第八話 折れた御神木2
調査の日々は、そこから始まった。
朝の祈りと教会の務めを終えると、ルーシュは道具を抱えて村の広場へ向かった。
そこでは、すでにエルザが教会から借りた書板と筆記具を手にして待っていた。
「おはよう、ルーシュ。今日も元気ね」
「エルザこそ。家庭教師の授業は?」
「お父様から許可をもらったわ。『しっかり学んでくるように』ですって」
エルザは鳥籠から飛び立った雛鳥のように明るく微笑んだ。
その言葉に安堵し、ルーシュは調査を始めた。
まずは倒木の根元だ。
腐食の進んだ部分を丁寧に削ると、年輪の内側に黒ずみが広がり、ぼろりと脆く崩れる。
「やっぱり……外からじゃ分からなかったけど、中は相当傷んでる」
次に年輪の幅に目を凝らす。幹の外側になるにつれ、極端に幅が狭くなっていた。
「やっぱり最近の成長が止まってたんだな…」
ルーシュは眉を寄せ、手元の記録に印を付けた。
さらに足元の土を掘り返すと、じわりと水がにじみ出す湿った土壌が現れる。
エルザも自ら土をすくい取り、じっと見つめる。
「こっちの方が湿り気が強いわ」
「うん、間違いない。水はけが悪すぎる……このせいで根が腐ってしまったんだろう。でも、なんで…」
この古くから村を見守ってきた楡の大木は百年以上の歴史があると聞く。寿命はもちろんあるだろうが、それにしては衰えが急激すぎる気がする。
(ということは、何か原因が…?)
その足でルーシュとエルザは役場の資料庫を訪れた。役場の資料庫には、過去から現在までの村に関わる資料が保管されている。水路台帳や農地台帳、農作物の収穫記録など、それらの資料は多岐にわたる。
二人は資料庫から古地図を取り出し、湿地帯や旧河川跡を確認していく。埃まみれの地図には、かつて村を縦断していた川の流れが描かれていた。
「昔はここに川が流れていたんだ」
ルーシュは川筋を指でなぞりながら呟く。
「今とは違う位置ね」
ルーシュは頷き、次に土木工事覚書を開いた。
そこには数十年前に川の上流で行われた堤防建設の記録が記されていた。
「この時に水流の位置を変えたんだ」
「……このせいで?」
「おそらくね。地下の水流の位置も変わってしまったんだと思う」
エルザは少しうつむいてから呟いた。
「つまり、人の手が自然の歯車を狂わせたのね。もっと早く気づいていれば……」
悔しさを滲ませるエルザに、ルーシュは静かに言葉を返す。
「人が自然の歯車に大きな影響を与えてしまうことはあるよね。でも、その歯車を元に戻すこともできる。僕らはそのために知識を学んでる」
ルーシュは自分に言い聞かせるように低い声で呟いた。
すると、エルザは勢いよくルーシュを振り返った。
「わたしにも、何かできることないかな?」
その目の奥には強い決意が見えた。
「きっと、大事にしてきた楡の木が倒れて、みんな不安だと思う」
そう言う彼女がいつも以上に逞しく見えた。
***
その日の午後、ルーシュとエルザは教会の集会室に向かった。
すでに村人たちは集まっており、木こりや鍛冶屋、パン職人たちがざわざわと小声で言葉を交わしている。
「本当に大丈夫なのかねぇ」
「守り神が倒れたんだ、良いことじゃないよな……」
そんな声が飛び交う中、グランツ司祭が静かに壇上に立った。
「皆の者。まずは静粛に」
重々しい声が響くと、集まっていた村人たちの視線が一斉に壇上に向いた。
司祭の合図で、ルーシュが一歩前に出る。
「皆さん。今回の大木の倒壊について、調査の結果をご報告します」
ルーシュはまっすぐと前を見据えてそう述べると、直径三十センチほどある大きなガラス瓶を二つテーブルに置いた。それぞれの瓶には薄い木の板が差し込まれ、その上に異なる土が盛られていた。
集まった村人たちは不思議そうにその瓶に目を向けた。
「それでは、まず、ことの経緯をご説明します」
ルーシュの横でエルザが書板を掲げ、地図と記録を示す。
「原因は、長年にわたる地下水の浸食により土壌が過湿状態となり木の根を腐らせたことです。木の根元は指で崩せるほど脆くなっていました。最後の嵐で、それが一気に露わになったのです」
ルーシュは簡潔に説明しながら、古地図を指差した。
「こちらが昔の川の流れです。村の生活に合わせて数十年前に堤防工事が行われ、現在の位置に変えられました。その際に地下の水流の向きが変わり、この場所に水が溜まりやすくなったと推測されます」
説明を聞く村人たちの顔に、驚きと安堵が交錯する。
「こちらを見ていただければ一目瞭然です」
ルーシュは先ほど準備した大きな瓶の後ろに回る。
「右側の瓶には倒木付近の土が、左側の瓶には水はけのよい別の場所の土が入っています。水をかけるとーー」
ルーシュは両方の瓶の上から慎重に水を注ぐ。すると、右側の瓶の土は、左側のものより明らかにゆっくりと水が浸透していった。
そして、左側の瓶の底には、すぐに土を通過した水が溜まり始めた。一方、右側の瓶では、土が水を蓄えてしまっているせいか、瓶底は乾いたままだった。
「ご覧の通り、土壌の状態が非常に悪くなっています。これでは、どんな強い大木でも朽ちてしまうでしょう」
ルーシュは静かに落ち着いた口調で説明した。
「川の流れが変わることなんて……」
「こんなに違うものなのか……」
村人たちの声が重なり始めた。
「沼の鬼火のときと同じです」
ルーシュは静かに続けた。
「見えないからこそ怖い。でも、理由がある。時は流れ、自然は変化します。だからこそ、私たちも知恵をもってそれに向き合わなくてはならないのです」
グランツ司祭がそっと目を細め、ルーシュを見守っていた。
「ヴェルツ正教は、時の流れに耳を傾け、知恵をもって備えることを尊びます。恐れではなく、学びによって未来を拓く――それが私たちの道です」
グランツ司祭の言葉に、村人たちの表情が次第に落ち着いていく。
「では……もう御神木は諦めないといけないということですか?」
ルーシュがしっかりと頷き、続ける。
「残念ながら、倒れた木の根はもう腐ってしまっています。しかし、土壌を整えれば新たな木を育てることができます。水を逃がす溝を掘り、また村の象徴となる大木を育てましょう」
エルザがすかさず補足する。
「領主様にも相談し、了承をいただいています。苗木の手配と、溝掘りの手配も済んでいます」
すると、最初は不安げだった村人たちから、小さな拍手が起こった。
次第にそれは広がり、大きな拍手となって集会室に響きわたる。
「やってみようじゃないか!」
「皆で、新しい村の守り木を育てよう!」
集まった人々の顔に、ほんの少し笑みが戻る。
ルーシュとエルザは顔を見合わせ、ほっと息をついた。
グランツ司祭が最後に言葉を添える。
「時の流れは止められぬ。されどその流れに耳を澄ませば、次なる刻をより良く紡ぐことができる。共に歩みを進めよう」
司祭の言葉に、人々はしっかりと頷いた。
ルーシュは胸の奥で、静かに決意を新たにする。
村の再生へ向けた一歩が、確かに踏み出されたのだった。