第三十話 別れの針音
夏の風は、村の畑を渡り、教会の鐘楼をかすかに揺らしていた。光の歯車祭が終わり、グリュンヴァルト村は再び、静かな日常を取り戻していた。
麦の穂は青々と伸び、川面には陽射しがきらきらと揺れている。けれど、ルーシュの心は、その穏やかさの中で、少しずつ重くなっていた。
夜、教会の工房の片隅。蝋燭の炎が、真鍮の歯車を照らす。ルーシュの指先は、慎重に、繊細に動いていた。
細かい部品をひとつひとつ組み上げ、針を取り付け、文字盤を収める。完成したのは、小さな懐中時計。
文字盤の縁には、さりげなく麦の穂の模様を刻み、裏蓋の内側には、誰にも気づかれないように、小さな歯車と「E」の文字を彫った。
静かな夜に、時計のチク、タクという音だけが響いていた。
***
数日後の夕暮れ。
見晴らしのいい丘の上。草原は夏の終わりを告げる風に揺れ、茜色に染まり始めた空がゆっくりと傾いていく。ルーシュは、そこにエルザを呼び出していた。
いつもより少し落ち着かない様子で、エルザが姿を見せる。
「こんなところに呼び出して、どうしたの?」
ルーシュは無言で手を動かし、隣に座るよう促した。二人でしばらく、沈みゆく夕陽をただ眺める。
背中を押すように吹く風に背を預けるようにして、ルーシュは静かに口を開いた。
「秋になったら、村を出る」
エルザは、一瞬だけ目を見開き、それから視線を落とした。足元の草が風にそよぐ。
「……進学、するんだね」
「うん。王立神学校に行くことに決めた。聖典と技術、どちらも深く学ぶために。ずっと迷ってたけど……もう、決めた」
風が二人の間をすり抜けていく。
エルザは草を踏む足元に視線を落としたまま、小さく言った。
「そう……おめでとう」
その声は、いつもよりわずかに震えていた。
二人の間に、しんとした沈黙が落ちる。虫の声が遠くでかすかに響き始める。
ルーシュは、胸元から小さな包みを取り出した。風が包み紙をふわりと揺らす。
「これ、渡したくて」
エルザが顔を上げる。ルーシュは、小さな懐中時計をそっと差し出した。
手のひらに収まる、小さな時間のかたち。時計の重みを手に感じながら、ルーシュは言葉を探すようにして、ゆっくりと紡ぐ。
「僕が、初めて一から作った時計。……僕の知らないところで君がどんな時間を生きていても」
ふと息をのむようにして、一呼吸おく。エルザの瞳をまっすぐに見つめながら、言葉を絞り出すように続けた。
「せめて、ひとつだけは、君の中に『僕の作った時間』があってほしい」
エルザは驚いた表情のままルーシュを見つめていた。胸の奥で、小さな針が静かに刻む音がするようだった。
「……勝手なこと言ってごめん」
ルーシュは最後にそう付け足し、時計をエルザに差し出す。
エルザは静かにその時計を受け取り、そっと蓋を開いた。麦の穂の装飾が夕陽を受けて柔らかく光り、小さな針が静かに時を刻む。指先にほんのり伝わる温もりに、胸がふっと熱くなる。裏蓋には、控えめに「E」の文字が刻まれていた。
エルザは指でそっとその文字をなぞし、口元をわずかにほころばせて小さく呟く。
「……ほんと、ずるい」
ただそのまま、ふたりは並んで座り、丘の上から茜色に染まる空を眺めていた。幼い頃から共に見てきた、この村の風景。小さな家々の屋根、教会の鐘楼、遠くに見える森の稜線――。すべてが夕日に包まれ、まるで絵のように穏やかだった。
しばらく沈黙が続いたあと、エルザがぽつんと口を開く。
「でも、あのルーシュが王都かぁ」
「あの、とはなんだよ」
ルーシュは少しむくれたように言い返す。
エルザはいたずらっぽく笑いながら、ルーシュの方を振り返った。
「だってさ。迷いの森すら怖がって、ひとりで近づけなかったルーシュが……新しい土地で平気なのかなって」
「……あそこは、時計も狂うっていうし、危ないだろ」
口調はつい、言い訳めいてしまった。
エルザはふふっと笑って、空に視線を戻す。
「うん、そういう慎重さが、大事だよね」
その声音には、からかいではなく、どこか安心するような響きがあった。
ルーシュは少し拗ねながら同じ空を仰いだ。
「……また、弟扱いして」
草の匂いを運ぶ風が、二人の間を抜けていく。遠く、迷いの森のあたりに薄靄が立ち上り、森の輪郭をぼやかしていた。
「……弟だなんて、思ったことないよ」
エルザが静かに言った。
その言葉に、ルーシュは思わずエルザの顔を見る。夕日を浴びた彼女の横顔が、美しくて、目が離せなかった。けれど、見つめていたことに気づいて、慌てて視線をそらす。
再び沈黙が流れた。ただ、風と、草のざわめきと、懐中時計の中のかすかな時の音だけが、耳に残る。
やがて、日が沈みはじめ、夜の気配が草原を撫でていく。
エルザは懐中時計を胸元にそっとしまい、ルーシュに向かって小さく微笑んだ。
「気をつけて、行ってらっしゃい」
ルーシュはその笑顔を、心に焼きつけるように見つめ、黙って深くうなずいた。
風が二人の間を吹き抜ける。草原がさわさわと揺れ、ひと夏の終わりを告げた。
秋が来れば、この丘にも、もう二人の姿は並ばない。けれど、確かに、ここで刻まれた時間は消えない。懐中時計の小さな針とともに、それはこれからも静かに、息づいていく。




