第十九話 時を紡ぐ手
冬は、村のすべてを白く塗りつぶしていた。
教会の鐘楼も、広場も、畑も、雪に覆われ、まるで時そのものが凍りついたかのようだった。
教会の工房の窓にも、うっすらと霜が降りている。その小さな明かりの中、ルーシュは机に向かい、黙々と歯車を磨いていた。
目の前にあるのは、古びた懐中時計。文字盤は黄ばんで煤け、針は折れ、裏蓋の刻印もほとんど読めない。
助祭が倉庫の片付け中に見つけ、「もし直せるなら試してみろ」と渡してくれたものだった。
工房の扉が、冷たい風に押されてきしんだ。
教会時計技師、ルドルフ・アイゼンベルクが、雪を払うように肩をすぼめて入ってくる。
煤けた革の作業着に、分厚い指先。それでいて、どの部品よりも繊細に小さな歯車を扱うその手が、ルーシュにはいつも誇らしかった。
「また遅くまでやってるな」
ルドルフは口元を緩めつつも、どこか呆れたような声で言う。
それでも、すぐに手元の懐中時計に視線を落とすと、職人の顔になる。ルーシュは苦笑しながら、歪んだ歯車を指差した。
「これ……直したいんです。でも、ここの歯車が、噛み合わなくて」
ルドルフは椅子を引き寄せ、ルーシュの隣に腰を下ろす。
机の上には分解された懐中時計。歯車はすべて外され、ゼンマイはほどけたままだった。
「歯車だけじゃない」
ルドルフは懐中時計の外枠をつまみ、内側の留め具を軽く叩く。
「油が乾いてるし、ゼンマイも疲弊してる。軸受けの摩耗も進んでるな」
そう言って、丁寧に虫眼鏡を覗き込む。
「でも、それでも、直そうとしてるんだな」
ルーシュは真剣な面持ちで頷く。
「……はい」
そのひと言に、ルドルフはふっと息を漏らし、懐中時計を手のひらで転がすように眺めた。
「昔な」
唐突に、懐かしむような声が落ちる。
「俺が王都で学んでいた頃、教授がよく言ってたんだ」
ルーシュは顔を上げる。
ルドルフの視線は遠くを見つめている。
「『時計を動かすのは、歯車でもゼンマイでもない。人の手と心だ』ってな」
「人の手と、心……」
ルーシュは呟く。
ルドルフは、軽く鼻で笑った。
「どれだけ精巧な機械でも、最後は手で組み上げ、心で命を吹き込まないと動かないってことだ」
ルドルフは歯車の一つをつまみ上げた。光沢の鈍い真鍮の歯車。微細な傷が、その表面に淡く光る。
「王都の神学校にはな、世界中の部品が集まる。技術者も学者も集まって、より正確な時を刻むために日夜研究してる。歯車ひとつひとつの役割を突き詰めて考える場所だ」
「……そんなに、すごいんですか?」
ルーシュは釘付けになる。
ルドルフは笑って首を振った。
「すごいなんてもんじゃない。国の頭脳だよ。たとえばこの地板ひとつでも、王都じゃ『百年は狂わない時計』を目指して加工される。ここじゃ真似できない職人芸だ」
ルーシュはじっと歯車を見つめた。手の中の部品が、別の輝きを持ち始める気がする。
「でも、ルーシュ。おまえはもうそれに気づき始めてる。そうだろ?」
ルドルフは懐中時計を机に戻しながら、ふっと微笑んだ。
「この村の時を整えるだけじゃなく、その先を見ようとしてる」
ルーシュは一瞬、返す言葉に詰まる。
「……でも、僕はまだ、歯車ひとつまともに削ることもできません」
正直に答えるその声には、悔しさよりも冷静な自覚が滲んでいた。
ルドルフはその様子に、満足げに頷く。
「それでいい。焦るな。お前には時間がある。歯車と違ってな」
二人の間に静かな時が流れる。時計のカチリ、カチリという音が、工房の空気を刻んでいた。
*
その夜。
作業を終えて明かりを落とした工房で、ルーシュはふたたび机に戻る。
蝋燭の光がゆらめくなか、懐中時計が静かに横たわっていた。
「僕は、まだ未熟だ」
胸の内で静かに言葉を転がす。
歯車の噛み合わせ。ゼンマイの巻き戻し。油の量、軸受けの緩み。ひとつひとつ、確かめるように指先を動かす。
ルーシュは自分の手をじっと見つめた。
かつては力がなくて井戸の水すら引き上げられなかった指先が、今ではこうして精密な作業をしている。
それでもまだ、この歯車を完璧に削るには足りない。
(……もっと技を学びたい。)
ふと、昼間のルドルフの言葉が蘇る。王都の神学校。百年狂わぬ時計。
胸の奥で、何かが音を立てて回り始めた。
だが、心のどこかで自らに問う。
(僕に、それができるのか?)
まだ答えは出ない。けれど、その問いが生まれたこと自体が、昨日までの自分と違う証だった。
***
数日後。
工房の外では、雪がちらつき始めていた。
ルーシュは息を吐き、白くかすむ視界のなかで懐中時計の蓋をそっと閉じた。
時計は、完全ではない。けれど今この瞬間、針は確かに時を刻んでいる。その音が、胸の内にしっかりと響いた。
ルーシュは胸元の琥珀のペンダントにふれる。
「……まだ、答えは出ないけど。」
ペンダントの重みが、わずかに彼の胸の上で揺れる。
「きっと、もっと遠くの時が、僕を待っている」
鐘の音が雪空に溶けていく。その音は、まだ見ぬ未来を静かに告げていた。




