第十五話 託された思索
ユリウス司祭に旧校舎のことを話しに行ってから二週間が経った。今まで見たことのないあの張り詰めた表情が頭から離れない。彼を慕うルーシュに向けられる暖かい眼差しや、研究資料に目を通す厳しい眼差しとも違う、重い影が潜んだあの目。
あの日からユリウス司祭は突然姿を消してしまったのである。
ユリウス司祭の元を訪れた次の日、妙な胸騒ぎがして再度ユリウス司祭の部屋を訪れた。しかし、そこには別の司祭と数人の研究員がいた。
ユリウス司祭の居場所を尋ねたところ、急の辞令で遠方の教会に赴任することになったという。それで部屋を片付けていると。
「そんなことあるか?」とも思ったが、学術技術院の人事について詳しいわけでもないので納得するしか他なかった。
あの時、司祭は『任せてほしい』と言った。だから、その言葉を信じるしかない、と自分に言い聞かせて日々過ごしていた。
今日もいつも通り研究室に行き、実験の準備をしていた。
「ルーシュ、経過報告書取り行くぞ」
「ああ」
アウグストとともに司祭室のある階に向かう。
学術技術院で研究していると言ってもルーシュたちはまだ神学校の生徒である。研究の進捗や課題などは、担当の研究員や司祭などと定期報告会で情報共有を行っているが、それとは別に研究の成果や個人的な考察などを定期的にまとめて、経過報告書として担当司祭に提出している。
トントン。
「どうぞ」
「失礼します。経過報告書を取りに来ました」
「アウグストくんとルーシュくんですね。こちらをどうぞ。二人ともよく検討されていますね。引き続きよろしくお願いします」
二人は報告書を受け取り、軽く頭を下げた。
振り向きかけたその時、再度声をかけられた。
「あ、待って。ルーシュくんにはこれもありました」
そう言って、紙の束をもう一つ差し出された。
「ユリウス司祭から預かっていたんです。君は個人的にも研究しているようですね」
担当司祭は感心した顔で頷いた。
「少し覗かせてもらいましたが、なかなか面白かったです。ぜひ今度は僕にも見せてください」
それはルーシュが個人的に行っていた振り子の紐の素材に関する実験記録だった。振り子の紐は、温度によって長さが変化する。そして、その長さ変化により振り子の周期は微妙にずれてきてしまう。それを解消するために、さまざまな素材の膨張を評価したり、素材を組み合わせることでその膨張を相殺できないか試したりしたものを記録しまとめていた。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
ルーシュはもう一度頭を下げてから部屋を出た。
「本当、おまえ好きだね〜。課題以外にも個人的に研究するなんて」
研究室に向かいながらアウグストが口を開く。
「むしろ、起きてる時間はすべて研究に充てたいくらいだ」
「……まじかよ」
うんざりした顔でこちらを見てくるが、アウグストも人のことを言えないくらいに研究室に篭りっぱなしである。
「ルーシュ、さっきの紐の実験結果見せてよ」
研究室に着くなりアウグストが声をかけてきた。
「ん」
ルーシュが差し出すと、熱心に目を通す。結局同類なんだよな、とその横顔を見てルーシュもニヤつく。
しばらくすると、アウグストが紙片を差し出してきた。
「何、これ?」
「ここに挟まってたぞ。ユリウス司祭からのコメントだな」
ルーシュも受け取って内容を見る。
『以下が参考になるでしょう。確認するように。
312、149、538
頭を使って、数字に忠実に。君なら辿り着けるはず』
「『頭を使って』ってそんな使ってない内容だったか?」
ルーシュは少し不満そうに膨れる。
「考察も詳しくされていたし、そんな印象は受けなかったけどな〜。これ、図書館の登録番号だろ?とりあえず、実験終わりに見に行こう」
「……そうだな」
ルーシュは納得いかない顔で頷いた。
今日の実験が終わり、二人は図書館に向かった。
「145、145.……あった」
「312と538も見つけたぞ〜」
二人は図書館のテーブルの上に三冊を並べた。
――『Silber: Reaktionen und Anwendungen(銀:反応と応用)』
――『Zink und seine Verbindungen(亜鉛とその化合物)』
――『Fluor und das Unsichtbare(フッ素と不可視の世界)』
「銀と亜鉛とフッ素……。これが使えるってこと?」
ルーシュは嘘だろ、という顔をアウグストに向けた。
それもそのはず。振り子の紐に使う素材は、強度やコストの面から基本的に鉄や鋼である。銀なんて高価なものは使えないし、フッ素はそもそも気体である。
アウグストも同意するように苦笑いする。
「でも、ユリウス司祭が言うなら、何かしらあると思うけどな〜」
「……まあ……だよな」
ルーシュは訝しみながらも、三冊の本を借りて寮に戻った。
ルーシュはベッドに横になりながら、ぼーっと机の上を眺める。机の上には図書館から借りた三冊が積み上げられていた。
「『君なら辿り着けるはず』……何に?」
ルーシュは仰向けに寝返りながら頭の後ろで両手を組んだ。
(何だかゴールを知ってるような言い方だよな……)
「『頭を使って、数字に忠実に』か。頭……Silber(銀)、Zink(亜鉛) 、Fluor(フッ素)……SZF…………だからなんだ?」
ルーシュはため息をついて眠りについた。
***
次の日も実験終わりに二人は図書館を訪れた。
「で、この三冊はどうだった?」
「なかなか面白かった。けど、今の実験に役立つとは思えなかったな」
「一晩で全部読んだのかよ」
アウグストが呆れた顔をする。
「それよりちょっと気になることがあって」
ルーシュは昨晩引っかかった内容をアウグストに伝えた。
「確かにな。『頭を使って、数字に忠実に』って、おまえが言った通り、頭文字を数字にってことかもよ?」
「SZF?ZはZwei(2)、FはFünf(5)だとして、SはSechs(6)かSieben(7)のどっちかってことか?」
「だなー。もしくは、Acht(8)」
「そっちか。AgのA。それは……あり得るな。ユリウス司祭なら」
ルーシュは化学分野にも精通しており、普段から元素記号を使うユリウス司祭を思い浮かべる。
「となると、825か……?」
ルーシュは本棚に目を向けて唸る。この図書館の登録番号に800番台はない。
アウグストもそれに気づいてるようで、紙片を持ち上げ考え込んでいた。
少ししてアウグストが紙片を指差し口を開いた。
「ここ見て。この登録番号の記載、若い順じゃないのが気になってたんだけど、これが『数字に忠実に』の意味かも」
「なるほど。てことは、825じゃなくて、285ってことか」
二人は速足で285の本棚に向かった。
そこには、やや古びた一冊の本があった。題名は『Mechanische Zeitgeber: Ihre Geschichte und Theorie Teil2』――『機械式タイムキーパー:その歴史と理論下巻』。
隣を見るが上巻はないらしい。
ルーシュは恐る恐る該当の本を取り出した。中を開いてみると、間に挟まれていた包みがふわりと滑り落ちた。その包みは紙で簡易的に作られたもので、ユリウス司祭が用いていた印章で封されていた。
「これは……」
ルーシュは包みを床から拾い上げる。紙にしては少し重みを感じた。封を開け、掌の上で包みを逆さにしてみると、中から鈍色に光る鍵が一つ滑り落ちた。
二人ともその光に目を奪われ息を呑んだ。その鍵に刻まれた小さな歯車の意匠が、沈黙の中で仄かに輝いているようだった。




