第三十五話 旅立ちの時
秋の朝は、夏とは違う静けさを纏っていた。
村の畑には、刈り終えた麦の切り株が並び、山から吹き下ろす風が冷たく頬を撫でる。空は澄み渡り、ほんの少し白く霞んでいる。
その朝、教会の鐘楼では、ルーシュが最後の荷物を背負い、静かに鐘の紐を見上げていた。
境内はまだ薄暗く、ひんやりとした朝の空気が肌を刺す。夜明け前の空には淡い群青色が残りつつ、東の空がかすかに白みはじめていた。
教会の前には、エミール助祭とルドルフ時計技師、教会学校で教師を務めるカタリーナ修道女、そしてグランツ司祭が揃って彼を待っていた。
カタリーナは手を合わせて祈りを終えると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ちゃんと朝ごはんは食べたの?」
姉のようなその声に、ルーシュは思わず少し肩の力が抜けた。
「ええ、しっかりと」
そう答えると、カタリーナは満足そうにうなずきながら、そっとルーシュの肩に手を置く。
「無理はしないでね。困ったときは、祈りなさい。あなたはもう、ひとりじゃないんだから」
その手のひらから温もりが伝わってきて、ルーシュの胸がじんわりと熱くなる。
「時が来たな」
ルドルフが声をかけた。
手にした工具袋を軽く掲げ、いつものようにくしゃっとした笑みを浮かべている。
「困った時は歯車を思い出せ。かみ合わないときはな、全部分解して組み直せばいい」
冗談めかした言葉に、思わず笑みがこぼれる。けれどその奥にある、優しさと願いをルーシュはしっかりと感じ取っていた。
「でもまあ……」
エミールが腕を組み、ふっと肩をすくめる。
「都会の時計塔じゃ、分解したら怒られるかもしれませんけどね」
にやりと軽口を叩いたあとで、エミールは一呼吸置き、少し表情を引き締めた。
「けどな。分解する勇気は、持ってていい。おまえならきっと、またちゃんと組み上げられるさ」
その声には、兄貴分らしい頼もしさが滲んでいた。
司祭はゆっくりと歩み寄ると、穏やかな眼差しでルーシュを見つめる。
「おまえの『時』は、これから多くの困難に出会うだろう。だが、歯車が止まらぬ限り、時は進み続ける」
その静かな言葉が、朝の澄んだ空気にしみわたる。
ルーシュは深く頭を下げた。
この教会で過ごした日々。祈りと学び、子どもたちの笑顔、村人たちの声。
すべてが、胸の奥でひとつの歯車となり、今、確かに動き出している。
顔を上げると、東の空に朝陽が昇り始めていた。その光が、旅立ちを照らすように境内を柔らかく染めている。
ルーシュはもう一度、仲間たちの顔を順に見つめ、心の中で静かに誓いを立てた。
(必ず、この手で時を進める)
荷物を背負い、歩み出す。
新しい時を刻む歯車が、静かに動き始めた。
*
教会の裏庭、誰もいない礼拝堂に立ち寄った。
静寂の中、ルーシュはひとり、祈りを捧げる。
「時の神よ、この村で過ごした日々に感謝します。これから僕が歩む道が、誰かの『時』を刻む力となりますように」
目を閉じたまま、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
教会を出ようとしたそのとき、境内の隅で、小さな声が彼を呼び止めた。
「ルーシュ兄ちゃん!」
振り返ると、エルザの弟のひとり――まだあどけなさの残る少年が、駆け寄ってくる。
「お姉さまから、預かってたの。間に合ってよかった」
少年は、ひとつの小さな封筒を差し出した。
受け取った瞬間、ルーシュの胸に、ひやりと冷たいものが走る。淡い色の封筒には、見慣れた筆跡で小さく「ルーシュへ」と書かれていた。
*
村を見下ろす坂道。秋の風が、麦の切り株の間を吹き抜ける。
ルーシュはそこで、立ち止まり、封を開けた。
――ルーシュへ。
どうしても言えなかったことを、今こうして綴ります。
あなたと出会えて、一緒の時を刻めて本当に幸せでした。
わたしたちは別々の道を歩くけれど、それでもあなたのくれた時計を眺めては共に過ごした時を思い出すでしょう。
あなたが時を刻む人になるなら、わたしはその時のどこかに、少しでもいられるように自分の道を歩きます。
お互い、止まらない針のように。
また、どこかで。
エルザ
ルーシュは、手紙を胸元にそっと仕舞った。胸の奥に、痛みと温かさが入り混じったものが広がっていた。
振り返れば、村が小さく見えた。
教会の塔、畑の稲、風に揺れる木々。どこを見ても、これまでの『時』が刻まれているようだった。
彼は、最後にもう一度、胸元の琥珀のペンダントを握りしめた。
「行こう」
その声は、誰に向けたものでもなかった。歩き出せば、風が背を押した。
時計の針は止まらない。時は、もう前に進むしかなかった。




