第十一話 正義の重み2
息子のユリウスを連れて、よくここを訪れた。
我が家の系譜に連なる者のみに託される重い扉。ここにはヴェルツ正教が積み上げてきた歴史がある。
それは誇りであり、時に呪いでもあった。若い頃、私はこの役目に胸を張っていた。
誰よりも正教を信じ、誰よりも技術の責を重んじていた。技術は人を照らす光だ。だが、光が強すぎれば、人の目を灼く。だからこそ、制御が要る。
それが我らの務めだった。……あの日までは。
上層部から密使が来た。院長直属の者だった。
「閲覧申請だ」と、一枚の紙を突きつけられた。
そこに王の名はなかった。代わりに並んでいたのは、聖務長官、大教皇、そして研究院の幹部たちの署名。
この者たちに資料を開示せよ――それだけの命令。
私は拒んだ。それが受け継がれてきた責務であるから。これまで通りの手続きを通すべきだと、諭した。
だが彼らは言った。
「おまえの子は神学校にいると聞いた」
「君が誠実であることを、我々は信じている」
……案に脅されたのである。
私は迷った。自らの誇りと家族の安泰を天秤にかけて。
そして、負けたのである。己の正しさに蓋をし、自分の身を優先したのである。
それから、まもなく混乱が起きた。暴動。死者。泣き叫ぶ声。私は自室の窓から、遠くの鐘楼に立ち上る煙を見ていた。
これは、私の未熟さが招いた結果なのか。そう考えるたびに、胸の奥が焼けた。
……私は、なんてことを……。
結局、自分は引き継がれたこの命を軽んじたのである。信仰心という鎧を盾に。
今、私の目の前に息子がいる。清らかで、まっすぐな目をしている。
どうか、この子が私のようにはなりませんように。
私はこの手で、自分自身を裏切った。だからこそ、この言葉だけは、残しておきたかった。
「心は、弱い。けれど……おまえは、正しくあれ」
――それが、せめてもの祈りだった。
***
「心は弱い。おまえは正しくあれ」
父の伝えたかったことは、こういうことだったのだろうな。
信者も聖職者も、そして自分自身も、人の心は弱い。何かを信じたい気持ちも、その信仰心を失いたくない気持ちも理解できる。生きることは不安に満ちている。誰もがその中で、拠り所を求めている。
――だが、十代の青年が言ったのだ。
「皆が信じてきたものを、これからも信じられるように」
その真っ直ぐなまなざしで、皆の不安を受け止めようとしている。
ヴェルツ正教は布教において他の信仰者を弾圧するようなことはしてこなかった。もともと迫害から逃げてきた者たちで作られたヴェルツ正教は、『他の信仰も受け入れる』という姿勢を一貫して取ってきた。
だからと言って、ヴェルツ正教上層部に異を唱えて無事でいられると思えるほど楽観的でもない。
(学術技術院院長と話した感じでは……深入りすると命も危ない……か)
わかっている。だから、あの場では承諾するしかなかった。しかし、あの覚悟を決めた瞳。このまま放っておけば彼は行動を起こすだろう。
ユリウスはしばらく静かに天井を眺めた。
生まれたときから生活の一部だったヴェルツ正教。特資管理官という立場を不便と感じたこともあったが、正教そのものを疑ったことはなかった。
自分自身もここで学び、人間関係を築き、日々を過ごしてきたのだ。まだ――信じたい。堂々と民にすべてを見せることができる正教であることを。
ユリウスは一度目を閉じた後、意を決して筆を取った。
机の上に一通の封書を出す。宛名は、ルーシュ・フェルナー。ゆっくりとペンを取ると、躊躇いなく筆を進めた。
(この手紙が彼の手に渡る日が、来ないことを祈ろう……)
手が震えることはなかった。
かつて、父に課せられたもの――それをただ受け継いできた自分。だが、今、ここで、父に託された『自分の正しさ』を選ぶ。
すべてを書き終えたユリウスは、封筒に蝋を垂らし、自らの印章で封を閉じた。
立ち上がり、外套を手に取る。廊下に出ると、静かな足音だけが響く。
行き先は一つ。教会上層部が管理する主塔の会議室。
外は、冷たい夜風が吹いていた。見上げれば、鈍く濁った夜空。
かつて振り子時計の下で誓った『時への忠誠』が、今、自らの命を測ろうとしている。
(怖くはない)
自分は、ルーシュの言葉でもう一度、『信じる』ことを思い出したのだ。
重い扉の前で立ち止まり、ユリウスは静かに拳を握った。
そして、扉をノックする。




