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第五話 青い炎2

 夕暮れの村道は、茜色から徐々に藍色へと染まりつつあった。暮れなずむ空の下、ルーシュは領主の屋敷へ続く小道を静かに歩いていく。遠くで小鳥が一声鳴き、すぐに夜の静けさに飲み込まれた。

 領主邸の前に差しかかると、すでに屋敷の灯りがともり始めていた。立派な石造りの門越しに見える屋敷は、夕闇のなかでもその威厳を失わない。高くそびえる屋根、磨き込まれた扉の金具が微かに月明かりを弾いていた。


 門の脇に身を潜め、ルーシュはあたりを見渡す。屋敷の使用人たちは、ちょうど夕食の支度に追われているようだった。

 窓辺のカーテンの隙間から漏れる灯りの向こうで、忙しなく人影が動いているのが見える。


 しばらくすると、塀の脇に設けられた細い裏門が、ほんのわずかに軋んで開いた。そこから顔を覗かせたのは、案の定、エルザだった。


「待たせたかしら?」


 月明かりのもとで微笑むその顔には、どこか冒険前の高揚感が漂っている。


「さすがだね。使用人たちが気づく気配もなかったよ。」


 ルーシュが感心したように言うと、エルザは得意げに肩をすくめる。


「幼いころからのお手の物よ。何度この屋敷を抜け出したと思ってるの?」

「数えきれない、かな。」


 ルーシュは苦笑しながらも、その眼差しはどこか曇りがちだった。


「……でも、本当に大丈夫?君に何かあったら嫌だよ」


 その問いかけに、エルザはふっと軽やかに笑う。


「心配性ね。一人じゃ不安なくせに」


 そう言いながら、エルザは夜風を受けて一歩踏み出した。栗色の髪がさらりと揺れる。まるで先頭に立つ隊長のような気負いのなさがあった。

 観念したようにルーシュは小さくため息をつき、その後ろを追いかける。


 二人は並んで夜の村道を歩き出した。

 家々の窓には橙色の灯りがともり、食卓を囲む家族たちの笑い声がほのかに流れてくる。だが二人の進む先には、ひたひたと静かな闇が迫っていた。


 歩きながら、ルーシュはふと懐に忍ばせたペンダントに触れる。琥珀のぬくもりが冷えた指先にじんわりと伝わる。


(まったく……こんな夜にまで持ってくるとは)


 自嘲めいた思いが胸をかすめるが、不思議と手放す気にはなれなかった。


(エルザの言うとおり、不安だったのかもしれないな)


 幼馴染の鋭い観察眼には、昔から敵わない。そう思うと自然に頬が緩んだ。



 やがて、村はずれの小道に差しかかる。

 夜の森が影を深め、月明かりを受けた道がかすかに白く浮かび上がっている。

 風がふたりの間をそっと抜けていくたび、秋の匂いが鼻をかすめた。熟れた果実のかすかな残り香と、冷え始めた土の匂いが混ざり合っている。


 しばらく歩くと、遠くから小川のせせらぎが聞こえてきた。

 その音を追うように進むと、沼地へ続く道が姿を現す。湿った土の匂いとともに、周囲の空気がひんやりと肌に触れる。


「そろそろだ。足元に気をつけて」


 ルーシュが静かに声をかけると、エルザは軽く頷いて足取りを緩めた。

 ふたりはそのまま言葉少なに歩みを進める。



「風はないね。」


 エルザが小声で言う。その声は夜気の中で静かに消えていった。


「うん。静かな夜こそ、あの火が現れるって言ってた。」


 ルーシュは真剣な顔で頷く。その目はもう、ただ好奇心だけに向けられていた。


 エルザはその横顔をちらりと見て、小さく吐息を漏らす。ふだんと変わらぬように背筋を伸ばすが、無意識に指先がスカートの布地をつまんでしまう。


 沼地が近づくにつれ、空気が徐々に重たくなる。空に星はなく、雲の切れ間から差し込む月光もぼんやりと滲むだけ。遠くからかすかに水鳥の鳴き声が聞こえたが、それもすぐに闇に溶けた。

 目の前に広がる沼は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。水面は鏡のように光を返しつつも、不自然なほど静まり返っている。

 周囲の樹々は黒い影となり、夜空に向けて複雑な枝を伸ばしていた。生暖かい湿気が頬を撫で、腐葉土の甘く澱んだ匂いが鼻をつく。


 エルザはそっと歩幅を狭め、ルーシュのすぐ後ろを歩く。不気味な雰囲気にスカートの裾を持ち上げる指がわずかに強張る。


「ここだ」


 ルーシュが立ち止まり、沼の縁に膝をつき、じっと周囲を観察する。

 沼には菱形の大きな葉が群生し、水面には薄く油膜のようなものが張っていた。

 ルーシュはその葉を一枚摘み上げ、光にかざした。


(これって確か…)


そのときエルザが後ろから低く囁いた。


 「見て」


 ふだんの軽やかな響きとは違う、抑えた静音だった。彼女の指が差す先、水面にふわりと青白い火の玉が浮かび上がる。


 それはまるで息をしているかのように揺れ、しばらく漂ったかと思うとふっと消え、また別の場所でぽうっと灯る。


「まるで……生き物みたい。」


 じっと目を凝らすと、水面にぷつぷつと泡が立ち上がっているのが見えた。


「何か......住んでるんじゃないでしょうね」


 そう言ってエルザがルーシュの後ろに一歩下がった。


「ふふ。生き物の仕業じゃないよ。これはおそらく…」


 そう言ってルーシュは懐から小さなガラス瓶を取り出して、沼の泡にそっとかざした。


 「もう少し……」


 低く呟きながら、泡がふわりと水面に浮き上がる瞬間を待つ。

 ひときわ大きな泡が泥の中からふっと弾けた。ルーシュはすかさず瓶を差し出し、泡を捕らえる。


 「下がって、エルザ。」


 小声で促され、エルザは数歩下がった。

 エルザが安全な距離まで離れたのを確認してから、ルーシュは火打石を取り出し、瓶の口元に火花を散らした。すると――

 ぽっ。

 小さな青白い炎が、瓶の中で一瞬だけ揺れた。


「どう言うこと?」

「ほら、あそこに群生してる植物あるでしょ?あれはヒシって言うんだけど、ああいう草が群生しているところは土の中の酸素が少なくてさ。水中の有機物が分解されてガスが生成されやすいんだ。そのガスに何らかの原因で熱が加わるとーー」


ルーシュはガラス瓶を掲げて続ける。


「さっきみたいな青い炎ができるってわけ」


エルザは目を見開いて、先ほど炎が見えた空のガラス瓶を覗き込む。


「すごい。目に見えないのに、この中でそんなことが起きてるんだ」

「目に見えないからこそ恐れて不安になる。でも、それを取り除く方法はある。原因を見つければ、むやみに恐れる必要なんてないんだ」


 ルーシュは水面に浮かぶ気泡を見つめながら静かにそう語った。そして、エルザを振り返りニッと微笑んで続けた。


「どんな現象にも理由がある。たとえそれが、夜の沼に灯る青い炎でもね。

さ、じゃあこれを持ち帰ってみんなに説明しよう。きっとみんなも自分の目で確かめれば安心する」

 ルーシュは瓶を懐にしまい、立ち上がった。


「そうね」


 エルザも小さく頷き、二人は闇の沼を後にした。


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