第八話 月下の再会
エルザは微笑みを浮かべ、夫を見送った。
昨夜の社交パーティーの後、伯爵と従者らと共に、王都の宿に一泊していた。
今夜、ディートリヒは古くからの付き合いがある伯爵家との会食に出席している。政務の一環であり、妻の帯同は必要なかった。
エルザは静かに出かける準備をした。
昨日ルーシュに言伝を渡していたのだ。本日七時に王都にある小さな教会、クロスターフェン礼拝堂に来るように、と。
「エルザ様、どちらへ?」
扉に手をかけたところで、控えていた従者に声をかけられる。
「……ええ。王都の街並みを少し見ておきたくて」
「ですが、夜分ですし、明日にされたほうが……」
「ガス灯の光がきらめく通りを、一度見てみたかったの。すぐに戻りますから」
言葉を選びつつも、引き留められぬよう一歩踏み出す。
扉を出た瞬間、夜風が頬をなでた。群青色の空には丸い月が静かに昇り、瓦屋根の上を淡く照らしている。
「狭い空」
エルザは独りごちて歩き出した。
クロスターフェン礼拝堂は小さいながらも由緒ある教会だ。王都では祭りでなくとも、夜の教会に足を運ぶ者は多く、灯りの下に人の気配がぽつりぽつりと集まっていた。
人気のない側壁に寄りかかると昔のことをふと思い出した。
(……確か昔もこんなことあったな)
収穫祭の夜。広場には音楽と笑い声が満ちていた。
当時九歳だったエルザは、広場の片隅でルーシュを探していた。
「あれ?どこ行ったんだろ?あとで特別な秘密を教えてくれるって言ってたのに」
すでに月が顔を出し、蝋燭の明かりがあるものの、人の顔は見えづらくなっていた。
少し不安になり、家に帰ろうと思っていたとき、背後から肩を叩かれた。驚きのあまり、飛び上がりそうになった。
振り向くとそこには、膝をつき手を差し出すルーシュがいた。
「お嬢さん、一曲いかがですか?」
あのときの彼の表情は、冗談めかしていながらも、どこか照れくさそうで。驚きよりも、安心感で心が満たされ、自然と手を差し出していた。
ルーシュに手を引かれ、大人たちがダンスをしている輪に入り込む。
「ねえ、ちょっと!ダンスなんてできるの?」
エルザは小声でルーシュに尋ねる。
領主の娘であるエルザはもちろんダンスも習っており、一通りのことはできるが、ルーシュがそんなことをしているところは見たことがない。
「大丈夫。任せて」
ルーシュは胸を張るようにして、しなやかにポーズを取る。
「ほら、エルザもこっち来て手を繋いで」
そのまっすぐな誘いに、思わず促されるまま定位置に立つ。手を繋ぐ距離が、いつもより近く感じられて、胸の内がふわりと波立つ。
音楽を聴きながら、少しの間二人でステップを踏んだ。ぎこちなさは否めないものの、それでも不思議と楽しかった。
踊り終えたふたりは、輪を離れ、広場の隅に腰を下ろした。
「あー、恥ずかしかった」
ルーシュは空を見上げてはにかんだ。
「よくその程度で踊ろうと思ったわね?」
エルザはつい、少し意地悪に言ってしまった。けれど、ルーシュはこっちを見て微笑んだ。
「僕も隣に立ってみたかったんだよね。エルザが習ってるの知ってたから」
「そっか」
少し胸が疼いたけど、特に気にもせず簡単な返事で済ませた。
それ以降、大きくなるにつれてなんとなく恥ずかしくなり、一緒に踊ったのはそれきりだった。
そんなことを思い出していると、背後から声をかけられた。
「エルザ」
その声に、静かに振り返る。
「ルーシュ。久しぶり」
「うん。久しぶり。こんな時間に大丈夫?」
「うん、今日は大丈夫」
二人の間に風が流れ、ただ、時が過ぎる。会えなかった時間を表すかのように。
二人は並んで、礼拝堂の壁に寄りかかる。
「この間、気になってたの」
「何が?」
「あなたが……なんか悩んでる気がして」
ルーシュは驚いた顔をした後、眉尻を下げて微笑んだ。これは『参ったな』って顔。
「何かあるなら聞くよ?」
「……うん」
ルーシュの視線が宙を舞った後に地面に降りた。そして細かく動かす指先をじっと見つめる。これは迷っているときの癖。
「ルーシュ」
エルザは静かに名前を呼び、ルーシュのその指先に触れた。
「……無理にとは言わないけど……」
力強くルーシュの目を見る。私の気持ちが伝わるように。
「私は、あなたの『時間』の中に、もういないの?」
ルーシュが真っ直ぐこっちを見る。瞳が揺れている。きっと決断できずにいる。エルザは触れた指先を握りしめた。
徐にルーシュが口を開いた。
「……教会で……何か、正しくないことが行われている。僕は、それを止めたい」
予想外の言葉に驚いた。でも、ルーシュの目からは覚悟の色が見えた。真っ直ぐで慎重で正直な昔から見てきたルーシュの目。
「わかった」
そう答えて踵を返す。ルーシュが覚悟を決めたなら、私もやれることをやるだけ。一歩踏み出すとルーシュに呼び止められた。
「……なに?」
まだ何かあるのかと振り返る。すると、またまた予想外の言葉が聞こえてきた。
「いや、この前言いそびれたから。ドレス姿……綺麗だったよ」
彼は少し照れたように腕で顔を隠しながらそう言った。成長したのは私だけじゃないんだな、そう思い自然と微笑んでいた。
「そんなことも言えるようになったのね」
夜の静寂が、ふたりの言葉を深く包み込み、遠く鐘楼の針が静かに時を刻んでいた。




