表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/125

第十九話 時を紡ぐ手

 冬は、村のすべてを白く塗りつぶしていた。

 教会の鐘楼も、広場も、畑も、雪に覆われ、まるで時そのものが凍りついたかのようだった。

 教会の工房の窓にも、うっすらと霜が降りている。その小さな明かりの中、ルーシュは机に向かい、黙々と歯車を磨いていた。

 目の前にあるのは、古びた懐中時計。文字盤は黄ばんで煤け、針は折れ、裏蓋の刻印もほとんど読めない。

 助祭が倉庫の片付け中に見つけ、「もし直せるなら試してみろ」と渡してくれたものだった。


 工房の扉が、冷たい風に押されてきしんだ。

 教会時計技師、ルドルフ・アイゼンベルクが、雪を払うように肩をすぼめて入ってくる。

 煤けた革の作業着に、分厚い指先。それでいて、どの部品よりも繊細に小さな歯車を扱うその手が、ルーシュにはいつも誇らしかった。


「また遅くまでやってるな」


 ルドルフは口元を緩めつつも、どこか呆れたような声で言う。

 それでも、すぐに手元の懐中時計に視線を落とすと、職人の顔になる。ルーシュは苦笑しながら、歪んだ歯車を指差した。


「これ……直したいんです。でも、ここの歯車が、噛み合わなくて」


 ルドルフは椅子を引き寄せ、ルーシュの隣に腰を下ろす。

 机の上には分解された懐中時計。歯車はすべて外され、ゼンマイはほどけたままだった。


「歯車だけじゃない」


 ルドルフは懐中時計の外枠をつまみ、内側の留め具を軽く叩く。


「油が乾いてるし、ゼンマイも疲弊してる。軸受けの摩耗も進んでるな」


 そう言って、丁寧に虫眼鏡を覗き込む。


「でも、それでも、直そうとしてるんだな」


 ルーシュは真剣な面持ちで頷く。


「……はい」


 そのひと言に、ルドルフはふっと息を漏らし、懐中時計を手のひらで転がすように眺めた。


「昔な」


 唐突に、懐かしむような声が落ちる。


「俺が王都で学んでいた頃、教授がよく言ってたんだ」


 ルーシュは顔を上げる。

 ルドルフの視線は遠くを見つめている。


「『時計を動かすのは、歯車でもゼンマイでもない。人の手と心だ』ってな」

「人の手と、心……」


 ルーシュは呟く。

 ルドルフは、軽く鼻で笑った。


「どれだけ精巧な機械でも、最後は手で組み上げ、心で命を吹き込まないと動かないってことだ」


 ルドルフは歯車の一つをつまみ上げた。光沢の鈍い真鍮の歯車。微細な傷が、その表面に淡く光る。


「王都の神学校にはな、世界中の部品が集まる。技術者も学者も集まって、より正確な時を刻むために日夜研究してる。歯車ひとつひとつの役割を突き詰めて考える場所だ」

「……そんなに、すごいんですか?」


 ルーシュは釘付けになる。

 ルドルフは笑って首を振った。


「すごいなんてもんじゃない。国の頭脳だよ。たとえばこの地板ひとつでも、王都じゃ『百年は狂わない時計』を目指して加工される。ここじゃ真似できない職人芸だ」


 ルーシュはじっと歯車を見つめた。手の中の部品が、別の輝きを持ち始める気がする。


「でも、ルーシュ。おまえはもうそれに気づき始めてる。そうだろ?」


 ルドルフは懐中時計を机に戻しながら、ふっと微笑んだ。


「この村の時を整えるだけじゃなく、その先を見ようとしてる」


 ルーシュは一瞬、返す言葉に詰まる。


「……でも、僕はまだ、歯車ひとつまともに削ることもできません」


 正直に答えるその声には、悔しさよりも冷静な自覚が滲んでいた。

 ルドルフはその様子に、満足げに頷く。


「それでいい。焦るな。お前には時間がある。歯車と違ってな」


 二人の間に静かな時が流れる。時計のカチリ、カチリという音が、工房の空気を刻んでいた。

 その夜。

 作業を終えて明かりを落とした工房で、ルーシュはふたたび机に戻る。

 蝋燭の光がゆらめくなか、懐中時計が静かに横たわっていた。


「僕は、まだ未熟だ」


 胸の内で静かに言葉を転がす。

 歯車の噛み合わせ。ゼンマイの巻き戻し。油の量、軸受けの緩み。ひとつひとつ、確かめるように指先を動かす。

 ルーシュは自分の手をじっと見つめた。

 かつては力がなくて井戸の水すら引き上げられなかった指先が、今ではこうして精密な作業をしている。

 それでもまだ、この歯車を完璧に削るには足りない。


(……もっと技を学びたい。)


 ふと、昼間のルドルフの言葉が蘇る。王都の神学校。百年狂わぬ時計。

 胸の奥で、何かが音を立てて回り始めた。

 だが、心のどこかで自らに問う。


(僕に、それができるのか?)


 まだ答えは出ない。けれど、その問いが生まれたこと自体が、昨日までの自分と違う証だった。


***


 数日後。

 工房の外では、雪がちらつき始めていた。

 ルーシュは息を吐き、白くかすむ視界のなかで懐中時計の蓋をそっと閉じた。

 時計は、完全ではない。けれど今この瞬間、針は確かに時を刻んでいる。その音が、胸の内にしっかりと響いた。

 ルーシュは胸元の琥珀のペンダントにふれる。


「……まだ、答えは出ないけど。」


 ペンダントの重みが、わずかに彼の胸の上で揺れる。


「きっと、もっと遠くの時が、僕を待っている」


 鐘の音が雪空に溶けていく。その音は、まだ見ぬ未来を静かに告げていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ