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第三話 エルザ・フィンケル

 上級講義後、夕刻前の柔らかな陽射しが村を包み始める頃。

 ルーシュは封書を手に、教会から続くなだらかな道を歩いていた。行き先は、グリュンヴァルト村を代々治めてきた領主の屋敷――フィンケル家だ。


 村の端に建つその屋敷は、農村にしては立派すぎるほどの石造りで、屋根には赤い瓦が重なっている。古くからの領主の家柄にふさわしい威厳が、外観にも滲んでいた。

 門を飾る鉄細工の紋章は風に揺れ、まるで訪問者を静かに見下ろしているかのようだ。


 ルーシュはふと立ち止まり、封書を軽く持ち直した。


(正直、門構えだけで緊張するな……)


 とはいえ、幼い頃からこの家とは縁が深い。

 領主と司祭は長年にわたって良好な関係を築いており、ルーシュも幼いころから度々この屋敷を訪れていた。

 門の脇に立つ門番に軽く会釈をすると、すぐに通される。


 「あら、ルーシュ。お使い?」


 現れたのは、艶のある栗色の髪を揺らした少女だった。

 エルザ・フィンケル。

 領主の娘として格式ある立場にありながら、どこか親しみのある笑みを浮かべている。ルーシュと同じ年頃だが、弟がいるせいか少しお姉さんぶった振る舞いをすることが多い。幼い頃からよく一緒に遊び、からかい合いながら育った腐れ縁だ。


「教会からのお届け物だよ。領主様宛ての封書を預かってる」


 ルーシュは封書を掲げて見せる。するとエルザはふっと口元を緩めた。


「ご苦労さま。ちゃんと無くさずに持ってきたのね。珍しいわ」

「失礼だな。僕はいつだって慎重に物を扱っているよ」

「だったら先週、羊皮紙をひっくり返していたのは誰だったかしら」


 エルザはわざとおどけた顔をする。


「……あれは風のせいだよ、風の」


 ルーシュが肩をすくめると、エルザは楽しげに笑い、彼の手からそっと封書を受け取る。


「それで? お使いは封書だけ?」

「用件はそれだけだけど……せっかくだし、ひと休みしていこうかな」


 ルーシュが気軽に答えると、エルザの顔がぱっと明るくなった。


「そう、よかった。ちょうど見せたいものがあったのよ」


 そう言いながら、ふとエルザがルーシュの袖口に目を落とす。


「お使いに出るなら、ちゃんと身なりにも気を使いなさいよ」


 と、小さな埃を指先で払った。


「これでも今朝、ちゃんと払ったつもりだったんだけど」

「まだまだ甘いわね」


 にやりと得意げに微笑むエルザ。

 ルーシュは内心ため息をつく。


(相変わらず、姉気取りなんだから)


 ほんの二年前まではエルザの方が背も高く、周囲からも姉弟のように見られたものだったが、今ではルーシュの方が頭ひとつ分以上背が伸びている。それでも、エルザの態度はまるで変わらない。


「じゃあ、お茶はありがたくいただくとして。領主様にはこの封書を渡したって伝えてくれる?」

「ええ、もちろん。父もあなたのことはよく知ってるから、安心して」


 エルザは軽やかに頷くと、ルーシュを屋敷の客間へと案内した。



「それで、見せたいものって?」


 エルザは椅子に腰かけると、脇の籠から小さなガラス瓶を取り出した。藍色がかった細かな茶葉が中に詰まっている。

 「これなんだけど」と、はやる気持ちを抑えられないように瓶をルーシュの前に突き出す。

 前に出されたので、ルーシュがジーッと観察していると、エルザがヒョイっと持ち上げ、少し高揚した様子で説明した。


「このお茶ね、色が変わるの。父が隣国から手に入れたんですって。見ててね」


 茶葉を急須に入れ、湯を注ぐ。淡い青だった液体に、添えられた小瓶から数滴のレモン果汁を垂らすと、たちまち鮮やかな紫に変わる。


「わっ……!」


 ルーシュは思わず声を上げ、身を乗り出した。


「すごいなこれ。酸で反応するのか……聞いたことはあったけど、こんなにきれいに変わるんだ」

「でしょう? 外交の贈答品なんですって」


 得意げなエルザは、ふふんと鼻を鳴らす。


「領主の家の娘としては、こういう珍しい品も知っておかないとね」

「なるほど。そういう勉強もしてるんだな」


 ルーシュは感心しながらカップを手に取る。


「ふつうに飲んでも香りがいいし、目でも楽しめるなんて贅沢だな」

「ふふん。あなたみたいな教会の小僧には、もったいないくらいかしら」


 からかうように言うエルザに、ルーシュは苦笑しつつ肩をすくめる。


「でもこうして振る舞ってもらえるんだから、ありがたくいただかないとね」


 そう言ってひと口すすると、酸味が口の中に広がった。


「……美味しい。酸味がきいてて、目が覚めるな」

「でしょう?」


 嬉しそうに頷くエルザは、ルーシュのカップにもう一杯注いでくれる。

 ルーシュは瓶のラベルをじっと覗き込みながらつぶやく。


「何とか再現して、教会の子供たちにも見せてあげたいな」

「本当、好きね。そういうの」

「うん。やっぱり自分の知らない世界を知れるのは楽しいよ」

「ふふっ。立派な先生ね」


 と、エルザはくすりと笑った。

 穏やかな時間が流れるなか、ルーシュは最後にもう一杯だけカップに残る鮮やかな紫を眺めた。


「また何か面白いものを見つけたら、教えてよ」


 ルーシュがそう言うと、エルザは「ええ、もちろん」と笑って応じた。

 その笑顔に、ルーシュもつられるように微笑み返す。



 温かな紅茶の余韻を胸に残しつつ、ルーシュは領主邸を後にした。

 庭先でエルザが手を振る姿が見える。ルーシュも軽く手を上げて応じると、振り返らずに石畳の道を歩き出した。

 領主邸を出ると、すでに日が傾き始めていた。

 これはちょうどいい、とルーシュは少し遠回りして、昔からのお気に入りの場所を通って帰ることにした。

 

 そういえば昔、エミールにからかわれて教会から飛び出したときも、ここへ来たっけ。

 傾斜のついた小道を登っていくと、視界がふっと開ける。

 教会近くの丘だ。

 見下ろせば、夕暮れの光に包まれた村が一望できる。丘の下には畑が広がり、農夫たちが道具を片付け、馬車に荷を積み終えるところだった。

 その奥には、果樹園が緩やかな起伏を描きながら続いている。風に揺れる枝葉のあいだから、熟れかけた果実の甘い香りがほのかに漂ってくる。

 さらにその向こう、果樹園の端から流れ出した川がゆるやかに村を縫い、教会裏の湖へと注いでいた。

 振り返ると、湖の水面に夕陽が映り込んでいる。琥珀色に染まった波が、柔らかくきらめきながら風にそよぐ草の影を映していた。

 

 自分が生まれ育ったこの村を一望できるこの場所が好きだ。

 季節ごとに色を変えながら、変わらずにそこにある風景。嬉しい時も、悲しい時も、ここの風はいつも変わらず吹いてくれる。


(珍しいお茶だったな……酸で色が変わるなんて)


 ふと今日の出来事がよみがえる。

 茶葉の瓶を得意げに差し出すエルザの姿が脳裏に浮かび、自然と口元がほころんだ。


(まったく、あいつは相変わらずだな)


 昔から変わらない。あれこれ世話を焼きたがって、自分の手を引いていろんな景色を見せてくれた。そうやってともにこの村で育ってきたのだ。

 もう一度、村の景色を目に焼き付けるように視線をめぐらせる。


(そろそろかな)


 ルーシュは丘にある石で組まれた小さな祈りの祭壇に向かう。


 ヴェルツ正教では日没前に「今日という時の終わりに、自らを省みる」ことが勧められている。形式張った礼拝はないが、こうして時に向き合うひとときは、日々の区切りとして大切な時間だった。


 ルーシュは祭壇の前に立ち、静かに目を閉じた。

 昼間の教室。上級講義での新しい学び。エルザと交わした軽口と、鮮やかに色を変えた紅茶。

 それら今日一日の情景が、鐘の音のように静かに胸の中に満ちていく。


(今日も、時間はきちんと流れてくれた)


 この国で暮らす人々にとっては、きっと当たり前のこと。

 けれどルーシュには、その繰り返しが奇跡のように思える時がある。

 幼いころから教えられてきた、「時は流れ、すべては移ろう」という教義。その意味が最近になってようやく、胸の奥にじんわりと沁みるようになってきた。


 風が草原を渡り、湖面に小さな波紋を描いていく。空は茜から紫へと色を変え、やがて教会の鐘が七度、静かに、そして確かに村に響いた。


 カラン、カラン、カラン……。


 ルーシュは胸に手を当て、祈りの言葉を口の中で唱える。


「今日という時に感謝し、明日へと時を渡さん」


 そっと目を開けると、夕闇の中で湖も村も、畑も果樹園も、すべてが柔らかな光に包まれていた。


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