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第十二話 あの日、名を問われて

 ヘルムートは広々とした邸宅の廊下を静かに歩いていた。窓の外には、澄んだ月明かりが差し込んでいる。

 今日一日、彼はアウグストの護衛任務に就いていた。

 ロイエンタール家に仕えて三十年。身分のない自分を能力で評価し、若き子弟たちの傍に立つ役目を任せてくれたこの家には、感謝しかなかった。

 ヘルムートはふと足を止め、窓辺に立ち月を見上げる。


「……こんなにも穏やかでいいのだろうか」


***


 ヘルムートの家はただの農家だった。

 だが幼い頃、通りをゆく貴族の馬車に随行していた騎士の姿を目にした瞬間、胸に何かが灯った。あの堂々とした背中に、自分もなりたいと──。

 農村では、子どもとて一人の労働力。ヘルムートは鍬を振りながらも、騎士の姿を想像する日々が続いた。

 幸運だったのは、ヘルムートが住んでいる村を収めているのが軍事貴族だったこと。村には剣術道場があり、有望な者は貴族直属の騎士団に召し上げられる可能性があった。

 ヘルムートは親をなんとか説得し、剣術道場に通わせてもらった。農作業も手伝いつつ、合間を縫って剣術の鍛錬に励んだ。あの光景を胸に秘めて。

 十三歳の頃、遠い記憶のはずなのに、今でも鮮明に覚えている。

 王都郊外の訓練場。国王臣下の各領地から、有望な者が集められていた。

 馬の嘶き、遠くで鳴る鐘の音。緊張と埃が入り混じる空気。

 有望とは言っても、大体は貴族の子息。ヘルムートのような腕だけで這い上がってきたものは少ない。


「おい、名札がないのか」


 模擬戦の対戦相手が嘲笑う。周りからも冷ややかな声が飛ぶ。

 貴族の子弟たちに混じって木剣を構え、ただ黙って頭を下げた。言い返す言葉も、名乗る名もなかった。

 模擬戦が始まり、初手を交えた瞬間、彼は悟った。負けるはずがない。

 親の地位に安穏とした者に、すがるように鍛えた剣が負けるはずがない。

 ヘルムートは相手の木剣を上に払い、脇へ切り込もうとしたそのとき──

 左隣から斜めに木剣が飛んできた。

 大口を叩いていた相手の少年は目を見開いたまま、身体を動かせず棒立ちになる。


(……間に合わない!)


 咄嗟に、ヘルムートはその相手の少年を庇った。

 鈍い音と共に、背に痛みが走った。息が止まる。

 土煙の中、誰かが近づいてくる気配がした。

 ──その影は、異質だった。


「名は?」


 静かだが、芯の通った声。

 彼は息を整え、答える。


「……ありません」

「なぜ、庇った」

「……剣は、人を守るためにあると教わったので」


 まっすぐに、偽らずに答えた。

 相手はしばし沈黙し、やがて小さく頷いた。


「ならば、私の傍で、それを証明してみせよ」


 その人こそ、アデルハイト・レオント王太子であった。

 その言葉が意味するところを、当時はよくわかっていなかった。けれどそのとき、確かに、人生が変わった。

 それから二年、ヘルムートは王太子付きの近衛兵となった。

 名を与えられ、剣を学び、礼節を学んだ。

 そして何より──『人を見る目』を、王太子が持っていたことを知った。

 王太子は、誰の家名でもなく、誰の血筋でもなく、『未来に必要なもの』を選ぶ人だった。

 この人を命をかけて守ろうと誓った。

 この時やっとわかった。こうして命をかけられる相手がいるからこそ、騎士は堂々と胸を張れるのだと。

 ──だが、それは長くは続かなかった。

 突如起きた反乱。レオント家とは友好的だったクロイツ家がヴェルツ正教と手を組み、騎兵した。

 貴族との争いは珍しいことではない。ただ、これだけ規模の大きいものは初めてだった。だからといって変わらない。自分がすべきことは王太子殿下を守ること。

 しかし、それすら許されなかった。

 よくわからないうちに、国王陛下は降伏し、命を掛けて守るはずだった王太子も処刑されると告げられた。

 国王陛下の決断は理解できなくもない。クロイツ家は力がある。全面的に争えば国自体が危ない。それを危惧したのだろうと。


「しかし、王太子殿下のために戦うことすら許されないのですか……」


 何かしらの配慮があったのであろう。

 レオント家臣下は命を奪われず、爵位のある者は各地に飛ばされ、ヘルムートのような名もない者は王宮から追放されるだけで済んだ。

 そうは言っても食い扶持はないわけだから、何かしら職を探さなくてはならない。


「もう、このまま野垂れ死んでしまえばいい……」

 

 人間とは意外にしぶとい生き物だな、と考えていたときに、声をかけられた。


「君は王太子付きの近衛兵かな?」


 綺麗な装いと赤い髪が視界に入った。


「……だとしたら何です?」

「私に忠誠を誓ってくれるなら悪いようにはしない」

「……結構です」

「この革命に不信感を持っているのだろう?このまま死んでいいのか?」


 唯一心残りだったこと。

 なぜこの革命は起きたのか?なぜ王太子が処刑されなければいけなかったのか?


「君の能力を買っている。ロイエンタールに忠誠を誓うなら、君の知りたいことも白日の元に晒そう」


 断る理由はなかった。


「……承知いたしました。これより、この命、あなた様のために捧げます。ジークフリート・ロイエンタール公爵殿」


***


 ヘルムートは自室に着き椅子に座る。相部屋ではあるが、寝床も食事もすべて用意される。まったく不自由ない生活。

 ヘルムートは先ほどのアウグストとの会話を思い返す。


「第三銀鉱区……かつてのエーベルト領、か」


 これはただの偶然なのか。それとも、何かが動いているのか。

 ヘルムートは、東部銀鉱山の坑道で警備をしている元同僚を思い出した。

 筆を取り、簡素な文面をしたためる。


拝啓 久方ぶりの便り、どうかお許しを。

近頃の体調いかがでしょうか。

実は、こちらの業務でいくつか気になる数字があり、

そちらの工房や村の様子に変わったことがないか、お聞きできればと思い、筆を取りました。

例の大雨の影響など、あったのではないかと──

また一度、グロッセンの陽気なワインが恋しくもあります。

そのうち、再会できると嬉しく思います。

まずはご自愛ください。

敬具

ロイエンタール家護衛 エルマー・ローベルト


 ヘルムートは手紙に記した名前を指でなぞる。


(エルマー・ローベルト。ずっと前に捨てたこの名をまた名乗るときが来るとは……)


 手紙を折り、封蝋を押す。


(……王太子殿下。あの日、あなたが託した未来は、まだこの国のどこかに息づいているのでしょうか)


 月の光が差し込む窓の外を見やりながら、ヘルムートは静かに立ち上がった。

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