第四話 幽霊より怖いもの1
ルーシュは、先日目にした旧校舎での異様な光景が、どうしても頭から離れなかった。
膝の上には『制御工学概論』の厚い教本が開かれているが、視線はそのページのどこにも焦点を結んでいなかった。
「ルーシュ、少しいいか?」
いつもの飄々とした口調でアウグストが声をかけてきた。
「……なに?」
思考の渦に沈んでいたルーシュは、わずかに間を置いて顔を上げた。
「ちょっと面白い話があって。友人の部屋で夜になるとベッドが揺れるんだって。他のものは何も揺れないのに」
アウグストが怪談めかして小声で言う。
「ベッドだけ…」
「気になるだろ?一緒に観に行こうぜ」
肩をすくめて笑うアウグストに引っ張られるように、ルーシュは立ち上がった。
二人並んで廊下を歩く。
「にしても、君は無駄に顔が広いな」
「無駄じゃない。いいとこの出の俺にとっては人脈作りも大事な仕事なのよ」
「そのいいとこの出の貴族様は神学校なんて来てないで、もっと政治や経済とかを学んだ方がいいんじゃないか?」
「まあ、神学校って言っても、今や最先端の科学や工学も学べる場だし。次男ってことで多少自由にやらせてもらってる」
アウグストが肩をすくめて笑う。
その調子に乗じて、ルーシュは心にひっかかっていた疑問をふと思い出し、何気ないふりで口を開いた。
「……そういえば、旧校舎って今も使われてるか知ってる?」
「旧校舎?もう立ち入り禁止だろ?来年には取り壊されるって聞いてるけど」
「……そうだよね」
ルーシュはそう返しながら、小さく笑みを作った。なるべく表情に出ないように。
そんな雑談をしているうちに、問題の部屋へと到着した。
ノックをすると、待っていましたとばかりに飛び出してきた。
名前はマティアスと言うらしい。
「ベッドだけ揺れるって言うのは本当?」
「本当だよ!毎晩なんだ……他のものは何も揺れないのに、ベッドだけがまるで、見えない誰かに揺すられてるみたいで……」
嘘ではないらしい。彼の目には恐怖が浮かんでいた。
「毎晩って言うのは時間が決まってるの?」
「寝てるから正確にはわからないけど……大体十一時くらいかな」
「ふーん」
ルーシュはその答えに考えを巡らせた。
(毎日定時に揺れるベッドね)
「他には何か気になることとかないの?」
「うーん」
マティアスは唸りながら腕を組んだ。
「あ!この前、日曜日の夜は揺れなかった気がする!」
「……日曜日」
そこでアウグストが口を挟んだ。
「とりあえず今日はここで、その揺れを確認してみよう」
「よろしく頼むよ!もう怖くて寝れなくて……」
ルーシュも了承した。
午後十一時。部屋の灯りを落とし、三人はベッドの周囲で静かに様子を見守っていた。
……ぎし。
まるで誰かがそっと触れたような軋む音とともに、ベッドの脚がほんのわずかに動いた。
誰も触れていない。窓も閉めてあり、風もない。それでも、ベッドだけが、ゆっくりと、まるで見えない揺り椅子のように……左右に揺れていた。
ルーシュは体を固くしながら、その動きをじっと見つめた。揺れは一分ほど続き、何事もなかったかのように止まった。
「確かに揺れたな」
「でしょ?」
マティアスは泣きそうな顔で訴えた。
(でも……おかしい。地面全体が揺れている様子はない。なぜ、ベッドだけが……)




