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第十七話 ロイエンタールの思惑

 手紙が届いた。

 弟に手紙を出してはいたが、返信が来たことに正直驚いた。

 弟が幼いうちに家を離れたせいで大した関係も構築できなかった。むしろ、長子である自分が家を離れたせいで弟はより厳しい環境で育ったかもしれないことも想像に難くない。

 エミールは少し浮き足立ちながら、椅子に腰をかけ、封を開いた。そこには初めて見る筆跡があった。


「ふっ、最後に会ったときは、まだミミズみたいな文字書いてたのにな……」


 幼かった頃の弟を思い出し口が綻ぶ。

 内容はとても簡素なものだった。


『くだんの件、詳しくは書けませんが、私が王都に留まっていることが、何よりの答えかと。』


 ルーシュからの定期的な手紙でアウグストがルーシュと共に行動していることは聞いていた。そんな縁もあるものかと思っていたが──


「やっぱり偶然ではなかったって言うことか」


 エミールは天井を仰ぎ、思案に沈む。


「あんまり考えたくなかったが……」


 琥珀色に輝く髪をした少年の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 前王朝遺臣の事件について調べないよう釘を刺してきたと言うことは、グランツ司祭も何かしらの目的でここにいるということだろうか。


「……ちょっと鎌かけてみるか」


 エミールは手紙を机に置き、立ち上がった。



 エミールは重たげな木扉の前で一度立ち止まり、深く息を吸い込んだ。教会の回廊には初夏の光が差し込み、石壁に映るステンドグラスの影が静かに揺れている。

 コツ、コツと靴音が響く。意を決して拳を握り、扉を二度ノックした。中から低く通る声が返る。


「どうぞ」


 エミールは扉を開ける。僅かに油と古文書の匂いが混じる空気の中、グランツ司祭が机に向かい、開いた書物に視線を落としていた。


「おや、珍しいですね。呼んでもいないのに、君がここに来るとは」


 顔を上げた司祭は穏やかな声ながら、その瞳には相変わらずの鋭さが宿っていた。


「少し、昔のことを思い出しまして……」


 エミールは笑みを浮かべながら足を進め、机の前に立った。司祭は書物を静かに閉じ、椅子に深く座り直す。その動作だけで、室内の空気が一段と重くなる。


「……私がここにくる少し前、あなたを宮廷でお見かけしたような気がするのですが」


 言葉が落ちた瞬間、部屋に沈黙が走った。エミールは少しの表情の揺らぎも逃さぬよう、司祭の顔を見つめる。

 静寂の中、蝋燭の火が小さく揺れる音すら聞こえる気がした。


「……王都から、何か聞いたようですね」


 司祭は静かに応じた。その声音には警戒と、わずかな諦めが混ざっている。


「最近は教会よりも家の業務をしているように見受けられましたが……意地を張らずにそろそろ親元に帰ったらどうですか」


 皮肉交じりの言葉に、エミールはわずかに苦笑いを浮かべる。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。


「そのように見えていたなら、申し訳ございません……ですが、あまり高位の司祭が来るような村でもないと思いまして」


 司祭の目が細くなり、厳しさを帯びる。空気がぴんと張り詰めた。


「……私から言えることはありません。ただ……君は、自分の父親のことをあまり理解していないようですね。ジークフリート・ロイエンタール公爵は洞察力に長け、如才なく振る舞う。思っている以上に、狡猾な男ですよ。……君がなぜ、ここにいられるのか考えたことはありますか?」


 言葉の刃が静かに突き刺さる。エミールの胸の奥で何かが軋む音がした。

 自分はただあの家から離れたかった。自分の感情を認めることが許されないあの暗闇の世界から。ただ人として、誰もが持ち得る『心』を失ってしまうことが怖かった。

 ヴェルツ正教への赴任願いも、すべて自分の意思だと思っていた。父は反対せず、「勝手にしろ」と言っただけだった。

 しかし──あれも仕組まれていたとしたら?

 ぼんやりとした不安が、背後から忍び寄る冷気のようにエミールの背筋を這った。

 ──トン。

 司祭が、手元の書類を軽く机に叩きつけた。


「君に何を聞かれても、私から言えることはない。さあ、仕事に戻りなさい」


 エミールは口を噤んだ。胸の内でぐるぐると回る疑念が、答えのない迷路を描いていた。


(これ以上は無理か……)


 一息吐いてから深く一礼し、エミールは部屋を後にした。

 回廊を歩きながら父親の顔を思い出す。

 結局、自分の意思で家を離れたと思っていたが、体良く利用されていたということである。

 確かに公爵が指示すれば、子供の赴任などいつでも取り消すことができるだろう。当時はまだ幼かったため、あまり深く考えなかったが──


「……結局、父上の掌の上で転がされていただけってことか」


 エミールは足を止めて、ため息をつく。


「だが……あの口ぶりから察するに……」


 その時ふと、回廊脇の中庭から音がして振り返った。ちょうど木から燕が羽ばたくところだった。その姿を目で追いながら空を見上げる。


「あいつには普通の幸せを手にして欲しかったんだけどな……」

 

 ***

 

 グランツは、静かに閉まった扉の方をしばらく見つめたまま、呟いた。


「まったく……しょうがない子だ」


 この国にロイエンタール公爵家を知らぬ者はいない。

 前王朝時代、公爵位を授けられていたのはわずか四家。そのうち、王宮に深く仕える宮廷貴族を除けば、特に大きな軍事力や経済力を有していたのが、現在の王家であるクロイツ家と、このロイエンタール家だった。

 クロイツ家が国境警備と正教庇護を担う軍事貴族である一方、南方に広大な商圏を持つロイエンタール家は、交易と金融で財を築いた老舗の商業貴族だった。

 革命の際、ロイエンタール家はどちらの陣営にも兵を出さず、あくまで中立を貫いた。クロイツ家が王座を得た後も、表面上はその忠誠を示した。息子たちを神学校に入れたのも、その一環だろう。

 だが、クロイツ家はその影に潜む力を恐れた。

 革命後、国内の喧騒が落ち着いてきた頃、東部資源をロイエンタールを介さずに貿易できるよう、新たな蒸気機関車の線路を敷設する計画を立て始めた。

 その直後──エミールがこの村に赴任してきた。

 着任名簿に目を通した瞬間、グランツはその名に見覚えがあった。ジークフリート・ロイエンタールの長子──間違いない。

 本人は、自分の意思でここに来たと信じていたようだった。だから、それ以上、詮索するつもりはなかった。だが、それからすぐに、敷設計画は頓挫した。

 すなわち、この村に何かあると察した彼は、息子を『目』として送り込み王家を牽制したわけである。

 グランツは小さく息を吐き、机に広げた書類を閉じた。


「エミール、君を信じていないわけではない。まだ少年の顔をした君がこの村に来た頃からずっと見てきたんだから。だが……ジークフリート・ロイエンタール。あの男は侮れん。必要とあらば、息子すら躊躇なく駒に使う」

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