第三十三話 祈りの終わる刻2
その午後、ルーシュは教会裏にある工房に籠もっていた。
夏の終わりに行われる伝統行事、灯籠流しの準備を進めているところだった。
ヴェルツ正教で行われる灯籠流しでは、『祈灰』と呼ばれる特別な粉が用いられる。
祈灰は、正教が調合した青白く発光するルミノール粉末であり、鉄イオンと反応することで淡く神聖な光を放つ。
その光は、亡き人への祈りだけでなく、『流れゆく時』そのものへの敬意を象徴していた。
灯籠の構造は精緻である。
上部の内側には祈灰を薄く塗布し、側面の下部には鉄分を含んだ血鉄泥を塗る。底には給水布が仕込まれており、水面に浮かべると布が水を吸い、内部の湿度が上がる。
それにより、祈灰が血鉄泥の鉄イオンと反応し、灯籠全体が青白い光に包まれる――そういう仕掛けだった。
細かな作業に集中していたルーシュの背後から、声が飛んできた。
「よお、色男。準備の進み具合はどうだ?」
ルーシュは聞こえないふりをして、手元の筆を動かし続けた。
「……おーい。無視かよー」
それでも無言で作業を続けていると、背後の声が少しだけ大げさなため息をつく。
「まったく。また一人でうじうじ泣いてないか心配で見にきてやったってのに……」
さすがに我慢できず、ルーシュは振り返った。
「……うるさいな、エミール。暇なら手伝ってよ」
「はいはい、文句ばっか言ってんじゃねえよ。おまえの手際が悪いから来てやったんだよ」
そうぼやきながらも、エミールはちゃんと袖をまくって工房に入ってきた。
「じゃ、俺は血鉄泥の調合やっとくな」
腰を下ろすと、手際よく道具を手に取る。しばらくのあいだ、二人の間に静かな時間が流れた。カラカラと土器が擦れる音だけが、工房の静けさを満たす。
やがて、ルーシュがぽつりと口を開いた。
「……今年、灯籠の数、多くないですか?」
エミールは手を止めずに微笑んだ。
「当たり前だろ。若い二人の門出だからな」
「え……?」
「こんな田舎の村で、二人も若いのが旅立つなんて滅多にないことだ。おまえとエルザ嬢、どっちもだ」
そう言って、エミールはわずかに目を細めてルーシュを見た。
「みんな祝ってるんだよ。ちゃんと、祈ってる」
ルーシュはむずがゆいような気持ちになりながら、手元の筆に視線を戻した。
「……ありがとう」
「いえいえ」
またしばし、工房にはふたりの静かな作業音だけが続いた。
やがて、作業が一段落した頃、ルーシュは以前から気になっていたことを口にした。
「ねえ、エミール。祈灰って、鉄イオンに反応するんですよね?」
「ああ。ルミノールを使ってるからな。鉄に触れると青白く光るってわけ」
「じゃあ、なんで血液には反応しないんですか?」
「……鋭いな。実はちゃんと調整してある」
エミールは器に残った祈灰を軽く指で示した。
「この光は『聖なる反応』ってことになってる。だから、一信徒の血程度じゃ反応しないように、反応閾値を調整してるんだよ。じゃないと、礼拝中に誰か指でも切ったら光っちまうだろ?」
「なるほど……」
ルーシュは祈灰をひとすくい掌にとり、光も放たぬその粉を見つめた。
「おい、無駄にするなよ。祈灰は王都の専用施設でしか作れない。貴重なんだ」
エミールが半ば呆れたように言うと、ルーシュがちらりと視線を向ける。
「なんだよ?」
「いや……やっぱりエミールって、何でも知ってるんだなって。名ばかりの助祭じゃないんだ」
「おい、おまえ……俺のことナメてるだろ?」
苦笑交じりに返しながらも、エミールの頬がわずかに照れくさそうに緩んだ。ふたりの笑い声が、夕暮れに満ちる工房の中にふんわりと溶けていった。




