第二十三話 暦を渡る春~グランツの記憶~
春の訪れを知らせる風が、まだ冷たい空気を連れて村を撫でていく。
丘の上に立つ白衣の男は、その風をまっすぐに受け止めながら、眼下に広がる村を見下ろしていた。
彼の名はグランツ・フェルナー。新王朝の命により、この村にヴェルツ正教を広めるため派遣された若き司祭だった。齢三十を少し過ぎたばかり。信仰の地を耕すには、まだ新しい手である。
眼下には、石造りの家々と、それを縫うように流れる水路。冬が去りかけた畑では、数人の農夫が鍬を振るい始めていた。
(ここが、私の任地か……)
胸に小さく息を吸い込んで、グランツは足を踏み出した。
*
領主館の広間。
グランツは、村の領主――現領主の父であり、エルザの祖父にあたるコンラート・フィンケルと向き合っていた。
「本日より、グリュンヴァルトの教会をお預かりいたします。どうぞよろしくお願いいたします」
「ようこそお越しくださいました、司祭殿。ヴェルツ正教が国教となった今、この村にもいよいよその時が訪れたということですね」
書斎の机には、年季の入った木製の暦板が広げられていた。太陽の動き、星の巡り、農の節目が刻まれた板。村人が代々、自然とともに暮らしてきた証である。
「国からのお達しは、拝見しております。ヴェルツ正教の暦に従い、春の始まりに十日ほど日を進める……でしたな」
「はい。それに伴い、鐘の刻限も合わせて調整いたします」
グランツは、革張りの『時の暦』を机に並べた。天体の動きと祈りの刻が重なるこの暦は、春分を起点とし、日々の祈りをより精密に導くものだった。
「この村の多くは農家です。昔から、自然の神々を敬う文化を大切にしてきました。太陽に感謝し、山の神に祈り、川に酒を流して豊作を願う……そんな風習が今も息づいております」
領主は懐かしむように語りながら、机の端に置かれた一本の麦の穂を指でなぞった。
「……春の訪れを肌で感じて暮らしてきた者たちにとって、『日にちを十日飛ばす』という響きは、容易には受け入れられません」
「ええ、承知しております」
グランツは静かにうなずくと、手製の図板を懐から取り出した。太陽の高さ、星々の運行を図と絵で表したもので、文字が読めない村人にも視覚で理解してもらうために工夫を凝らしたものだ。
「日の出や日の入りが変わるわけではありません。ただ、私たちは時間の数え方を調整することで、より自然の理に即した祈りと農を実現できるのです」
その説明に、領主は目を丸くしたのち、くつくつと笑った。
「流石に、丸腰でお越しになったわけではなかったのですね」
人懐こく笑うグランツに、領主の口元も自然と緩んでいた。
***
早速、教会前にて村人たちを集めた説明会が開かれた。だが、その場の空気は、予想を超えて重苦しかった。
「十日も時間を飛ばすってのか……それは時間をいじるってことだろう?」
「種を蒔く時期がずれたら、収穫に響くじゃないか」
「時間を弄るなど……神罰がくだる……我々は騙されんぞ」
教会前に集まった村人たちは、ざわつき、不安げな視線を交わしていた。年老いた者ほどその動揺は深く、長く慣れ親しんだ季節の手触りが崩されることへの反発は根強かった。
しかし、このような厳しい状況でも領主は落ち着いていた。
「司祭殿、焦らずに参りましょう。すぐには受け入れられません。時間がかかるのは当然のことです」
「ありがとうございます。そう言っていただけるだけで助かります」
その一言に、グランツは心から救われた。この村には、少なくとも理解しようとする意志がある――そう感じた。
翌日も、その翌日も、グランツは村を歩き回った。家の戸口で頭を下げ、畑の端で話を聞き、教会の扉を開けて待ち続けた。ときに冷たい視線を浴び、ときに石を投げられることもあった。
それでも諦めなかった。
領主もまた、村人一人ひとりと語らい、根気強く説得を重ねていった。
「領主様が言うなら……」
「その方がいいなら……」
そんな声が、少しずつ、教会の鐘とともに村に広がっていった。
国教となり、国が令を出しているのだから、無理やり押しつけることもできた。だが、グランツはそうしなかった。納得してもらうこと――その道を選んだからこそ、春の初めにヴェルツ正教の鐘はこの村に響いたのだった。
***
「……あまり大きな騒ぎにならずに済んで、本当に良かったです」
夕刻。暖炉の火が柔らかに揺れる領主館の一室で、グランツがほっと息を吐いた。
「はは、あなた様が柔軟な対応をしてくださったおかげです」
領主は笑い、窓の外――かつての祈り場が改修された教会を見つめた。
「昔から皆が大切にしてきた祈り場を取り壊さず、再び村人たちに神聖な場として提供し、御神木も引き続き尊きものとして扱ってくださる。誰しも、自分が信じてきたものを否定されることには抵抗があるでしょう。それを受け入れてくれただけでも大きいですよ」
そして、ふと懐かしげに言った。
「それに……以前の神父様が、あなたの前に立つ者として、丁寧に皆に話してくださっていたのです。ヴェルツ正教についても」
グランツは素直に驚き、頭を垂れる。
「いやはや、なんとも懐が深いお方で。頭が上がりませんな」
そして、お互いに微笑んだ。
「それにしても、領主殿がこれほどまでに正教にご理解を示してくださるとは。正直、心強くもあり、不思議でもありました」
司祭は率直な疑問を口にする。
「なに、私はヴェルツ正教を買っているのですよ」
そう言って、領主は窓の外に視線を向けた。夕暮れの中、子どもたちが笑いながら雪解けの庭を駆け回っている。
「幼子に読み書きを教え、理を授けてくださる。これほど有難いことはありません。私はただ、この笑顔がこの先も、広く明るい未来に繋がっていくことを望んでいるだけです」
その横顔に、父のような優しさがにじんでいた。
グランツもまた、その視線を追って子どもたちを見つめた。そして、静かに心の中で誓った。
(この村に、時の恵みを届けよう。信仰と理が、共に歩む未来のために――)




