第十六話 揺れる天秤
夜の帳が王都を包むころ。
アウグストはひとり、薄明かりのともる王宮の長廊下を歩いていた。
磨き抜かれた石床に足音が反響するたび、胸の奥で何かが揺らぐのを感じる。
(……報告か、それとも黙して見守るか)
無意識に握りしめた拳がわずかに震えていた。
途中、吹き抜けの窓辺で足を止める。眼下には王都の街明かりが広がり、遠くの運河港では、風に揺れる帆がかすかに白く浮かんで見えた。
先日、ルーシュの元を訪れた際のことを思い出す。
ルーシュにロイエンタールの関与を疑われ、つい睨んでしまった。疑うのかよって。
(ふっ……どの口が言ってんだか……)
思わず嘲笑が漏れた。
最初から疑ってかかり、本音を隠して接し続けていたのは自分の方なのに。
「……まったく」
アウグストは息を吐き、窓枠に片肘をついた。肘に感じる冷たい石の感触が、ほんのわずかに思考を落ち着かせる。
(俺の役目は彼を見張ること)
王の密命。
レオント家の血を引く少年が現れたときから、アウグストはその動向を探る任を負っていた。そのために同時期に神学校に進み、彼に近づき、仲良くなれる策を講じた。彼が心を許してくれるように。
なのに——時に笑い合い、時にともに危険をくぐり抜けるうちに、彼のまっすぐさとひたむきさに心が揺れた。
そんなことが使命を曇らせることになるとは思ってもいなかった。
「甘くなっている……」
かすかに呟く声は、自嘲にも近かった。
気づけば、懐の報告書は白紙のまま。埋めるべき言葉が、見つからない。
そのとき、背後から静かな足音が響いた。
姿を見ずともわかる、王の近侍のものだ。
「……アウグスト様、陛下がお待ちです」
低く告げる声に、アウグストはわずかに肩をすくめた。
この重い天秤の針を、今、どちらに傾けるべきか。
歩き出すと、靴音が冷えた石の廊下に淡く響く。そのたびに、胸中の迷いも音を立てるようだった。
——王の間。
荘厳な扉の前に立ち、ふと天井を見上げる。描かれた王家の紋章が無言の問いかけのように感じられた。
(……どうする)
問いかけながら、扉に手をかける。冷たい金属の感触が、心の奥底を震わせた。
王の間に踏み入ると、フリードリヒ国王がひとり、窓辺に立っていた。
背に受ける月明かりが、薄く金糸を織り込んだ上衣の縁を照らしている。
「よく来たな」
フリードリヒは振り返ることなく声をかけた。
窓越しに見える街の灯火に目を向けたまま、淡々と言葉を続ける。
「彼の様子は?」
アウグストの喉がわずかに鳴った。
それでも、努めて平静を装い、声を絞り出す。
「問題ありません。日々、己の職務を全うしています」
「ふむ」
フリードリヒは短く返し、ようやく振り返った。
月明かりに浮かぶその瞳は、何もかもを見透かしているかのように静かだ。
「おまえが報告を控えていることくらい、気づかぬと思ったか?」
その言葉に、アウグストは背筋を伸ばした。冷たい汗が背を伝う。
「……申し訳ありません」
正直に頭を垂れる。言い訳の言葉は浮かばなかった。
「ふっ……絆されおったか」
皮肉とも、寛容ともとれる曖昧な笑み。
「おまえは兄と違って随分人間らしいんだな」
冷ややかな目が向けられる。
アウグストは拳を握りしめ、一息吐いてから口を開いた。
「お言葉ですが……陛下は何を隠していらっしゃるのですか?」
フリードリヒは無言のままアウグストから目線を外さない。
「前王朝遺臣の動きはお気づきですよね?王胤抹殺令も廃止なさらない……彼が謀反に加担するとでも危惧しておられるのですか?……それとも餌にするおつもりですか?」
フリードリヒが視線を逸らさず、ゆっくりとアウグストに近づいてくる。そして、アウグストの目の前に立ち止まり問いた。
「それはどの立場で問いているのだ?国王の密命者?ロイエンタールの次男?それとも、彼の友人として?」
レオント家末裔の監視。通常ならば国王直属の臣下にやらせるだろう。わざわざ面倒な地方貴族の子弟にやらせる必要はない。ということは、アウグストの父・ジークフリート・ロイエンタールからの進言があったに違いない。
(……だとすれば、俺に課されていることは、国王に従いつつ、手の内を探ること)
アウグストは小さく息を吐いた。
(彼の友でいたい。その温かさを知ってしまった。だが——)
「不遜な物言い、失礼いたしました。陛下の仰せのままに」
フリードリヒは静かに頷き、わずかに口角を上げた。そして、興味をなくしたように踵を返し机へと戻っていった。
「では、今まで通り動向は逐一報告してくれ」
「かしこまりました」
アウグストは一礼し部屋を辞した。
王の従者に案内され王宮の外に出る。綺麗な月が夜空に浮かんでいた。
(ロイエンタール家の子弟である限り、彼の友として隣に並ぶことはできないのか……)
「いや、建前があれば、それを使えばいい。あとは……俺の動き方次第だ」
できるならば、何の重荷もなく出会いたかった。だが、今更どうにかなることでもない。
であれば、今の立場で抗うしかない。




