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第三十一話 交わらぬ針の先

 夏の陽が傾きかけたころ、エルザの父であるフィンケル家当主ゲオルク・フィンケルは、屋敷の書斎で一人、封書を見つめていた。

 立派な封蝋には、グリュンヴァルト村を含むこの辺りの地方を治める地方貴族・ラインベルク家の紋章が押されている。厚手の羊皮紙に記されていたのは、あの縁談の申し出だった。


(……娘エルザを嫡男の妻として迎えたい、か)


 指で封書の縁をなぞる。滑らかな感触とは裏腹に、心の内には重たい葛藤が渦巻いていた。

 ラインベルク家は、革命後の混乱を巧みに生き延び、新たに与えられた土地で勢力を広げてきた家だ。ヴェルツ正教との結びつきも強く、中央との太い繋がりを持つ。村の未来を思えば、悪い話ではない。


「村のためにも……悪い話ではない」


 静かに呟きながら、窓の外に目を向ける。

 農夫たちが夕暮れの畑を後にし、子どもたちが教会の鐘の音にあわせて帰路を急ぐ。瓦屋根が連なる小さな村の景色は、どこまでも穏やかで、彼の望む未来そのものだった。


(だが、本当にそれだけか?)


 思い出すのは、かねてから耳にしていたいくつもの良くない噂だった。

 領民の土地を強引に取り上げたり、村人に重税を課して私腹を肥やしたり――そんな話がまことしやかに囁かれていたのだ。確たる証拠があるわけではない。けれど、不思議とそのどれもが、得体の知れない影を引き連れていた。

 ゲオルクは机に肘をつき、重くため息をつく。


(村の安泰を守るための政略だ。だが、娘を……)


 ふと視線が書棚の上にある木製の時計へと向く。ヴェルツ正教が村に入った際、司祭より父に贈られたもので、村の歴史そのものを刻む時計だった。


(父上なら、どう判断しただろうか……)


 数日前の夕べの祈りのあと、グランツ司祭と杯を交わした夜を思い出す。


「正教の支援を受けられることは、村にとって良きことです」


 司祭は穏やかに語りながらも、その目にはわずかな翳りが宿っていた。


「だが、過ぎた支援は、時に村の自立を奪います。何事も、程々が肝要かと」


 その言葉に頷きながらも、ゲオルクの胸は重く揺れていた。


(正しい道を選ぶことは、なんと難しいものか……)


 そっと机の引き出しから、書きかけの返事の手紙を取り出す。そこにはすでに受諾の言葉が綴られていたが、封をすることなく数日が過ぎていた。


(ラインベルク家からの申し出を断る道など、初めからなかった)


 相手は地方とはいえ、国王より領地を任された貴族であり、もし拒めば村全体が冷遇される恐れすらある。それどころか、フィンケル家が潰れる可能性すらある。

 それは承知していたはずだった。

 それでも手が止まるのは、ただ一人、娘のことが気がかりでならないからだ。

 そのとき、廊下からエルザの明るい声が響いた。


「お父様!今日は私も夕食のお手伝いをしたのよ」


 元気な声が、書斎の静けさを軽やかに破る。その響きに、ふと胸が締めつけられる。


(……もう、そんな年頃になったのだな)


 村の行事にも欠かさず参加し、教会の務めも真面目に手伝う娘。

 慎ましく、しかし内に強さを秘めたその姿に、成長を感じずにはいられない。けれど、村を離れ、見知らぬ人々の中で暮らす日が来るとは、思いたくなかった。

 ゲオルクは手紙に視線を戻す。悪い噂は気になる。だが――


(エルザなら、大丈夫だ)


 しっかり者で、曲がったことを嫌う娘。どんな境遇に置かれても、きっと自らの手で道を切り拓いてくれるはずだ。


「……これが、今の私にできる精いっぱいだ」


 低く呟きながら、手紙をそっと引き寄せる。封蝋を手に取り、静かに押す。赤い蝋が固まっていくさまを見つめながら、胸の内の迷いが閉じ込められていくのを感じた。

 夜の帳が降りるなか、教会の鐘が一つ、二つと時を刻む。その音が、ゲオルクの胸にわずかに残るためらいを打ち払うように響く。


(娘の幸せと、村の未来を守るために。私は……受け入れよう)


 静かな決意を胸に、ゲオルクは明かりの消えた廊下を歩き出す。その背中に宿る重みは消えなかったが、それでも歩みは確かだった。


***


 夏の終わりが近づき、ルーシュは王都への進学準備に追われていた。

 一方、エルザもまた、地主であるフィンケル家の娘として忙しい日々を送っていた。家業の帳簿整理、家庭教師との学び、時折、村の子どもたちの世話にも顔を出す。以前のように教会に行くことも少なくなり、ルーシュと顔を合わせても、どちらからともなく目を逸らすことが増えていた。

 ――意識して、距離を取っているのは、たぶん、お互いだった。

 そんなある日。エルザは父親から呼び出された。


「お父様、どうしたの?」


 ノックして部屋に入ると、父は帳面を閉じて顔を上げた。


「うん……まぁ、こちらに来なさい」


 その声には、いつもの温かさと、ほんの僅かな翳りが混じっていた。

 エルザが机の前に立つと、父はしばし彼女の顔を見つめた。


「……大きくなったな」


 それは、懐かしさと寂しさが混じったような声だった。


「おまえも、もう年頃だ。先日、ラインベルク伯爵家から正式な縁談の申し出があった」


 その名を聞いた瞬間、エルザの胸に冷たい何かが落ちた。

 この村を含む一帯を治める大きな家。現王朝との結びつきも深く、ヴェルツ正教の後援者としても名高い。

 父は続けた。


「おまえがあちらに嫁げば、フィンケル家も村も、今後の不安をひとつ減らせるだろう。……あちらも、領内の安定を望んでいる」


 淡々とした口調の奥に、言葉にできぬ重さがあった。

 エルザは、何か言いかけて、口を開いたまま、そっと閉じた。


(これは……父が、領主として背負ってきたもの)


 ずっと見てきた。村の行く末を案じ、誰よりも静かに責任を背負う父の背中を。だからこそ、問いかける資格など自分にはない――そう思った。

 ゆっくりと頷く。


「……わかりました」


 それ以上、何も言わなかった。言えなかった。

 自室に戻ったエルザは、扉を閉めるなりベッドに身を投げた。

 わかっていたことだった。いずれ来る未来だと、ずっと覚悟していた――なのに、いざ目の前にその現実を叩きつけられて、まっすぐ受け止められるほど大人ではなかった。

 指先で掴んだのは、小さな懐中時計。ルーシュが贈ってくれたもの。掌の中で、カチ、カチと律動を刻みながら、確かな時を示している。


(……初めから、わかっていたのに)


 それでも胸の奥では、冷たい風が止まらなかった。ただ黙って、涙がこぼれ落ちるのを止めることができなかった。


***


 数日のうちに、縁談の話は村中に知れ渡った。名家との結びつきという期待と、どこかざわついた空気とが入り混じる。

 そして、当然のようにその噂はルーシュの耳にも届いた。

 夜の祈りを終えたあとも、心の中には静まらない何かが残っていた。気づけばルーシュは、足音を忍ばせるように教会の螺旋階段を登っていた。

 鐘楼の上――

 高台から見下ろす村は、まるで昼間の喧騒が嘘のように、静かに眠っていた。

 月の光が淡く村を照らし、屋根の影が静かに伸びている。風に乗って遠く虫の音が聞こえ、昼間とは違うひっそりとした景色が広がっていた。

 ルーシュは塔の縁に腰を下ろし、遠くエルザの家にともる灯りをじっと見つめる。


(お互いに、『やるべきこと』がある。それを選んだのは、自分自身だ)


 心の中でそう繰り返し言い聞かせる。けれど、胸の奥に刺さる痛みは、そう簡単に消えてくれなかった。

 ふと、階段を登ってくる足音が聞こえる。


「ここにいたのか」


 振り返ると、エミールが月明かりを背負って立っていた。


「……泣いてたのか?」


 いつもの軽口とは違う、どこまでも優しい声だった。

 その声に驚きつつ、ルーシュは無意識に頬に触れる。指先に冷たい雫が触れて、初めて気づく。いつの間にか涙がこぼれていたことに。

 慌てて視線をそらし、灯りの消えた村の奥へと目を向ける。できるだけ気丈に、平気なふりをして。

 エミールは何も言わず、ルーシュの隣に腰を下ろした。

 二人で並び、夜の静けさの中に身を置く。

 沈黙がしばらく流れた。ただ月と風だけが、塔の上を優しく包んでいた。


「……別に、泣いたっていいんだよ」


 不意にエミールが口を開く。声はいつになく柔らかかった。


「大丈夫。時は巡る。人の心も巡る。どこかで繋がっている」


 そう言いながら、そっとルーシュの頭に手を乗せる。その手は温かくて、どこか懐かしい重さだった。

 エミールはそれ以上余計なことは言わず、ただ静かに隣にいてくれた。まるで昔、小さかったルーシュの手を引いて川に連れ出したあの日のように。

 夜の静けさと寄り添うように、二人はしばらくそこに座り続けた。

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