第二十二話 旅路の扉を叩くとき
冷たい風が少しずつ緩み、屋根から溶けた雪がしずくとなって滴る季節になった。それでも村の道はまだ凍りつき、踏みしめるたびに細かく砕けるような音が足元から響いた。
ルーシュは祈祷の合間に境内を歩いていた。手に持った箒は、気づけば止まっている。雪の白さが溶け始めたこの季節になっても、頭の中は晴れないままだった。
(……あんなに近くで顔を見たのは、久しぶりだったな)
思い返すたび、胸の奥がそわそわと揺れる。
「……やれやれ、春先とはいえ、ずいぶん冷え込んでるな」
ふいに背後から声がして、ルーシュははっと振り返る。声の主はエミール助祭だった。懐から木の実を取り出し、ぽんぽんと手のひらで転がしている。
「そんな顔してたら、冬が居座っちまうぞ」
エミールはそう笑うと、ひょいと木の実を投げてよこす。とっさに受け止めたルーシュは、拍子抜けしたように眉を上げた。
「……懐かしいですね。昔、これで的当てして遊びましたよね」
「ああ。おまえがまだ小さかった頃だな」
エミールは目を細め、どこか遠い日の景色を見るようだった。
「たまにはやるか?ほら、あそこの柵に当てるんだよ」
エミールが指さした先には、積雪で一部だけ顔を出した木の杭。ルーシュは苦笑しつつも、木の実を握り直すと、軽く振りかぶって投げた。コツンと乾いた音を立てて木の杭に当たる。
「お、まだ腕は鈍ってないようだな」
エミールが笑い、隣で同じように投げる。二人で交互に木の実を投げるうちに、ルーシュの表情も少しずつ和らいでいった。
「……で?」
ふとエミールが呟く。
「お嬢様と、キスでもしたか?」
ルーシュは反射的に手の中の木の実を落としかけた。慌てて拾い上げながら、耳まで赤く染まる。
「……な、なんでそうなるんですかっ!」
「そりゃ、顔に書いてあるからな」
エミールはからからと笑うが、どこか優しさが滲んでいる。
「おまえ、昔からそうだったよな。考え込むと眉間に皺が寄る。大事なときほど、すぐにわかる」
ルーシュは苦笑を浮かべながらも、返す言葉が見つからない。ぐるぐると絡まる思考に、まだ整理のつかない気持ちが奥に残っていた。
エミールは木の実を手のひらで転がしながら、少し声を落とした。
「……それとも、進学の話か?」
その問いに、ルーシュは小さく肩を揺らし、視線を落とす。
「……はい」
短く返した声には、戸惑いと焦燥が滲んでいた。
「行きたいんです。けど……胸のどこかで、ずっと踏み出せずにいて」
その先の言葉を呑み込む。エミールは深くは聞かず、黙って次の一投を放った。小気味よく杭に当たって、乾いた音が空に広がる。
「……なあ、ルーシュ」
木の実を見つめたまま、エミールが穏やかな声で言った。
「春ってのは、なかなか来ないもんだ。けど、立ち止まったままじゃ、なおさら届かない」
ルーシュは思わずエミールの横顔を見る。その表情には、からかいも冗談もなかった。
「誰かのために迷えるのは立派なことだ。でもな、誰かの顔色ばかり見てちゃ、おまえ自身が霞んじまうぞ」
その言葉に、ルーシュは小さく目を伏せた。
「おまえはもう、自分の道を選べる年になった。――その手で、未来をつくれる時にいる」
エミールは、最後の木の実をぽんとルーシュの手のひらに乗せる。
「村のことも、お嬢様のことも、忘れなくていいさ。持っていけばいい。大事なものは、どこにいたって、おまえの中にあるんだから」
ルーシュは黙って木の実を握りしめた。手のひらに伝わるぬくもりが、胸の奥の迷いを少しずつ溶かしていく。
「……ありがとうございます」
「よし、その顔だ」
エミールが軽く背を叩く。
ルーシュは頷き、杭に向かって最後の一投を放った。空を切った木の実は、迷いなく飛び、まっすぐに杭を打った。その音は、雪解けの大地に響く、春の予感のように澄んでいた。
***
春先のまだ冷たい風が、村の鐘楼を軽やかになでていく夕暮れ時。
わずかに緩み始めた雪解け水が石畳を濡らし、遠くの木々の梢では小鳥たちが冬の終わりを告げるようにさえずっていた。
ルーシュは一通の手紙を胸にしまいながら、教会の奥へと歩みを進める。外套の裾がほんの少し春の風に揺れ、足元のまだらな雪を踏みしめる音が静かに響く。
司祭室の扉の前で一度足を止め、深く息を吸い込んだ。外気はまだ冷たいはずなのに、手のひらにじわりと汗が滲んでいる。それでも、心にはもう迷いはない。
「失礼します」
扉を開けると、グランツ司祭が帳面に目を落としつつ、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「どうした、ルーシュ。春とはいえ、まだ風は冷たいな。外に出るのは堪えるだろう」
「はい。でも……今日は、話したいことがあって」
ルーシュは言葉を選びながら、司祭の机の前に立った。冬の間にしっかりと磨き上げられた机の上に、春の光が柔らかく差し込んでいる。
「司祭様。……僕、次の秋に王立神学校に進みたいと考えています」
ペンを走らせていた司祭の手が、一瞬だけ止まる。ほんの僅かな間。けれどルーシュには、それがひどく長く感じられた。
司祭は静かにペンを置き、顔を上げる。その瞳にはいつもと変わらぬ穏やかな光が宿る。だが、その奥底にほんの翳りが潜んでいるようにも見えた。
「……そうか」
選び取るように紡がれた司祭の声は落ち着いていたが、確かな重みを伴っていた。
「ルーシュ、おまえは優秀だ。村の中でも群を抜いている。それは確かに誇らしいことだ。しかし……」
言葉を切り、指を組み合わせる司祭の手元に春の陽が淡く映える。
「王都は、この村とは比べものにならぬほどの喧騒と混乱の中にある。あそこには、表には出ぬ争いや陰謀も渦巻いていると聞く。おまえのような者が、そうした場に踏み込むのは……心配だ」
ルーシュは司祭のまなざしを正面から受け止めた。まるで冷たい風が胸をすり抜けるような感覚。それでも、視線は揺らがない。
「それでも、僕は行きたいんです」
言葉に静かな力を込める。
王都にどれほどの危険が待ち受けているかは、司祭が語るまでもなく知っている。それでもなお、胸の奥からあふれる「知りたい」という願いは、彼を突き動かすのだった。
「教えていただいた学びを、この村だけで終わらせたくありません。僕はもっと多くを見て、知りたいんです。たとえ危険があっても」
司祭はしばらくルーシュを見つめていた。静かに、けれど深くその瞳の奥を探るように。
(……そうか。おまえはもう、村の小さな歯車に留まる子ではなくなったのだな)
心の中でそう呟きながら、司祭はかすかな息をつき、目を伏せる。春の風が教会の窓をかすめ、やわらかな光が机上に広がる。
「おまえは昔からそうだったな。疑問を持ち、知ろうとすることを恐れない子だった」
微笑みが司祭の口元に浮かぶ。どこか懐かしむような、遠くを見るような眼差しで。
「……しかし、忘れるな。学びは力にもなれば、災いにもなる。世の中には、知りすぎるがゆえに踏み込んではならぬ領域があるということを」
「はい。わかっています」
ルーシュは力強く頷いた。
司祭は立ち上がり、背後の棚から一冊の古びた祈祷書を取り出す。手にしたそれをそっとルーシュに手渡しながら、静かに告げた。
「これを。お前が何処にあろうと、祈りの心だけは忘れるな」
「ありがとうございます、司祭様」
ルーシュは深く頭を下げた。
春の光のなか、ふわりとした温もりが祈祷書から伝わるようだった。
司祭は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。ルーシュが部屋を出た後も、ふと祈祷書を戻した棚に目をやる。胸の奥に沈む重い想いを、そっと自らの内に押し込めながら。
(この手で送り出すことになるとは……)
その思いを顔に出すことはない。ただ、一人の若者の旅立ちを見守る大人として。
村の平和を願う司祭として。いつも通りの微笑みで、春めいてきた窓の外を眺める。
「コンラート殿。ちゃんとこの村の若者が育っておりますぞ」
そう静かに呟いた。




