第三十四話 青く光る思い
夏の終わりの夜風は、昼間の熱をすっかりさらっていた。ひんやりとした空気が肌を撫で、風に混じってかすかに草木の匂いが漂う。
夕暮れどき、村のあちこちから人々のざわめきが聞こえてきた。
子どもたちは手に小さな灯籠を抱え、大人たちは静かに川のほとりへと集まっていく。
灯籠流し――
夏の終わりの夜に行われる、小さな祈りの儀。
その年の出来事を水に託し、巡る時に感謝を捧げ、新しい季節を迎えるためのささやかな祭礼だった。
祈灰を用いたその灯籠は水に浮かぶとじんわりと淡い青い光が灯る――まるで『願い』が時の流れに光をともしてゆくように。
だが、今年のざわめきには別の意味も含まれていた。
明日、エルザの家にラインベルク家から馬車が迎えに来ると知らされたからだ。
領主の娘として生まれ、この村で誰よりも自由に、誰よりも活発に過ごしてきた彼女は、明日にはもうこの村を離れる。
それが今夜、この灯籠流しの景色の中に静かに溶け込んでいた。
***
ルーシュは教会の裏庭で一つの灯籠を手にしていた。
エミール助祭とルドルフ時計技師が、他の村人たちと笑いながら川へ向かうのを見送り、司祭も「おまえも行っておいで」と穏やかに声をかけてくれた。
ルーシュは胸元にそっと手を当てる。琥珀の冷たい感触が、そこに確かにあった。
(今日で、きっと、何かが終わる)
夜風が頬をなでるたび、胸の奥にじんわりと覚悟が広がっていく。
川のほとりはすでに多くの人で賑わっていた。
子どもたちが手をつないで灯籠を流し、大人たちはそれを見守りながら小声で語り合っている。
水面には、いくつもの灯籠がそっと浮かび、やがてぽうっと、祈灰に灯る淡い青光がひとつ、またひとつと浮かび上がる。
その光は、水面に揺れる過去の記憶のようで、夜の川を幻想的な光景へと変えていた。
ふと視線を上げると、川の少し上流にエルザの姿が見えた。
家族の輪から少し離れ、ひとり手にした灯籠をじっと見つめている。
「エルザ」
声をかけると、エルザは少し驚いたように振り返り、すぐに目を伏せた。その横顔にかかる髪が、夜風にさらさらと揺れる。
しばらくの沈黙のあと、エルザが小さくつぶやいた。
「明日……行くの」
「聞いたよ」
少し冷たくなってしまった声が、自分でもわかった。
それきり言葉を続けられず、視線を手元の灯籠に落とす。
ふたりの間に静かな間が流れる。夜の虫の声と、川のせせらぎが重なる音だけが耳に届いた。
ルーシュはふと手にした灯籠を見つめながら、ぽつりとこぼす。
「今年は、いろいろあったね」
エルザは小さく頷いた。
「うん。いろんなことが、変わった」
その声は、風に揺れる葉のようにかすかに震えていた。
しばらくして、エルザが灯籠を見つめたままぽつりと呟く。
「わたし……許されないお願いしちゃおうかな」
「ん?」
「このまま……時が止まればいいのにって」
言葉のあとでふっとこちらを見つめる。
静かな夜風が二人の間をすり抜ける。ほんの一瞬、本当に時間が止まったかのようだった。
ルーシュが返す言葉を探していると、エルザが口元を緩める。
「ふふっ、そんな困った顔しないでよ」
いたずらっ子のような笑顔。
けれどその瞳の奥に、微かな翳りが浮かんでいるのをルーシュは見逃さなかった。
月を見上げながら、エルザは続ける。
「そんな罰当たりなこと、しないよ。時は誰にでも平等に流れる。止めることも、巻き戻すこともできない。わたしたちはその流れの一部。わたしたちが操れるようなものじゃない」
そして、こちらを振り向いて小さく微笑む。
「これでいいかしら、神学生さん?」
ルーシュも微かに笑みを返す。
「流石、領主様のお嬢さん」
冗談めかして返しつつ、灯籠を持つエルザの手にそっと自分の手を重ねる。その空気を読むように、夜風が一瞬止まったかのように感じた。
「でも……このまま時が止まればいいのにって、思うことはあるよ」
短く続けたその言葉に、二人とも何も言わなかった。
しばし、川の音だけが耳に残る。
「さ、そろそろ灯籠を流しましょう」
「……うん、そうだね」
どんなに名残惜しくても、前に進むしかない。
灯籠を流せば、今日が終わる。けれど流さなくても、今日は終わる。それが時の流れであり、誰も逆らうことのできない自然の理だった。
二人は並んで川へ歩み寄り、そっと灯籠を水面に浮かべる。
次第に淡く青い光が灯り、川の流れに溶けていった。
その光が見えなくなるまで、二人はただ並んで、じっと見つめ続けていた。




