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第三話 旧校舎の影

 ルーシュが今、学術技術院で担当しているのは、振り子の研究だった。

 振幅が小さい場合の等時性は既に知られているが、彼が取り組んでいるのは、そのさらなる精密化。振り子の長さ、錘の質量、さらには温度や気圧など環境要因を変化させたときの周期を、研究者たちと共に定量的に検証していた。


「進捗が思ったより鈍いんだ。ルーシュ、この条件でもう少しセッティングしてもらえるかな?」


 研究者の一人が、実験条件の一覧を記した紙を手渡してくる。


「……わかりました。ただ、真空容器って、こんなにありましたっけ?」

「足りなかったら、旧校舎に残ってるのを取ってきてくれるか?確か、いくつか保管してあったはずだから」

「旧校舎、ですか?」

「ああ。少し前に地盤沈下の影響で立ち入り禁止になったけど、取り壊し予定だったから、古い機材がそのまま残ってるはずだよ」

「わかりました」


 旧校舎――それは神学校の前身として使われていた古い建物群で、今では危険区域として封鎖されている。けれど、許可を得れば一時的な立ち入りは可能だった。


***


 夜がすっかり降りていた。

 神学校の回廊には誰の姿もなく、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っている。中庭の石畳は月光を映して淡く光り、草陰では虫の音が響いていた。

 ルーシュは外套をしっかりと巻き、手に許可証を持って旧校舎へと向かっていた。吹き抜ける風が嘲笑っているかのように耳に響く。


(……早く済ませよう)


 正直、あまり気乗りはしなかった。

 軋む扉、埃をかぶった机、苔むした石壁。昼間でも薄暗く、夜に訪れる者はまずいない。


(大げさだな……ただの倉庫だろ)


 自分に言い聞かせながら、重たい扉を押した。

 冷たい空気が顔を撫でる。

 微かなオイルランプの光だけを頼りに、広い廊下を進む。遠くで、かすかに軋むような音が聞こえた。

 ルーシュは立ち止まり、耳を澄ます。……風、だろうか。


(早く、目的の物を取って戻ろう)


 旧校舎の保管庫は、西棟の奥にある。使われなくなった実験器具や壊れた測定装置が積み上げられているだけのはずだった。

 しかし、角を曲がったときだった――

 視界の端に、奇妙な光が見えた。


(……?)


 廊下の奥、封鎖されているはずの一室の扉の隙間。そこから、ぼんやりと明滅する青白い光が漏れていた。


(……誰かいるのか?)


 一瞬、引き返すべきだと思った。だが、胸の奥にざらつく違和感が、ルーシュの足を止めた。

 静かに近づき、扉の隙間から中を覗き込む。

 そこには――

 見たこともない装置があった。

 壁際まで広がる巨大な歯車のフレーム。その中央を走る、光を纏った導線。脈動するように、青白い輝きが金属の縁を這う。機構のあちこちでは、金属のパーツが微細に振動し、まるで生きているかのように息づいていた。

 部屋の中には人影もあった。

 数人の男たちが、何やら低い声で指示を交わしながら、装置の周囲を忙しく動き回っている。聖職者のような服装を纏いながら、どこか異質な雰囲気を漂わせる。


(これは……なんだ?)


 知らず、息を詰める。

 一つ、二つ、振り子のようにゆらめく機構が視界に入った。


(振り子……? いや、違う……何か……歪んでる)


 理解できない不安が、背筋を這った。胸の奥で、直感が叫んでいた。

 ――見てはいけない、と。

 遠くで足音がした。こちらへ向かってくる。

 ルーシュは我に返り、身を翻すと、来た道を音もなく引き返した。

 

 廊下を駆け抜け、重たい扉を押し開ける。夜の冷たい空気が、肺に鋭く刺さった。

 外に出た途端、膝に力が入らなくなり、その場にしゃがみ込む。


(……一体、あれは……)


 ふと胸元に手を伸ばす。そこには、ヴェルツ正教の『時の歯車』の徽章。


(……さっきの奴ら、袖口に白銀のラインが入ってた……)


 ヴェルツ正教の黒衣に刻まれた白銀のライン。それは司祭以上の階級があることを示す。

 オイルランプの灯りが揺れ、遠く鐘楼の鐘が静かに時を告げた。

 ルーシュは無意識にポケットの小さな懐中時計を握りしめていた。

――カチ、カチ。

 時計の振動だけが、確かにここにある『現実』だった。

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