第一話 新天地・王都オルディア1
朝の鐘が鳴り響く。その音は、かつてルーシュが暮らしていた静かな農村の教会の鐘とは、まるで違うものだった。
重厚で澄んだ鐘の音が、王都オルディアの空高く、遠くまで響き渡っていく。石畳の街路には、高くそびえる時計塔がいくつも立ち並び、そのすべてが正確に時を刻んでいた。まるでこの都市そのものが、巨大な機械仕掛けの時計のようだった。
蒸気機関の汽笛。
馬車の車輪。
新聞売りの少年たちの声。
街角の露店の呼び込み。
目まぐるしく行き交う人々の波――。
ルーシュは黒衣に身を包み、その波の中を静かに歩いていた。
広場には現王朝クロイツ家とヴェルツ正教の紋章を記した旗が悠々と風に揺れている。
十八歳になった彼は、幼い頃の面影を残しながらも、すらりとした青年へと成長していた。
胸元には、ヴェルツ正教の象徴である「時の歯車」の徽章。その瞳は冷静で鋭く、それでいてどこか、遠いものを見つめるような翳りを帯びていた。
ここは、クロノフェルデ王国の心臓。王宮と巨大な中央神殿を擁し、蒸気と歯車の都市と呼ばれる都。
ルーシュはこの街で、王立神学校の四回生となり、日々勉学と技術研鑽に励んでいる。
ヴェルツ正教は、信仰系統の聖務庁と、技術系統の学術技術院、二本柱の組織構造を持つ。
王都神学校では、二回生までは聖典と技術の双方を学び、三回生以降、希望する系統に進むことになる。技術系を選んだ四回生たちは、学術技術院の研究者とともに、実践的な研究課題に取り組むのだ。ルーシュも、今は学術技術院に籍を置き、研究の日々を送っていた。
***
この朝も、いつものように中央神殿前の広場を通り抜け、学術技術院へと向かっていた。
ふと足を止め、朝日に照らされた大時計塔を見上げた。青空を背に、鐘楼の針が静かに時を刻み、時報の鐘が空気を震わせる。
その風景を見上げながら、ルーシュは心の奥に、遠い村の記憶を思い浮かべていた。
あの小さな村の教会。
草の香りと土の温もりに満ちた庭。
教会の塔から響く、素朴な鐘の音。
そして、幼馴染だったエルザの、笑顔――。
(もう戻ることのない、『あの時』だ)
村を出てからのエルザをルーシュは知らない。既婚の異性にそう簡単に連絡が取れるわけもなく。どうか幸せに暮らしていますように、と祈ることぐらいしかできない。
少しそのまま眺めていると背後から陽気な声が飛んできた。
「なんかあるのか?」
振り返るといつものにやけ顔がそこにあった。少し伸びた赤い髪が風に揺れてなびく。
神学校在学中に知り合い、気づけば隣にいるのが当たり前になった存在――アウグスト・ロイエンタールだった。
アウグストは、王都南方を治める大貴族、ロイエンタール公爵家の次男。あれだけ大規模で手広く事業を行う貴族であれば、次男であれど家業を引き継ぐものだろうに、なぜか神学校に通う変わり者である。
「いや、別に……。にしても、大荷物だな?」
ルーシュはアウグストの手に抱えられた分厚い書類に目をやった。
「ああ、これ?」
アウグストは軽く持ち上げて見せた。
「いつものやつだよ」
そう言って並んで歩き始める。
公爵家の子弟ともなれば、舞踏会、文化サロン、狩猟大会、地方有力者の晩餐会――招待状が途切れることはないらしい。
「そんな面倒なら断れば?」
「そう簡単に言ってくれるな。父上の顔を潰すわけにもいかないんだよ」
あからさまにため息をつく。
「兄上が全部断るから俺にお鉢が回ってくるってわけ」
「ああ、例の自由人ね」
ルーシュとアウグストが親しくなったのは、神学校一回生の頃。初めは些細なきっかけだった。だが、専攻分野や寮の部屋が近かったこともあり、自然と時間を共にするようになった。
何より二人を結びつけたのは、探究心の強さだった。わずかな違和感を見逃さず、疑問を持てばとことん調べる。納得がいくまで、追求し続ける。その頑固なまでの姿勢が、どこか似ていた。
だから、ルーシュは思う。
――この出会いは、きっと運命だったのだ、と。




