第三十二話 祈りの終わる刻1
静まりかえる聖堂に、振り子の音だけが規則正しく響いていた。傾きかけた陽光がステンドグラスを透かし、長い影を床に落とす。夕暮れが訪れるたびに、聖堂はまるで時間そのものが息をひそめるような静けさに包まれる。
祭壇の振り子時計の点検に訪れたルドルフ時計技師がふと目を向けると、祭壇前には片膝をつき、胸に手を当て祈りの姿勢を取るルーシュの姿があった。
(もう、どれほどここにいるのだろうか)
ルーシュが聖堂に入ってから、すでに二時間以上が過ぎている。
まあ、好きなだけ祈らせてやろう――ルドルフはそう思い、聖堂の入口の傍に静かに腰を下ろした。
「こんなところで何してるんですか?」
通りかかったエミール助祭が声をかける。
ルドルフは無言で指を動かし、祭壇の方を示した。祈り続けるルーシュの姿にエミールは「ああ」と声を漏らしつつも、にやりと笑う。
「とはいえ、そろそろお開きにしてもらわないと仕事が進みませんねえ」
エミールがそう言って歩みを進めようとした、そのときだった。
聖堂の扉が勢いよく開き、外の光が差し込む。
現れたのは、エルザだった。
ドアの開く音に気付いたルーシュがゆっくりと立ち上がる。振り向いた先にエルザの姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「エルザ……どうしたの?」
「ここにいるって聞いて……」
エルザは視線を落とし、言葉を探すように沈黙する。
しばし、静かな時が流れた。
「……おめでとう。聞いたよ、婚約したって」
ルーシュは声が震えぬよう慎重に言葉を紡ぐ。感情を押し殺すあまり、少し早口になってしまった。
「この地区の領地を治めるラインベルク家のご子息だってね。立派な家系だと聞く。これで、幸せになれるね」
エルザはまっすぐルーシュを見つめた。
その瞳に射抜かれるようで、ルーシュはたまらず視線をそらす。
沈黙の間のあと、エルザが静かに言った。
「……嘘つき」
「え?」
エルザはゆっくりと腕を上げる。
指差したのはルーシュ――ではなく、その背後の祭壇に据えられた振り子時計だった。
「神様の前で嘘をついていいの?」
胸の奥に痛みが走る。唇を噛みしめ、ルーシュは一度息を整えてエルザを見返した。
「……幸せになってほしいのは、本心だよ」
「……あなたの隣じゃなくても?」
拳に自然と力が入る。視線を外し、絞り出すように答える。
「そんなこと……生まれたときからわかっていたことじゃないか」
エルザは瞼を伏せ、かすかに揺れる声で応えた。
「……そうね。私は領主の娘。家のため、村のために結婚することは決まっていた」
一瞬、彼女の瞳が潤み、ルーシュを切なげに見つめる。
そして、囁くように続けた。
「でもわたしは……愛した人に抱きしめてもらうことも、願ってはいけないのね……」
その言葉が終わるよりも早く、ルーシュの身体は自然に動いていた。
エルザを強く抱きしめる。
聖堂に響くのは、振り子の静かな音とふたりの交わる息遣いだけ。長く伸びた影が、祭壇の前で寄り添うふたりを包み込む。
少し離れた場所でふたりを見守っていたルドルフは、エミールに肩を叩かれてはっとする。
エミールは小さく手振りで「向こうへ行きましょう」と合図した。ルドルフは頷き、そっとその場を離れる。エミールは満足げな笑みを浮かべながら、そっと扉を閉めた。
抱きしめ合うエルザは、ルーシュの胸のなかでかすかに声を震わせる。
「……ごめんなさい。わがまま言って」
「謝らないで」
ルーシュはさらに腕に力を込めた。
この腕を離せば、二人の距離はもう戻らない。わかっていたからこそ、最後の温もりを焼きつけるように抱きしめた。
やがて、どちらからともなくゆっくりと腕の力を緩める。エルザが潤んだ目でルーシュを見上げると、その視線に息を呑む。
一瞬、邪念が胸をよぎる。だがルーシュはそれを振り払うように拳で太腿を叩き、静かに微笑んだ。
「……これくらいなら、神様も許してくれるかな」
そう言って、エルザの額にそっと口づけた。
一方そのころ、エミールとルドルフは並んで回廊を歩いていた。
「なんだか、覗き見みたいで悪いことしちゃったな」
ルドルフが頭をかきながら言うと、エミールはいたずらっぽく笑う。
「若いって、いいですねえ」
「おまえもまだ充分若いだろ」
そう返しつつ、ルドルフはため息まじりに空を仰ぐ。
エミールが伸びをしながら続けた。
「しかしまあ、これからはあまりお嬢様のことを茶化さないほうがいいですね」
「……おまえなぁ」
呆れたように言うルドルフを横目に、エミールはしたり顔で笑い、肩をすくめた。




