第二十六話 背信の代償1
一部、暴力的な描写が含まれます。苦手な方はご注意願います。
三十周年式典での出来事は地方のこの地にも噂が広がってきていた。一人の神学生がヴェルツ正教上層部の非倫理的な研究を摘発し、革命時の大罪についても白日の元に晒されたと言う。
国教であるヴェルツ正教の腐敗である。国内は荒れに荒れると思われたが、それを予想していたかのような国王の迅速な対応により、大きな問題は起きずに済んだ。
「ルーシュ……上手くいったのね……」
私室の窓から空を見上げてエルザは呟いた。
ヴェルツ正教の摘発時に、ラインベルク家が先の革命で行った背信行為が明らかになり、現在ラインベルク家邸宅は王都から来た役人たちに抑えられている。皆、私室に篭るよう指示され、無用な外出は禁止されている。
役人たちは邸宅中の文書類をすべて取り出し、他に関係のある書類がないか確認している。
その日以降、ディートリヒには会えていない。ラインベルク家への処罰は詳しく知らされていないが、領地編成、爵位の格下げ、資産の没収、何が行われても不思議じゃない。
エルザは視線を落とした。ディートリヒの祖父が行ったことは許されることではないが、彼に落ち度があったわけではない。聞いたこともない罪でいきなり罰せられることになり、きっと心身ともに疲弊していることだろう。
後悔はしていないが、罪悪感はある。これから、何があってもディートリヒを支えようと、心の奥深くに決意する。
ラインベルク家を役人が訪れてから十日余りが経った頃、やっと私室から出る許可をもらえ、今後について聞かされた。
エルザが客間に入るとすでにディートリヒがおり、やつれた顔で俯いていた。心配になったが、役人たちの指示で席に着く。
今回の件に対する処罰は以下のようなものだった。
・領土の縮小
・上位貴族による監視
正直、だいぶ温情のある処罰だと感じた。二世代前のことではあるが、王家を騙したのである。国王の立場からしたらもっと酷い仕打ちも頭に浮かんだことであろう。しかし、今回の処分を見るに、罰を与えるというよりも、周りに示しを付けるためしようがなく、と言う感じが滲み出ていた。
今後ラインベルク家の監視役としてつくのは、王都南方を治めるロイエンタール家だと言う。地理的には遠いところに領地がある家だが、前王朝の時代から長く続く歴史ある大貴族である。
大貴族による監視なんて、どんなに肩身の狭い生活になるかと思っていたが、実際のところ『監視』と言うよりも『指導』と言う感じだった。
ロイエンタール家より侍従が数人派遣され、ディートリヒに付きっきりで、領土の財政管理や領民との関係構築など貴族の役割を一から教えていた。
ラインベルク家は今まで代々傍若無人に振る舞い、強制的に重税を課したり、土地を奪ったりしていたため、領民は喜びを禁じ得なかっただろう。それは邸宅内の従者たちも同じようで、処罰を恐れて蒼白な顔をしていた姿は見る影もない。
しかし、一人、ディートリヒだけは異なる。
トントン。
ディートリヒの執務室。返事はないがドアを開ける。
「お疲れさま」
「ん……ああ」
突っ伏していたディートリヒが顔を上げる。
「これ、リラックスできるハーブティーを入れたの」
エルザはディートリヒの机にカップを置く。ふんわり甘い香りが宙を舞う。
ディートリヒは無言で一口飲む。
「あんまり……無理しすぎないようにね」
エルザは優しく声をかける。
ディートリヒはため息をつきつつ愚痴を口にする。
「無理も何も、あいつら言いたい放題言いやがって。地方には地方のやり方があるっつうんだよ」
憤慨するディートリヒの手に優しく手を重ねて諭す。
「でも、ロイエンタール公爵はラインベルクのことを真剣に考えてくれているように感じるわ」
「おまえに何がわかる」
癇に障ったのか、ディートリヒは悪意のこもった目でエルザを睨みつける。エルザは瞬間恐怖を感じ肩を震わせた。
「……ごめんなさい」
そのか細い声にハッとしてディートリヒは眉を下げる。
「あ、ごめん。それより……」
ディートリヒは重ねられた手を握り直し、エルザの顔を見る。
「今晩も部屋に来て」
「……わかったわ」
エルザは自分に出せる最善の笑顔を作り部屋を後にした。
不安なのだろう。このところ毎晩ディートリヒの寝室に来るよう言われていた。もちろんそれも妻の務めである。そのこと自体は問題ないのだが、最近、時にエルザに向けられる悪意に満ちた目に足がすくむときがある。
エルザは毎晩寝る前にかけられる言葉を思い出す。
『エルザ……おまえだけは俺の味方でいてくれ』
(大丈夫。私はずっとそばにいる。彼が安心できるまでそれを伝えるだけ)
エルザは一息吸って自分に言い聞かせた。
ディートリヒは日に日に焦燥していくようだった。今までの暮らしを考えたら当たり前である。
生まれた時からの彼の人生がすべて否定され、毎日息つく暇もない。一人になる時間もほぼないため、従者をいたぶることもできない。
しかし、侍従も寝室まではついてこないため、ディートリヒが二人きりで会える相手はエルザだけとなっていた。その結果、エルザへの当たりは徐々に強くなっていった。
この待遇への怒り、見下される屈辱、祖父への恨み、そのすべてがエルザに向けられるようになっていた。
「ディートリヒ伯爵……くる……しい……」
ディートリヒは負の感情に支配されて、いつの間にかベッドの上でエルザの首を絞めていた。
エルザの声で我に返り、手を離す。
「ご、ごめん。そんなつもりはなかったんだ。本当にごめん」
ディートリヒが頼りない顔で謝る。
エルザは軽く笑って、手をディートリヒの頬に優しく当てる。
「私は大丈夫」
そう、大丈夫。これもすべて受け入れると決めたから。
エルザは大きい身体で子供のような顔をする彼を抱きしめた。




