第六話 青い炎3
翌朝、教会の鐘が七度を数えたころ。
ルーシュは広場に集まる村人たちを前に、ゆっくりと息を吐いた。
(しっかり自分の口で説明しなさい)
昨夜、司祭にそう言われた言葉が胸の奥で響いている。
知識は自分だけが持っていても意味がない。誰かに伝え、役立ててこそ、はじめて意味を持つ。
村人たちは朝早くから広場に集まり、みな一様に険しい顔つきをしていた。
昨夜の「鬼火」の噂がどれほど広がっていたのか、それはこの張り詰めた空気が物語っていた。
「ルーシュ、本当にわかったのかい?」
鍛冶屋の男が腕を組み、厳しい目を向ける。
パン屋の主人は困惑したように眉を寄せ、年配の婦人は胸の前で祈るように手を重ねている。
ルーシュは集まった村人たちを一度見渡してから、一呼吸おいて手に持った小さなガラス瓶を高く掲げた。
昨日の沼で採取した気体が閉じ込められているそれを、陽光にかざしながら、はっきりと声を張る。
「これが、“鬼火”の正体です」
ルーシュの声が静かに、しかしはっきりと広場に響く。
「沼から発生したガスが閉じ込められています。このガスは、群生する植物によって有機物が分解されるときに生まれるのです」
ルーシュが差し出す空っぽに見える瓶を見つめ、村人たちは眉をひそめ訝しむ。
「…とは言っても、何も見えないがなぁ…」
鍛冶屋が首をかしげた。
「それでは、実際に見て確かめいいただきます」
ルーシュは火打石を取り出し、慎重に瓶の口元に火花を散らした。
次の瞬間、瓶の中でふわりと青白い炎が踊る。
村人たちの間から驚きの声が上がる。
「おおっ!」
「燃えた……青く!」
どよめきが広場を駆け巡る。
ルーシュは続けた。
「沼から出るこのガスは、空気より軽くて、風がない夜にたまりやすいんです。たとえば枯れた草や、何かの拍子で火花が起きると――それが燃えて鬼火になるんです」
場の空気が静まり返る。誰もがじっと瓶を見つめ、その光景を脳裏に焼き付けていた。
やがて、ぽつりぽつりと呟きがこぼれる。
「そんな仕組みがあったとは……」
「悪霊でも何でもなかったのか」
パン屋の主人が代表して尋ねた。
「つまり、呪いでも祟りでもなく、自然な現象ということかい?」
ルーシュはしっかりと頷き、村人たちを見渡す。
「はい。湿った土地に起こる自然な現象です。怖がることはありません。ただし――」
言葉を区切り、村人たちの視線を受け止める。
「このガスは燃えやすく危険です。今後は教会で管理し、皆が安心して過ごせるよう努めます」
村人たちは顔を見合わせ、ほっとしたように息をつく者もいれば、まだ半信半疑で腕を組む者もいる。
そのとき、後ろから声が響いた。
「ルーシュの言うとおりだ」
エミール助祭が一歩踏み出し、広場をぐるりと見渡す。
いつもの軽妙な調子は影を潜め、その声は引き締まっていた。
「ヴェルツ正教の教えでは、“知識は恐れを退ける灯火”とされています。学び、知ることで闇に光を灯し、不安を追い払うことができるのです」
その言葉に村人たちの表情が和らいでいく。
「学びがあれば恐れは薄れる。それが正教の教えであり、国の繁栄の礎だ」
エミールの声が広場にしっかりと響きわたる。
「なるほどなあ」
「これで安心だ」
次第に、村人たちの顔に笑みが戻っていった。
誰かが「お祝いにパンを焼くか!」と声を上げると、広場がぱっと明るくなる。
ルーシュは安堵の息をつき、ガラス瓶を懐にしまった。
(昨晩は怒られなかったかな……)
ふと、昨日のエルザが珍しく見せた頼るような視線が脳裏に浮かぶ。
思わず頬が緩むが、すぐに気を引き締めた。
「これで、皆が安心して暮らせるなら」
そう一人呟き、教会へと広場を後にした。
***
教会の回廊を歩いていると司祭に声をかけられた。
「よくやりましたね、ルーシュ」
白髪混じりの眉がわずかに動き、口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「君の観察力と行動力が、村を恐れから救いました。……正教の教えをよく体現してくれましたね」
「ありがとうございます、司祭様。しかし、僕はまだまだ学び途中の身です」
そう答えつつも、ルーシュは心のどこかで、自分自身の好奇心と責任感を自覚していた
司祭は静かに頷き、窓の外の空を見上げる。
「知識とは、ただ本を読むだけで身につくものではありません。自らの手と目で確かめ、学び続ける者こそが、時の流れを読み解く歯車となるのです」
ルーシュは真剣な眼差しで司祭を見つめた。
「知識が恐れを越える……ですね」
「そうです」
司祭は穏やかに微笑む。
「ヴェルツ正教は『時』を神として仰ぎますが、時の流れに背を向けることなく進むために必要なのは、知識と技術。君のような若者が、それを担っていくのですよ」
静かな励ましの言葉が、ルーシュの胸にじんわりと染みわたった。
「はい、司祭様」
ルーシュは深く頭を下げる。
「これからも、学び続けます」
「うむ。では、その意気で。次は鐘楼の滑車だな」
司祭の冗談めいたひと言に、ルーシュは思わずくすりと笑った。
「はい、滑車の歯車も、念入りに点検します。」
書斎にやわらかな笑い声が広がり、ルーシュは心新たに教会の廊下を踏み出した。
***
数日後、ルーシュはエルザを教会の裏手に呼び出した。
「何?こんなところに呼び出して」
不審そうな顔でエルザが尋ねる。
「ふふん。見てよ、これ!」
得意げにルーシュが指さす先には、直径三十センチほどもある大きなガラス瓶が置かれていた。中には濁った水と、しなびた草が詰まっている。
「…何、この汚い瓶。ゴミを集める趣味でもできたの?」
エルザは一歩後ずさり、腕を組んで眉をひそめる。
「違うってば! これはこの前の沼で発生してたガスを、こっちでも作れないかなと思って持ってきたんだよ」
「……ああ、あの青い炎の?それで?」
「ふふっ、もう一週間以上経ったし、そろそろいい頃かなって!きっと特大の青い炎が見られるよ!」
ルーシュは目を輝かせて、まるで子どものように胸を弾ませる。
「そんなうまくいくの?」
半信半疑でエルザが瓶に近寄ろうとしたそのとき――
パンッ!!
背後で何かが弾ける大きな音がした。
驚いて振り返ると、教会上の時計塔の方から聞き慣れた声が響く。
「いてっ!!」
見ると、先ほどの瓶の蓋がきれいに吹き飛び、どこかへ消えていた。
瓶の中に溜まったガスが限界を超え、蓋ごと吹き飛ばしてしまったらしい。
間髪入れず、鐘楼の上から怒声が降ってくる。
「おい!ルーシュ!おまえの仕業か!!」
「やばい、逃げよう!」
ルーシュはエルザの手を取ると、全力で駆け出した。
「ちょっ、ちょっとルーシュ!わたしは関係ないでしょ!」
叫ぶエルザの声が追い風に消え、二人は慌てて教会の影に走り去る。
背後ではエミールの怒りの声がますます大きくなっていく。
秋の澄んだ空に、その怒鳴り声がいつまでも響いていた。