第九話 正しさの行方
暖かな光に包まれている。ぼんやりとしていた景色が次第に輪郭を取り戻し、焦点が合ってくる。
(……ああ、ここは、あの村の教会だ)
石造りの壁に、ところどころ木の柱が混ざる温もりのある建物。ステンドグラスを透して差し込む光が床に散らばり、色とりどりの模様を描いている。
(……懐かしいな)
ふと、自分が聖堂の中央に立っていることに気がついた。両腕を上げるようにして何かを抱きしめている。胸元にやわらかな体温が伝わる。視線を落とすと、そこには淡い栗色の髪があった。
(……あの時か)
せっかくだから、もう少しこうしていようか。胸いっぱいに懐かしさと温もりを感じながら、満足するまで抱きしめていよう。……そう思った瞬間、腕の中からそのぬくもりがふっと消えた。
(あれ……どこに?)
慌てて探るように手を伸ばす。けれど指先は空を切るばかりだった。
そのまま伸ばした手が、現実の天井へと突き出されていた。
「……はぁ」
ため息をつき、手を額に乗せる。
先日のパーティー以来、エルザの夢を見ることが増えた。未練がましいというか、情けないというか。
目を開けると、窓から差し込む朝の光がまぶしく目に刺さり、思わず顔をしかめる。
「あれが……ラインベルク家の現当主か」
エルザの縁談が決まったあと、彼女がラインベルク家へ向かうときは、屋敷から使いの馬車が迎えに来たため、あの男の顔を見るのはあの場が初めてだった。
どこかいけすかない印象を受けたが、それが私情のせいだと言われれば否定はできない。……いや、それとも。
妻として並ぶエルザの姿を受け入れられずにいるだけなのかもしれない。
「ああもう!」
拳を振り下ろし、ベッドを叩く。木製のベッドがガタリと音を立てた。
(こんなにも未練がましいなんて……思わなかったな)
大きなため息が、胸の奥からこぼれた。
とりあえず気を紛らわせようと、ベッドを離れ、溜めておいた水で顔を洗う。ひんやりとした感触が肌を刺し、ぼんやりしていた頭がわずかに冴える。
顔を上げると、銀板に映る自分の顔があった。どこか浮かない表情だ。
(……何を尻込みしてるんだよ)
歯噛みするように自分を責める。頭をよぎるのは、真っ直ぐ見つめるエルザの瞳。
(自分を欺いてる場合じゃないだろ)
歯車の噛み合わせは、ほんのわずかなズレで全体を狂わせる。動きが止まるか、あるいは望まぬ方へと進んでしまう。どの歯車にも、本来噛み合うべき位置があるのだ。
ならば、自分もそうだ。まずは中を覗いて、狂いを正し、本来の位置に戻せばいい。
そうやって今までも歩いてきたはずだ。
「……よし」
小さく息を吐き、ルーシュは両手で自らの頬を叩く。もう一度銀板を見ると、そこには迷いを振り払った眼差しが映っていた。
静かに拳を握りしめる。向かうべき先は定まっている。
***
ルーシュは学術技術院の研究棟に来ていた。今日は毎日来ている研究室ではなく、司祭の私室が並ぶ上階に。慣れ親しんだ建物なのに、なんだか重苦しい空気を感じ、掌に汗がじわりと滲む。
ルーシュはある部屋の前で止まり深呼吸をした。
「よし」
そう小さく呟き、自身を奮い立たせる。
ルーシュがノックをすると中に入るよう声をかけられた。
「失礼します」
室内に入ると、ユリウス司祭は書類から顔を上げた。
「どうしましたか?何か研究で行き詰まっていることでも?」
いつも通り穏やかな声で話しかけられる。
「いえ……研究のことではなく。少しご相談がありまして……」
ルーシュは、あらかじめ何度も心の中で組み立てておいた言葉を口にする。
「先日、旧校舎を訪れた際に……ヴェルツ正教の聖職者たちが怪しい巨大な装置を扱っているところを見てしまって……」
何度も繰り返し反芻した言葉だったはずなのに、語尾が掠れて小さくなってしまった。
ユリウス司祭はじっとルーシュを見つめていた。ルーシュの心中を覗くように。
ルーシュはその厳しい視線に身震いした。言ってはいけないことを言ってしまったのではないかと、視線を落とす。
しばし沈黙が続き、耐えられずルーシュが口を開けかけた瞬間、ユリウス司祭が声を発した。
「わかりました。それで、君はどうしたくてここに?」
問いかけは静かだったが、その奥には鋭さがあった。ルーシュは震える手を握りしめて声を絞り出す。
「何か……もし、隠れて行わなければならないことをしているならば……僕は止めたいです。皆が信じてきたものをこれからも信じられるために」
ユリウス司祭の目を見た。真っ直ぐに。
ユリウス司祭が先に目を逸らした。そしてゆっくりと口を開いた。
「……私に任せてもらってもいいですか?君の言葉は、確かに受け取りました」
何か苦しそうな表情をしているように感じた。しかし、司祭にそう言われて余計なことをすることもできない。
「……わかりました」
ルーシュは静かに礼をして部屋を出た。その目の前には先の見えない廊下が続いていた。




