第十六話 鍵の先にあるもの
ルーシュはアウグストと共に、学術技術院の研究棟に来ていた。毎日来ているところなのに、今日はなんだか重苦しい雰囲気を纏っているのは気のせいではないだろう。
ルーシュは先日、鍵と共に図書館で見つけたユリウス司祭の手紙を思い出した。
『ルーシュ・フェルナー殿
君がこの手紙を読む頃、私は既に学術技術院を離れているだろう。
これを読んでいるということは、私の判断が――あるいは覚悟が――功を奏さなかったということでもある。
まず初めに、君にこのような重荷を託す非礼を詫びねばならない。
だが私は、君がこれを受け取るに足る人物だと、心から信じている。
以前、君はこう言った。「皆が信じてきたものを、これからも信じられるために」と。
その言葉を、私はずっと胸に留めている。
私たちが信じてきたもの――それは『時』であり、秩序であり、そして希望だったはずだ。
だが今、その根幹に揺らぎが生じている。
近頃、学術技術院の一部において、不審な研究活動が行われている。
公にされぬまま、一部の聖職者と技術者が、明らかに正統の枠を逸脱した装置を扱っているのだ。
詳細は、袋に同封した『時告げ歯車概要書』を見ていただきたい。
そして、それと共にこの特別資料庫の鍵を君に預けたい。これは代々、我が一族が管理してきたもので、正教と王権の均等を保つまさに『鍵』である。
この正しさの象徴を君に託したい。
どうか、無理せず。
君の身に危険が及ぶことだけは、本意ではない。
それでも、この歯車がどこへ向かうかを君が見届けてくれるなら、それ以上のことは、私には望めない。
――ユリウス・リーデル』
特別資料庫――
それは学術技術院の技術資料庫の奥にある、普段は誰も立ち入らないところ。
過去の実験資料や報告書がまとめてある技術資料庫は、研究員や神学校の四回生は誰でも入ることができ、研究開発の参考として閲覧することができる。
しかし、特別資料庫は別である。
普段は厳重に鍵が掛けており、単独で入室することは許されない。
しかしここに、ユリウス司祭から託されたその鍵がある。
ルーシュはドアの前でゆっくりと深呼吸する。
「開けるよ?」
「うん」
ゆっくりと鍵を差し込み、右に回す。
ガチャリ。
鍵が開いた。ゆっくりドアを開けると、ホコリと紙の匂いが鼻を掠めた。
二人は無言で中に入った。
中には、天井まで届きそうな棚がぎっしりと並び、分厚い紙束が隙間なく詰め込まれていた。
ルーシュとアウグストは左右に分かれて歩き出す。
「なるほどね」
アウグストが棚を眺めながらぽつりと呟いた。
「こりゃ一般人をここに入れられないわけだ」
棚にあるのは、実験技術を兵器に応用した報告書や図面の数々だった。
「ここにある資料が、その『時告げ歯車』に関係あるってことか?」
ルーシュが資料をめくりながら呟いたとき、アウグストの方から声がした。
「おい、こんなのまであるぞ。場違いすぎるな」
「何が?」
振り向いたルーシュに、アウグストは棚の脇を指差した。
そこにあったのは、重厚な装飾が施された巨大な大時計だった。
細やかなガラス細工に煌めく宝石。
そして、随所に埋め込まれた琥珀。
「……レオント家への寄贈品らしい」
アウグストは彫刻を指でなぞりながら言った。
「王家への贈り物だから彫刻も精密だし、見た目だけのために宝石もたくさん散りばめてるんだな。だから琥珀もあるのか」
「どういう意味?」
アウグストは大時計の琥珀を撫でる。
「琥珀は、前王朝が好んで使ってたんだ。王家の紋章や装飾、機械細工にもよく使われてた。『光を導く石』って呼ばれてたらしい」
「光を……導く?」
「そう。あの家系は代々、陽光を閉じ込めたような金髪で、光そのものと扱われていた。だから、琥珀は『その光』を『正しい道へ導くもの』って考えられてたそうだ」
「じゃあ、それで時計にも?」
「らしいな。歯車の飾りや、儀式用の懐中時計なんかに練り込まれてたって話もある。摩擦や静電気を抑えるって実用面もあったみたいだけど……たぶん象徴の意味の方が大きかったんだろうな」
ルーシュは、ポケットの中のペンダントに手を当てた。
「……でも、今の教会では、琥珀をほとんど見かけない」
「当然だ。王朝が倒れた後、ヴェルツ正教は琥珀を『過去の象徴』として意図的に排除した。建物から、装飾から、技術から、すべて」
(ああ、だから人前に出すなって…)
ルーシュの指先が、ペンダントを強く握りしめた。
すると、アウグストが急に大声を出した。
「あ、もったいない!」
「今度はなんだよ?」
ルーシュが身体を向ける。
「ここ見てみろよ。この琥珀、複雑な王家の紋章が繊細に彫られているのに一箇所外れてる。相当時間かけただろうになぁ」
アウグストは琥珀の外れた穴を指差しながら残念そうに見つめる。
ペンダントを掴むルーシュの手が汗ばんだ。
汗が出るのに、背中はどんどん冷えていく。
(人に見せるなと言われ続けた琥珀のペンダント……いや、まさかね……まさかだけど…)
ルーシュの足はその大時計に向かっていた。
その血の気の引いた顔にアウグストが驚いて声をかける。
「ルーシュ、どうした?」
ルーシュの耳にはもはやその声は届いていなかった。
それよりも、確かめたかった。
ルーシュはポケットからペンダントを取り出して、その表面が傷つけられた琥珀をゆっくりと穴に持っていく。手が震えて、上手く合わせられない。
アウグストはその様子を静かに見守る。
やっと穴に入れると――
カチッ
琥珀のペンダントがその穴にピタリとハマった。まるで元からそこにあったかのように。
「……なんで」
胸の内で、必死に問いかけた。
(僕は、何者なんだ……)
ルーシュは高鳴った鼓動を収めるために胸に手を当てて深呼吸をした。確か前王朝の崩壊時、国王と王太子は処刑されていたはず。
「……エリーゼ王女」
アウグストが徐に口を開いた。
ルーシュがアウグストを振り向くと、アウグストは大時計を見ながら答えた。
「前王朝王家の者で消息が不明なのは、フェルディナント・レオント国王の娘、エリーゼ王女ただ一人」
そう言ってアウグストはルーシュに視線を移した。
「それが知りたかったんだろ?」
「……どうして?」
「俺、ロイエンタール家の次男だぞ?英才教育受けてるからな。国の歴史ぐらい頭に入ってる」
そう言って優しく笑った。その中に少し安堵が含まれているような気がしたのは気のせいだろうか。
「じゃあ、もしかしたら僕の母親は……」
「まあ、その可能性もあるってことだな」
「驚かないの?」
「これでも結構驚いてる」
アウグストは両手を広げる。
「まあでも、手癖の悪い臣下が盗んだのかもしれないし、革命後の片付け中に誰かが拾ったのかもしれないし……」
アウグストは方向転換してドアの方に向かった。
「帰るのかよ?」
「んー、ここに何かヒントがあるのかどうかはわからないけど、この量の資料を今全部確認するのは無理だろ?日を改めよう」
「……まあ…そうだな」
ルーシュもドアに向かう。
部屋を出る前にアウグストが振り返った。
「そうだ。事実はわからないけど、琥珀の件は誰にも言うなよ。王胤抹殺令のこと知らないわけじゃないよな?」
王胤抹殺令――
前王朝の血族は見つけ次第処刑する、という革命後に制定された勅令。
ルーシュの背筋に冷たい汗が流れた。それと呼応するように静寂の中、静かにカビ臭い風が通り過ぎた。




