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第七話 折れた御神木1

 夏の終わり、グリュンヴァルト村の空には、日ごとに秋の気配が混じりはじめていた。

 午後の陽射しはまだ眩しいものの、吹き抜ける風には涼しさが混ざり、木々の葉の隙間を抜けるたび、ささやくような音を立てていた。


 このところ、空はどこか落ち着かず、雲の流れも早かった。教会の塔に登れば、遠くの山々に重たげな雲が垂れ込め、時折、雷鳴が微かに響く日もある。

 村人たちは畑仕事に追われながらも、空を見上げることが増えていた。



 その日、午後の上級講義が終わると、ルーシュは教会の裏庭で小さな歯車の組み立て作業に取りかかっていた。

 手元の作業台には、真鍮の光沢を帯びた歯車と軸受けが整然と並んでいる。陽が傾きかけた空の下、時折差し込む斜陽がそれらの金属に淡く反射していた。

 夏の盛りを過ぎ、風はどこか乾いた匂いを帯びている。


 教会の鐘楼から伸びる風見鶏が、ギギギ……と軋む音を立てて回った。

 その音にふと気付き、ルーシュは手を止める。掌の上で、小さな歯車が静かに回り続けている。


「……風向きが変わったな」


 つぶやきながら空を見上げると、雲が重たく垂れ込め、ゆっくりと西から東へ流れていた。

 厚みを増した雲の隙間からは、夕陽が筋のように差し込む。その光も、まるで風に押し流されるように揺らいでいる。

 裏庭を囲む木々がざわめき始めた。ざわ、ざわ……と、葉擦れの音が次第に強まっていく。

 いつもなら耳慣れた自然の音。しかし今日は、その律動がどこか落ち着かない。


 ルーシュは組みかけの歯車をそっと箱に収めると、立ち上がりながら庭の端へと歩いた。

 ふと視線を向けた先――村の広場の奥にそびえ立つ大きな(にれ)の木が目に留まる。

 グリュンヴァルト村の象徴ともいえるあの大樹。

 幾世代もの村人たちの暮らしを見守り続けてきた、悠久の証。しかし今、その枝葉が、しなり軋みながら不自然なほど大きく揺れている。


「まさかね……」


 胸の内をざわつかせる、不安のさざ波。

 吹き抜ける風が肌を刺し、額に貼りつく前髪をふわりと揺らす。

 湿った空気がどこか生ぬるく、空を覆う雲の切れ間から、ひときわ鋭い光が射し込んだ。


(嫌な風だ)


 無意識に拳を握る。足元に転がった木屑が、渦を巻くように舞い上がった。耳を澄ますと、遠くの方で低くうなるような音がかすかに響いている。

 ゴォォォ……

 風の唸りが、谷あいに沿って押し寄せてくる。まるで、大きな何かが目覚めたかのような、そんな不気味なうねり。

 ルーシュは息をひそめるようにして空を見上げた。楡の木の枝が、ひときわ大きく揺れ、葉がざわざわと身震いするように鳴っている。


(今夜は、荒れそうだな)


歯車の箱をしっかりと抱え直し、ルーシュは静かに歩き出した。



 その夜、村は激しい嵐に見舞われた。

 風はとうとう唸り声を上げ、屋根を叩く豪雨とともに荒れ狂った。

 教会の塔が軋みを上げ、時を告げる鐘も風に押されてわずかに揺れる。

 窓を打つ雨音は絶え間なく、眠りを誘うどころか、夜を貫く緊張をさらに深めていく。

 

 ルーシュは簡素な寝台の上で目を閉じたまま、耳を澄ませていた。

 鐘楼の軋み、風の唸り、遠くで物が倒れる鈍い音。

 胸の奥にわずかに残っていた悪い予感が、現実のものとなるのを感じながら。


(あまり被害が出なければいいけど……)


 祈りにも似た思いが胸をよぎる。

 やがて嵐は、夜明けとともに次第にその勢いを失い、夜が明ける頃にはようやく風音が遠ざかっていった。


***


 翌朝。

 嵐が去ったばかりの空はまだ雲が流れ、ぬかるんだ大地は水を吸い込み黒々と沈んでいる。

 村の広場はざわめきで満ちていた。


「なんてことだ……」

「楡の木が……」


 村人たちが駆け寄り、口々に声を上げる。

 倒れたのは、広場の奥にそびえていた大楡の木だった。

 枝葉はばらばらに散り、根元から折れた幹は地面に横たわり、見るも無惨な姿をさらしている。

 村の守り神とも呼ばれ、古くから村を見守ってきたその姿が、地面に崩れ伏している光景は、村人たちの胸に深い衝撃を与えていた。


「どうして……あんなに立派だったのに……」

「まさか、村を守っていた神木が倒れるなんて……」

「昔から伝わる守り神が怒っているんだよ……」


 年配の農夫が、震える声でそうつぶやく。

 嵐に傷んだ声で誰かが続ける。


「これはきっと、悪いことの前触れに違いない……」


 不安と迷信が交じり合い、広場にはどこか陰鬱な空気が流れる。

 それでも村人たちは、誰からともなく倒木の元へ集まり、事態を確かめようとしていた。


 そのとき、教会からグランツ司祭、エミール助祭、そしてルーシュが駆けつけた。

 エミール助祭は村人たちを制しながら倒木に歩み寄り、グランツ司祭は静かに合掌したのち、倒れた木の状態をじっと見つめる。


「皆、落ち着きなさい」


 司祭の低く穏やかな声が広場に響く。


「こうして原因を探り、知ることこそが我らの道です。ヴェルツ正教は何より知を尊ぶ。恐れに囚われるな」


 その言葉に、村人たちのさざめきがわずかに収まる。

 それでも、完全に不安が消えることはなかった。


 ルーシュは朽ちた根元に近づき触ってみる。指先はほとんど抵抗なく幹の中へと入っていく。

 幹の皮を剥き、内側を覗いてみると黒く腐食し、虫食いの穴が点在していた。


(やはり……中が腐っていたんだ)


 顔を上げると、グランツ司祭とエミール助祭が頷き合い、村の者たちに説明を始めている。


「これは嵐のせいだけではないでしょう。以前から根腐れが進んでいたのかもしれません」

「万物は年月とともに崩れていくものです。目に見えなかったとしても。いずれにせよ、詳しく調べねばならぬな」


 ルーシュが根元の土壌を確認していると、息を弾ませて近づいてくる足音があった。


「ルーシュ!」


 振り返れば、エルザが家の使用人の目を盗んで駆けつけてきたところだった。

 顔にはまだ、駆け足で来た熱気が残っている。


「広場の噂を聞いて、つい……」


 家庭教師の授業を抜け出してきたのだろう。

 ルーシュは苦笑しながらも、どこかほっとする。


「君まで来たのか。でも、これだけの騒ぎだから無理もないね」


 エルザはルーシュの隣に立ち、倒れた大木を見つめる。

 静かに息を呑みながら、わずかに眉をひそめた。


「これほどの木が倒れるなんて……まるで、時の歯車が狂ったみたい。」


 その横顔に、ルーシュは頷く。


「調べてみる。きっと、何かわかるはずだ」

「わたしも一緒にやらせて。黙って見てるなんてできないもの」


 決意を秘めたエルザの瞳に、ルーシュは静かに微笑む。

 その目はすでに、倒木の根元のさらに奥――原因の真相へと向けられていた。


(理由を知ることができるなら、恐れることはない)


 ヴェルツ正教の教えが、ルーシュの胸の内で確かに息づいていた。


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