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第二十話 時の始音

 冬の村は、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。山々は雪の冠を戴き、朝ごとに降り積もる白の帳が、グリュンヴァルトの景色を静かに変えていく。

 畑は眠りにつき、家々の煙突から立ちのぼる白い煙が青空に溶ける。子どもたちは厚手の上着に身を包み、雪玉を握りしめながら笑顔で駆け回っていた。

 教会の塔にも雪が積もり、凍えた風が風見鶏を軋ませている。ルーシュは吐く息が白く染まるのをじっと眺めながら、回廊を歩いていた。朝の冷気が頬を刺すたび、胸の奥に澄んだ静けさが染みわたっていく。


「ルーシュ」


 呼び止めたのは、教会の時計技師ルドルフだった。その手には羊皮紙が握られている。手袋越しでも感じるような重みがあった。


「新年の時合わせだ。今年はお前にも任せるぞ。広場だけでなく、村中の時計を調整してくれ。時間の帳尻を合わせるのは、神に仕える者の務めだ」


 ルーシュは思わず息をのむ。胸の内で小さく波紋が広がる。

 長く見守ってきた師が、ついにこの仕事を託してくれるのだ。心臓を静かに打つ音が、雪の静けさに溶けて響く。


「はい。承知しました」


 深く頷いたその声が、わずかに震えていたのは冷えのせいだけではない。任される重みと、それを越えるほどの喜びが胸に満ちていた。


 新年初日の朝六時。

 村中の時計のゼンマイを巻き直し、すべての時計の「最初の秒針」を揃えて動かす。教会の鐘楼が目覚めの鐘を響かせるとき、村人たちは懐中時計を手に広場へ集まる。その瞬間から、村の一年が始まるのだ。

 ズレた時の流れに身を任せることは、時を司る神への背き。だからこそ、広場に来られぬ者たちの家を訪れ、眠った時計に息を吹き込む。それもまた大切な務めだった。


 ルーシュは準備のために工具を取り出し、ひとつひとつ丁寧に磨き上げる。布で金属をなでる指先に力がこもる。小さな歯車や針が微かに光を宿していくのを見つめながら、静かに祈りを重ねた。


(この針ひとつひとつが、人々の一年を決めるんだ)


 その思いが胸の奥に温かな灯をともす。生まれ育ったこの村で、人々の時に触れられる誇らしさが、じんわりと湧き上がる。

 けれど――。

 ふと、手を止めたルーシュの胸に、遠く離れた都の景色がよぎった。王立神学校。そこではもっと大きな時が流れ、無数の歯車が世界を動かしているのだろう。そこに立てば、自分はどれだけの時を刻めるのか。この村で感じる温もりと引き換えに、何を得るのか。問いは、胸の奥で静かに揺らぎ続ける。

 雪に染まった工具を再び手に取りながら、ルーシュはそっと息を吐いた。白く溶けていくその吐息に、曖昧な迷いを乗せて。それでも手は迷わず次の工具へと伸びていた。


(まずは、今できることを)


 自らを戒めるようにそう心の内で呟き、ルーシュは磨き続けた。道具の光沢の向こうに、新たな年の光がかすかに射し込むのを感じながら。


***


 迎えた新年の朝。

 薄闇がゆっくりと後退し、東の空が白んでゆく。村は、ひんやりと澄んだ空気に包まれていた。吐く息が白く染まり、耳を刺すような冷たさがありながら、それすらも清らかに感じられるほどだった。

 広場ではすでに村人たちが肩を寄せ合いながら集まっていた。老若男女がそれぞれの懐中時計や置時計を手にし、どこか誇らしげに胸の前に掲げる姿があった。目にはわずかな眠気と、それ以上の期待が宿っている。子どもたちは背伸びして教会の鐘楼を見上げ、年配の者たちはそっと時計を撫でながら静かにそのときを待つ。


 やがて、まだ薄明かりのなかで、教会の鐘が六時を告げる。澄んだ音色が空を切り裂くように響きわたり、静まり返った広場にゆっくりと満ちていく。

 司祭が一歩前に進み出ると、顔をあげて両手を広げた。その声は冷たい朝の空気を震わせるように力強く響いた。


「時の神よ、新しき年の扉を開き給え。ここに集いしすべての命が、正しき歩みを刻まんことを!」


 短くはあったが、その祈りには清らかな熱がこもっていた。人々が自然と頭を垂れる。寒さで震える肩が、次第に穏やかに鎮まっていく。


「今より、すべての時を正します!」


 司祭の宣言とともに、広場の空気がふっと動いた。ルーシュもまた、懐中時計のゼンマイを巻き直す。

 隣の村人がくるりとキーを回す音、子どもが両手で頑張って持ち上げた小さな時計の針がかすかに震える音。それらが静かな音楽のように重なり合う。

 一斉に、村人たちの時計が新しい一年の最初の秒針を刻み始めた。

 カチリ、カチリ。

 その律動が、村全体に新しい息吹をもたらす。

 ルーシュは胸に手を当て、閉じた瞼の奥で秒針の動きを思い描く。耳に響くのは鐘の余韻と、いま確かに動き出した「時」の音。静かでありながら、どこか胸を高鳴らせる響きだった。


(どんなに迷おうが、時は常に進み続ける。なのに、僕は何に惑っているのだろうか……)


 胸の内で問いかけながらも、時計を持つ指先にわずかな力がこもる。朝の光が少しずつ広がるなかで、村の一年が、静かに、しかし確かに幕を開けた。


***


 ルーシュは、雪を踏みしめながら領主の家へと向かう。領主の家の広間に備え付けられている大時計の調整に来たのである。門前では、凍える空気のなかでも堂々とした佇まいを見せる石造りの建物が、朝日に照らされ始めていた。


「おや、お早うございます。」


 扉を開けた執事が、ルーシュを見るなり穏やかに微笑む。


「奥様とお嬢様は広間でお待ちです。どうぞこちらへ」


 ルーシュは深く礼をして邸内へと足を踏み入れる。靴の雪を軽く払うと、石の床にひやりとした感触が伝わった。案内に従って歩く広間への道のりは、冬の朝の静けさとともにどこか背筋が伸びるような緊張感が漂う。


「おはよう、ルーシュ」


 広間には、エルザとエルザの母親が待っていた。


「奥方様、おはようございます。大時計のお清めに参りました」


 ルーシュは深々と頭を下げ、丁寧に挨拶をした。今日は教会の命で訪れた聖職者である。いつまでも神学生だからと甘いことは言っていられない。王都神学校に行くか行かないかは関係なく、もう立派に教会の一員として扱われる年齢となってきている。


「お願いするわ」


 奥方の静かな声に、ルーシュは再び一礼し、大時計の前に膝をつく。

 滑らかな真鍮の振り子が、冬の冷気を受けながら静かに揺れている。昨日磨き上げた工具を取り出し、慎重に歯車を調整していく。金属の触れる音が、広間の静寂のなかで小さく響く。まるでこの家の時そのものに触れているかのようだった。


 一通りの作業が終わり一息ついたとき、背後からエルザが声をかけた。


「終わったの?」

「うん、これで大丈夫。今年も正確に時を刻めるよ」


 そう言いながら振り返ると、薄桃色のドレスの上に白いケープを羽織っていつもより粧し込んだエルザの姿に一瞬目が奪われた。そして、それを察せられないようにすぐに片付けを始めた。


「もう行くの?」

「今日は回る家がたくさんあるからね」

「...そう」


 少し残念そうに聞こえたが、気にせず立ち上がった。


「それでは、これで失礼いたします」


 最後まで教会の務めとしての礼節を崩さぬようルーシュは丁寧に挨拶をし、その場を後にした。



 ルーシュが後にした広間では、正確な振り子の音が響いていた。


「エルザ、ルーシュはだいぶ大人な顔になったわね。何か大きな決断でもしたのかしら」


 エルザの母親は幼い頃から見てきた、娘の幼馴染を愛おしむように窓の外に目を向けた。 ふと漏れたその言葉に、エルザははっとしてルーシュの真剣な横顔を思い出す。胸の奥に、言葉にならないざわめきが広がった。


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