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第二十六話 鐘が鳴る日

 春は、村の色を変えていた。雪が消え、畑の土はほろほろと柔らかくなり、山裾には小さな花々が顔を出す。村人たちの動きも、冬のあいだ縮こまっていた肩を伸ばすように、活気を取り戻していた。

 教会の前庭では、子どもたちが花を摘み、大人たちは落ち葉を掃き、鐘楼ではルーシュが手際よく祭壇の布替えを行っている。

 今日は、村の若い農夫と、隣家の娘の結婚式。この村の結婚式は村を挙げて行われる。教会も自然と力が入る。


 朝から、教会は慌ただしかった。

 エミール助祭は走り回り、グランツ司祭は祈祷文の確認に余念がなく、村の女たちは花飾りや食事の準備に追われている。


「ルーシュ、広場の白木をもう一度確認しておいて!」

「はい!」


 呼ばれるたび、ルーシュは駆け回った。白と黄色の小さな花を繋げた花冠、祭壇の前に敷かれる新しい麻布、香炉の整備。普段の静かな教会が、この日だけはざわめきと笑い声で溢れていた。


(こんなに人が集まるのは、年に数回しかないな。)


 そう思いながらも、ルーシュは忙しさの中に、どこか胸の奥がそわそわするような、不思議な感覚を抱えていた。


 昼を少し過ぎ、鐘が七つ鳴り渡る。教会の扉が開き、花嫁と花婿が腕を組んで入場してきた。村人たちは皆、振り返り、微笑み、時に目を潤ませながら二人を見守る。

 司祭の前に立つ二人の姿は、確かに晴れやかだった。


「時の秩序のもと、二つの時を重ね、この日より共に歩むことを誓いますか」


 その問いかけに、花婿と花嫁が小さく頷く。教会の窓から差し込む春の日差しが、花嫁のヴェールと花婿の肩を、柔らかく照らしていた。ルーシュは祈祷補助の位置から、その光景を見つめていた。


(こうして時は、流れていくんだな。)


 そんな思いが、胸の奥に降り積もる。



 式が終わると、広場ではささやかな宴が開かれた。

 村の女たちが持ち寄ったパンやスープ、燻製肉と果実酒が並び、子どもたちは走り回り、大人たちは歌い踊る。教会の前庭には、花のアーチが立ち、結婚した二人がその下で笑顔を見せている。

 ひと仕事終えたルーシュはいつも目にする姿がないことに気づき、庭を探した。すると、その姿を教会の裏庭で見つけた。

 エルザがひとり、石垣に腰掛けている。春の柔らかな光に包まれながら、遠く広場の賑わいを眺めていた。

 何気なく声をかけようとしたその瞬間、その唇に目を奪われた。

『で、お嬢様と、キスでもしたか?』

 エミールの茶化した声が不意に脳裏をかすめた。胸が妙にざわつく。


(エミールのやつ、面白がって!)


 咄嗟に首を振ってその考えを追い払うと、ルーシュはわざとらしく咳払いをして声をかけた。


「こ、こんなところで何してるの?」


 声が少し裏返りそうになるのを、ぎりぎりで堪えた。エルザはちらりとルーシュを振り返り、ほんのわずかに肩をすくめた。


「人が多すぎて、息が詰まりそうだったから。」


 そう答える彼女の横顔は、どこか影が差しているようだった。春の風が、ほどけた髪をふわりと揺らす。その揺らぎにルーシュの視線が引き寄せられ、思わず一瞬、言葉を失う。喉がひどく渇くのを感じて、ごまかすように視線を逸らした。

 二人はしばらく何も言わずに、賑わう広場を眺めていた。けれどルーシュの胸の内では、どこかそわそわと落ち着かない感覚が渦巻いている。


(なんでだろう。今までは、何も考えず隣にいられたのに……)

「幸せそうだったね、今日の二人。」


 沈黙に耐えきれず、ルーシュはぽつりと言葉をこぼす。聞こえないふりをされたらどうしようと一瞬びくりとしたが、エルザは小さく頷いた。


「うん。でも……なんだろう。素直に祝福できない自分が嫌になっちゃった」


 エルザは地面に視線を落とし静かに呟いた。


「……わたしにはない未来に嫉妬したのかな…」


 そう言うと振り向き、ルーシュの目を見た。


「……この意味……わかる?」


 エルザの少し不安そうな、それでいて熱を持った視線に目が離せなくなる。ルーシュは大きく息を呑む。

 雪山で見たあの不安げな目と重なり、胸の内に熱いものが広がる。あの時の腕の温もりが頭をよぎり、鼓動が少し早くなる。


「えっと……僕はーー」


 話し出したルーシュをエルザは遮った。


「いいの。答えがほしいわけじゃないから」


 そう言った後いつものように微笑み続けた。


「向こう行こう。そろそろ白木に火をつける時間だよ」


 その言葉とともに、風がふっと二人の間をすり抜けていった。ルーシュは頷きながらも、鼓動の早さが戻らないまま、エルザの後を追った。


 

 祭りの喧騒が一段落し、広場には徐々に静寂が戻りつつあった。あたりは淡い薄闇に包まれ、教会前の石畳の中心には一本の柱『祈りの柱』が立っていた。節目の少ない白木の柱。高さは人の背丈よりも少し高く、何の装飾もないその姿が、逆に神聖さを帯びて見える。

 芯には火を保つ麻の繊維を巻いてあり、表面には異なる五種類の水溶液が染み込ませてある。

 下から順に、五色がゆっくり移り変わって燃える。人生の移ろいを表すように。

 

 司祭が祈りの言葉を述べ、柱の最下部に点火された。火は、やがてゆっくりと木肌を舐め始めた。焚き上げではなく、一本の導火線をなぞるように、火は徐々に上方へと伸びていく。

 最初に広がったのは、澄んだ青い炎だった。

 焰は無音で揺れ、まるで夜の湖面が立ち上がったような透明感を帯びている。

――これは、銅の塩による青。すべての始まり。命の胎動を象徴する色。

 次に、青が緑へと溶け込んでいった。柔らかな緑の炎は、風に吹かれる草原のように、穏やかに明滅している。

――これは、ホウ素による緑。畑の芽吹きや、村の平和の祈り。生命が育つ色。

 やがて炎は、赤へと染まる。鮮やかで、どこか情熱的な赤。

――これは、ストロンチウム。人が誰かを想い、守ろうとする心。愛の色。

 炎はやがて黄金色へと変わる。温かな麦の色、陽光の色。

――これは、実りの象徴。ナトリウムの淡い光。豊かさと、日々の祈りへの感謝の色。

 そして、最後に淡い紫の光が滲むように現れる。終わりを告げる色。それは別れを意味しながらも、新たな旅立ちを祝う静かな色でもあった。

 群衆は声を潜め、誰もがその移り変わる炎に見入っていた。

 音もなく、言葉もなく、ただそこに在る色の流れだけが、時間を語っていた。青から緑へ、緑から赤へ。


「……人生って、美しいね」


 ふと、エルザがぽつりと呟いた。風が彼女の髪をかすかに揺らし、声までふわりと運んでいくようだった。

 ルーシュはその言葉に、そっと目を伏せた。


「うん。……だからこそ、儚くて、もどかしい」


 それ以上の言葉は浮かばなかった。ただ、何かを包み込むように、ルーシュはエルザの手に、自分の手をそっと重ねた。

 火の柱は、やがて細くなり、静かに息を引き取るように消えていった。残されたのは、月光に照らされた白い台座と、ふたりの姿。

 淡い光が地面に静かに降り、重なり合ったふたつの影を、そっと浮かび上がらせる。風に揺れる草の音のなか、その影は微かに寄り添い、長く、静かに伸びていた。

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