新生・遊撃魔道中隊」として生まれ変わらせる、創造の作業だ 。


「次は、俺の仕事だな」


 俺は立ち上がり、大きく伸びをした 。全身の関節が心地よい音を立てる 。新たな戦いの夜明けだ 。ホログラムに投影された「


 春までに始末をつけるべき残りのタスクリスト」には、『東上級ダンジョン探索(世界樹の大木)(最高の資材確保と危険)』の項目が、赤く点滅していた 。


 窓ガラスに映る俺の瞳は、まるで獲物を定めた猛禽のように鋭く、そして、どこまでも晴れやかだった 。


 東地区の深部の山岳地帯に、突如として出現した大規模なダンジョン。その中に精霊の森があった。以前は瘴気の影に飲まれていたその場所は、今や陽光を浴び、命の息吹に満ちていた。あの『淀み』を浄化してから、すでに数か月が経過していた。


 森の奥深く、苔むした岩の上で休憩していた俺は、腰の袋から取り出した干した木の実を広げた。


「やあ、こんにちは」


 俺の声に気づいたサテュロスたちが、ワラワラと興味津々に寄ってくる。彼らは、俺が美味しい木の実をたくさん持ってくることを知っているのだ。まだ幼い、角の生え始めの個体が、遠慮がちに鼻先を寄せてくる。


「よしよし、順番だぞ」


 俺は低い声で諭しながら、手のひらに乗せた実を一つ、一番おとなしいサテュロスの口元へやった。彼らがカリカリと音を立てて木の実を齧る様子は、平和そのものだ。


「いらっしゃい」


 静謐な声が響き、いつの間にか、ドライアドが様子を見にきていた。


 その姿は、周囲の木々と完全に溶け込んでおり、意識しなければ見逃してしまうほど。彼女の髪は瑞々しい若葉の色、瞳は深い森の池を映すような翠。以前の、どこか影を宿していた表情は消え、森の回復と共に、その美しさも清らかさを増していた。


「やあ、こんにちは」


 俺は立ち上がり、軽く会釈する。


 ドライアドは警戒するでもなく、かといって親しげでもなく、静かに俺を見据えた。


「いつもの人ではないのね。あなたか来たということは、私の森を探索する。そういうことかしら?」


 彼女の言葉には、森の主としての、揺るぎない威厳が込められている。「いつもの人」というのは、多分、第一大隊第二中隊長のレイブンのことか。彼はもうすでに南部に出発している。あるいは探索担当の別隊員だろう。俺が直接足を運ぶのは、確かに珍しい。


「いやいや、こちらの探索はまだ先ですよ。今日はあなたにお話しにまいりました」


 俺はきっぱりと否定した。


 探索など、目的ではない。少なくとも、今のところは。


「あの『淀み』の件以来、この森の調子はすこぶるいい。サテュロスたちも元気を取り戻した」


 ドライアドは、俺が語りかける間も、そよ風に揺れる枝葉のように優雅に佇んでいた。彼女の足元から、一本の蔦が伸び、俺の足元に触れてくる。それは、敵意のない、森そのものの探求心だった。


「感謝しているわ。穢れは、森の根にまで達していた。もう二度と、あのような厄災が起きないために、あなたがたが動いていることも知っている」


 彼女の声は、森の囁きのように穏やかだが、その言葉には深い決意が宿っている。


 俺は、森の回復が一時的なものではないことを、彼女の瞳の奥に確信した。この清浄な朝の空気と、サテュロスたちの笑い声こそが、俺たちが成し遂げた仕事の成果だ。


「ええ、そのための話です」


 俺は、真剣な面持ちに戻り、ドライアドの目を見た。


「この森の『領域』と、俺たちノースミッドタワーの『領域』について、境界線を引く時期に来た。今後、恒久的な協力関係を結びたい」


 空気が張り詰めた。それは、交渉の始まりを告げる、静かで、しかし厳粛な瞬間だった。


「ベヒーモスについて教えてください 」


 俺は真剣な眼差しをドライアドに向けて、お願いした 。


 乾いた木の実を齧っていたサテュロスたちが、一斉に動きを止め、不安そうに顔を見合わせる。彼らの間に静かな動揺が広がった。それは、この穏やかな森の空気に、異質な、巨大な「恐怖」の単語が持ち込まれたことへの、本能的な反応だった。


 ドライアドは、わずかに目を細めた。彼女の表情は、風に揺れる水面のように穏やかなままだが、その瞳の奥には、数百年、あるいは数千年もの時を生きる精霊だけが持つ、重い「記憶」の影が宿った。


「……あなたの口から、その名を聞くことになるとは思わなかったわ」


 彼女の声は、先ほどまでの静謐なものから一転、深く、低くなった。まるで、地下の古い根が軋むような響きだった。


「その名を持つ存在は、この東上級ダンジョン――世界樹の大木の領域において、災害と同義よ。古き精霊たちは、それを『大地を食らう者』と呼んだ」


 俺は唾を飲み込んだ。タスクリストに赤く点滅していた『東上級ダンジョン探索(世界樹の大木)(最高の資材確保と危険)』という文字が、脳内でさらに鮮明な警告を発する。


 最高の資材の裏には、やはり最高の危険が潜んでいる。


「私たち森の精霊は、ベヒーモスの出現を予期し、その都度、森全体を覆うように生命力を結界に変えてきた。しかし、ベヒーモスが出現するたびに、この森は深く傷つき、数百年単位で再生を強いられるの」


 彼女は、俺の足元に伸びていた蔦をそっと持ち上げ、手のひらで撫でた。その仕草には、自分の子供を慈しむような、深い愛情と、避けられない悲劇への諦念が混ざっていた。


「ベヒーモスは、その巨躯に見合わぬほどの強大な魔力を持つ。そして何より、知性が低く、制御不能。その食欲は尽きることがなく、ダンジョンのエネルギー源である魔力を、根こそぎ吸い尽くしてしまう。穢れをもたらす『淀み』が生まれたのも、その飢餓が原因の一つだった 」


 俺の頭の中で、情報が整理されていく。巨大な力、低い知性、制御不能、そしてダンジョンの根源的なエネルギーを喰い尽くす存在。


「そのベヒーモスが、再度、襲撃しようとしていると?」


 ドライアドは、俺から目を逸らさず、静かに頷いた。


「ええ。あなたがたが浄化した『淀み』は、その飢餓の余波に過ぎない。この森の深奥、世界樹の根が広がる最下層で、再び魔力が蓄積され始めている。今のうちに手を打たなければ、ベヒーモスは餌の匂いに気づき、この地に再来し、この東地区の広大な領域が、魔力の砂漠と化すでしょう」


 空気が再び張り詰める。それは、もはや単なる交渉ではなく、生存をかけた共同戦線の申し入れだった。


 俺は、精霊たちの森を恒久的な協力関係の領域に組み込むという目的 を改めて心に刻みつけ、静かに告げた。


「わかりました。我々ノースミッドタワーが、その脅威を排除しましょう。ただし、一つ条件があります」


 ドライアドの目が、探るように細められた。


「ベヒーモスの活動を、具体的に抑制する方法を教えていただきたい。そして、その討伐に成功した暁には、世界樹の大木の恩恵を、我々にも分けてもらいたい」


 森の主との取引は、常に命がけだ。俺は、そのリスクに見合うだけの報酬を、躊躇なく要求した。


 太陽が完全に昇りきり、木々の間から差し込む光が、交渉の場を厳粛に照らし出した。


「申し訳ないが、ベヒーモスの対処についてはわからないわ。わたしたちは、ベヒーモスの襲撃をただ見ているだけしかできませんでしたから」


 ドライアドはうつむきながらそう答えた。その声には、過去の無力感と、森の精霊として抗えなかったことへの深い悔恨が滲んでいた。


 俺は静かに頷いた。数百年単位で再生を強いられるほどの存在だ。対処法を知らないのは当然のことだろう。しかし、彼女が知る情報——それは、ベヒーモスという「災厄」を乗り越えるための、唯一の手がかりになる。


「ただ、ベヒーモスの襲撃の手段はわかります」


 ドライアドの話をまとめると、その存在は、まさしくこの異世界を、この宇宙を支配するラスボスだった。


 俺は、頭の中で彼女の言葉を整理し、ノースミッドタワーの戦術マニュアルに照らし合わせながら、その恐るべき生態を分析した。


 ベヒーモスの生態と能力

 生態

 来訪者

 異世界(あるいは宇宙)からの強力な魔物。この地に突如として現れた。


 巨体とスピード

 圧倒的な巨体にもかかわらず、その動きは素早い。


 攻撃能力

 多彩な魔法

 火山噴火、雷、風の竜巻など、古龍にも似た多彩な属性攻撃を操る 。


 高威力の物理

 巨大な角や爪、筋肉質な体格を活かした物理攻撃も非常に強力。広範囲をなぎ払う攻撃を連続で繰り出す。


 エクリプスメテオ

 最も強力な攻撃。エリア全体を巻き込むメテオを落とす。

 即死級の威力を持ち、山影に隠れるなどの特殊な回避策が必要。


 敵視ヘイト

 特定の探索者に「敵視」を向け、その探索者を執拗に狙う特性がある。


 防御能力

 タフネス

 体力とタフさが非常に高い。


 自然回復

 探索者がいないエリアにいる間は、体力を回復する能力を持つ。


 防御ダウン

 メテオ攻撃には、防御力を下げる「防御力ダウン」の状態異常効果が付与される。被弾すると次の攻撃で一撃で倒されるリスクが高まる 。


 部位破壊

 角や尻尾、前脚などは部位破壊が可能。しかし、物理的な攻撃を跳ね返すような硬い表皮を持つため、弱点部位を狙うことが重要。


 環境耐性

 他のモンスターとは異なり、落石によるダメージでは転倒せず、大きな衝撃で怯む程度。


「なるほど、ラスボスだね」


 俺は呟いた。それは、絶望や諦めではなく、むしろ高揚感を含んだ独り言だった。


 異世界からの来訪者。即死級のメテオを、エリア全体に。そして、自然回復による時間との戦い。これまでの常識が通用しない、完全に異質な設計思想を持つ魔物だ。


 特に危険なのは、特定の対象を狙う「敵視」の特性と、「防御力ダウン」を伴うメテオの組み合わせ 。一人のおとりが、集中的にターゲットを引きつけ、回避行動を取らなければ、パーティは瞬時に壊滅する。


「ドライアド、貴重な情報に感謝する」


 俺は改めてドライアドに目を向けた。


「この情報がある限り、対処法は見つかる。必要なのは、戦術だ。そして、俺には仲間たちがいる」


 俺は立ち上がった。ベヒーモスの討伐は、もはや恒久的な協力関係を結ぶための試金石ではない。それは、ノースミッドタワーの新たな時代の象徴となるだろう。


「まずは、この生態情報に基づいたベヒーモス討伐マニュアルを作成する。そして、最も重要なタスク――敵視を引きつけ、エクリプスメテオから仲間を護り抜くことができる『盾役タンク』と、瞬間的な高火力を出せる『攻撃役アタッカー』の選定と連携訓練だ」


 ドライアドは、俺のその揺るぎない決意を見て、わずかに表情を緩めた。その瞳には、かつてないほどの希望の光が宿っていた。


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