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第二十四話 水路に流れる時

 春の兆しは、まだ冷たい風の中に、ひっそりと芽吹いていた。村を覆っていた雪は少しずつ溶け始め、道端の土が顔を覗かせる。木々の枝先には固い蕾がふくらみかけ、教会の鐘楼から見下ろす村にも、春の準備が確かに進んでいた。

 『芽吹きの祈り祭』――

 毎年四月、雪解け後の最初の満月に行われる、村人たちの豊作祈願の祭。教会の前では祭りに向けて祭壇などの準備が進められていた。

 そんな穏やかな空気の中、広場の一角で刺々しい声が飛び交っていた。


「うちの畑には水がほとんど流れてこない!」

「そっちが水を取りすぎてるんだろう!」

「ふざけるな、昔から同じ作業しかしてない!」


 どうやら村人たちが水路を巡って言い争いをしているようだった。

 エミール助祭がすかさず間に入る。


「落ち着いてください、皆さん。事情を順に聞かせていただけますか」


 大声を出していた若い村人が少し口ごもりながらも訴える。


「あちらの畑が水を取りすぎて、こちらの南の畑まで水が来ないんです」

「俺たちは何も変えていない。文句を言う前に、そっちの水路の整備を見直したらどうだ」


 再び声が荒れ始めたところで、エミールが苦笑を浮かべ、両手で静止の合図を送る。


「状況はなんとなくわかりました。明日、教会の者を確認に行かせますので、それまで、どうか冷静にお待ちください」


 村人たちは不満そうな表情をしながらも静かに頷いて、その場を後にした。


***


 翌日、ルーシュは教会の工房仕事を終えた後、一人で畑を訪れた。

 グリュンヴァルト村は北に山林を抱え、そこから流れ出た川が村の中央を左右に横断し教会裏の湖へと流れていく。その川を挟んで北側には果樹園があり、南側には畑が広がっている。この川のすぐ南に位置するのが、元々あった北の畑である。そこから取水された水は一本の水路を通り、北の畑を潤したのち、そのままさらに南に延ばされて、新たに開墾された南の畑にも流れるよう整備されていた。 

 もともと北の畑しかなかった時代、一本の取水口と水路で十分だった。しかし、人口の増加により畑の拡張が進み、南にも耕作地が広がった。だがその結果、北の畑の支流に多くの水が分かれ、南の畑へは十分に水が届かなくなっていた。

 ルーシュは水路脇にしゃがみ、目を細めて流れを観察する。


(北の支流に水が偏ってる……しかも、土の堆積で流れがさらに悪くなってるな)


 川からの取水口は一本。そこから分かれた水路が北と南の畑に引かれている構造だ。だが、北の支流の方が低く、かつ水流が強いため、柔らかい土が流され、南の水路に堆積している。その高低差と堆積土が、水量不足に拍車をかけていた。


「お分かりいただけたでしょう?北の畑で水を使いすぎなんですよ」

「いやいや、昔から何も変えていない。変な言いがかりをつけるな」

「昔と今では事情が違うんです。変わっていないことが、今は問題なんですよ」


 北の畑、南の畑、どちらの村民もそれぞれの言い分がある。だが、誰もが悪意をもって行っているわけではない。仕組みに無理が生じているだけなのだ。


(どうすれば、誰も争わずに済むか)


 そのとき、頭の中に、教会の工房で見た水時計の仕組みが浮かんだ。水が、時を刻み、均等に流れを告げる――

 もし、この原理を応用すれば。


***


 数日後。教会裏の工房には、歯車や木材、水車の部品が並び、ルーシュは木槌を手に黙々と組み立て作業に取りかかっていた。


「本当に、作る気か?」


 教会技術者のルドルフが、呆れ半分、感心半分の声を上げた。


「ええ。争いが起きるなら、人の手から離せばいいんです。時間と水が、自分たちで決めればいいんです」


 ルーシュの目には、幼い頃と変わらぬ真剣な光が宿っていた。

 彼が作ったのは、自動切替式の水門カラクリ。


・一定量の水が貯まると、重りが沈み歯車が回る。

・水門が開閉し、北と南の支流へ交互に水を流す。

・人の手を介さず、「時の力」で公平な流れを保つ仕組み。


 それは、まさに水時計の原理を畑の水路に転用したものだった。


***


 試運転の日。村人たちは水門の前に集まり、不安と期待が入り混じった面持ちで装置を見つめていた。

教会の鐘が、正午の時を告げる。


「始めます」


 ルーシュは静かに告げ、堰き止めていた板を外す。雪解け水が勢いよく流れ込み、組み上げた水車を回し始めた。木の歯車が音もなく回り、内部の重りが少しずつ沈む。

 次の瞬間――

 カシャン。

 静かな音とともに、水門が切り替わった。これまで北の畑の支流へ向かっていた水が、南へと流れ始めた。村人たちから、ざわめきが起こる。


「……動いた!」

「本当に、南に流れ始めたぞ!」


 老人たちは目を丸くし、若者たちは顔を見合わせる。

 司祭は、にこやかに言った。


「時の導きの証です。均しく流れる時と水こそ、恵みの根源なのです」


 しばらくして、水門は再び切り替わり、北の支流へと戻った。


「これで終わりではありません。皆さんにも協力していただきます」


 ルーシュは村人たちを見渡して、はっきりと声を上げた。


「上流の土が下流に堆積しないよう『沈砂池』を北の畑の水路出口に設けます」

「……沈砂池?」

「はい。水路の途中で水流を遅らせ、そこに一度土を沈めるのです」

「なるほど……そんな方法が…」


 いがみ合っていた村人たちも目を見合わせた後、ルーシュの方を向き直り頷いた。


「よし、やってみるか!」

「力仕事は任せろ!」


 笑い声と共に、争っていたはずの村人たちが協力の輪を作っていった。。


***


 芽吹きの祈り祭当日。

 教会前には、今年も多くの苗と種が並び、グランツ司祭とエミール助祭が祈祷を捧げている。

 ルーシュは祭壇の傍らで、時と暦の話を子どもたちに語った。


「種が土に還り、芽吹き、実り、また時は巡る。僕たちはその巡りの中で、生きているんだ」


 その言葉に、子どもたちは小さく頷き、村人たちも静かに耳を傾けた。


 やがて祭りが終わる頃、教会の門の外に一人の訪問者が現れた。地方教区から派遣された高位聖職者である。

 祭りの視察に訪れ、村の様子を見て回っていた彼は、ルーシュの作った水路の仕掛けに目を留めた。


「この装置は君が考えたのか」


 声をかけられたルーシュは、少し驚いたように頷いた。


「はい。ただ、水と時を、公平に流したかっただけです」


 聖職者はしばし目を細め、こう言った。


「面白い。時を使って人を導こうとする者――そう多くはない」


 その言葉は、ルーシュの胸に小さな灯をともした。

 この手で、時を動かし、人を導く。その道は、もう始まりつつあった。

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