第二十八話 春嵐の兆し2
(何で気づかなかったんだ、くそっ)
エミールは人気のない役場へと向かっていた。
(司祭様に注意するよう言われていたのに……)
水車小屋と役場の間には距離がある。エミールは青年数人に声をかけ、急いで役場に向かった。
役場の入り口の前で深呼吸をした。焦る気持ちを抑えて、ゆっくり中へ入っていく。
(おそらく狙いは家屋台帳。だとしたら……)
慎重に役場の中を進んでいく。資料が保管されているのは東端の部屋である。
資料室の前について耳を澄ます。中から微かに布が擦れる音がした。エミールは一緒に来た青年たちに目配せし、勢いよく扉を開け放った。
そこにいたのは、痩せた中年の男。棚の資料をあさっていた手が止まり、振り返る。目が合ったその瞬間、観念したように視線を落とした。
「縄だ。教会に連れて行く」
エミールの命令に、青年たちが素早く男を縛り上げる。
***
テーブルの上には捕らえた男の持ち物が並べられていた。
正教の祈りで使う祈灰、よく手入れされた工具、接着剤を入れていたであろう小瓶。そして、ひときわ目を引く琥珀飾りの懐中時計。
グランツ司祭が難しい顔をしてそれらを眺めている。
ルーシュは何気なく、テーブルに置かれた懐中時計を手に取った。琥珀の細工が美しく、古風な作りに心が躍る。裏返してみると、そこには紋章が彫られていた。
(この紋章……前に授業で見たことがあるな。確か、前王朝の紋章だったはず)
初めて見る年代物を興奮気味に眺めていると、司祭の声がした。
「ルーシュ。それは戻しておきなさい」
「……はい」
素直に応じ、そっと時計をテーブルに戻す。
結局、捕らえられた男は何も話さず、水車を壊した理由は闇へと葬られた。
(何だか、気持ち悪い幕引きだな)
ルーシュはそう思いながらも、水車を早く復旧させることに意識が向いていた。
***
トントン。
「入りなさい」
エミールは静かに部屋に入る。司祭の私室である。
「よく気づいてくれた。君がいなければ、あの男を逃していた」
「いえ、間に合ってよかったです。それより……あの男は何が目的だったんでしょう」
エミールの問いに、司祭は懐中時計を手に取り、目を細める。
「おそらく、前王朝の忠臣でしょう。いまだに前王朝の紋章入りの時計を持ち歩くなど、命知らずと言うしかない」
「……前王朝の忠臣。蜂起でも起こそうというのでしょうか」
「それはわかりませんが、あまり深追いはしないように」
司祭はエミールにそっと視線を向ける。
「わかりましたね?」
「……はい」
(こちらの動きは把握済みってことね)
その威厳のある目線につい視線を逸らせてエミールは苦笑いした。
初夏の風が窓辺をくすぐる。だがその涼やかさとは裏腹に、村の空気はどこかひやりと冷たく感じられた。




